三章、青嵐



 十六、
 

 ほとりと小首を傾げ、桜は「だれ?」と尋ねた。
 ならされた小路にはこんもり葉を茂らせた楠の家木が覆いかぶさり、洞のような暗がりを作っている。雨を呼ぶ厚い雲間から射し込む月光を浴びて、麗人は優美な臥蝶丸の描かれた浅緑色の狩衣をあきらかにした。なよやかな立ち姿から一瞬妙齢の女性かとも思ったが、衣装を見るに男のようだ。桜は顎を持ち上げて上背のある男を探る。自分に、かように品のよい知り合いはいない。であれば、丞相月詠の関係筋だろうかと考えていると、麗人は口元に広げた夏扇をあてがったまま、ふふっとたおやかな微笑をこぼす。

「さぁ、どこの貴人であろう。あててごらん」
「私は、桜」
「礼儀をわきまえた子だね。ふむ。それなら俺は気ままな旅人、ジョセフィーユ高田とでも名乗っておこうか」

 今、明らかにこの国の言葉ではない何かが出た。

「……タカダ、さん?」

 桜は眉根を寄せつつとりあえず聞き取れた最後の部分だけを口にする。「うん」と麗人は気安く顎を引いた。

「そなたは黒衣の君のところのお人形さんだね。緋色の目をしている。ひとりになってしまったのかな?」

 まるで今しがたまでひとりでなかったことを知っているみたいな口ぶりだった。桜はうなずくことも首を振ることもしなかったが、麗人は扇をひらりと翻して手廂を作り、あたりを眺めやると、「うん、やはり誰もいない」と呟いた。浅緑色の背からぬっと急に夜闇がかたちを帯びたかのようにふたつの影が現れる。気配には聡いほうだと思っていたのだけど、まったく気付かなかった。全身を黒装束で包んでいる、さながら芝居の黒子のような男たちは慣れた動きで麗人の左右を固めた。闇に紛れて見えにくいが、背後には一騎の牛車らしきものもある。まさかとは思うが、待ち伏せしていたのだろうか。
 
「うーむ、さっそく想定外だ。これは問題だぞ、稲城」

 麗人は扇を振って一本に戻し、もうひとり現れた、こちらは年嵩らしい文官服の男に言った。

「俺のまみえたい葛ヶ原領主というのははて、かようにいとけないおなごを夜道に放り出すような薄情な男だったのだろうか。聞いているのと話が違う」
「そうは申しましても、『彼』はひどい嘘吐きでございますから。もとよりすべて真を語っているわけでもありますまい」
「その点については否定せぬよ。『あれ』はまったくどうして油断も隙もない男だ。――なぁ、黒衣のところのお嬢さん。葛ヶ原領主、橘雪瀬は一緒でなかったのかな? 途中で別れてしまった?」

 文官服姿の男に緩い相槌を打ち、麗人は桜へ目を向ける。
 さりとて、麗人の真意がわからない以上、ここで不用意に口を開くべきではないと思った。桜は手に持った下駄を胸のほうへ抱き寄せ、じっと男を仰ぐ。しばらく視線の応酬があったが、麗人はやがて困った風に苦笑すると、衣擦れの音を立てて腰をかがめ、「そう警戒しないでおくれ」と。幼子にそうするように桜の目をのぞきこんだ。しらうおのごとき染みひとつない手のひらが何かに気付いた様子で桜の額を撫でる。走ったせいでかいた汗を拭ってくれたのだとわかった。

「別に取って食おうというわけじゃない。葛ヶ原領主と内々に話をしたくてね。櫛筍小路方面に向かうらしいと聞いて待っていたのだが、違ったのだろうか」

 暗がりではよく見えなかった白皙の顔が近づき、新緑を思わせる聡明さを秘めた翠の眸が焦点を結ぶ。あ、と桜は思った。この眸を、わたしは知っている。――背後でじゃり、と下駄が土を食む音がしたのは刹那だった。

「お聞かせ願いたいね。それはいったいどんな御用なんだろう、タカダさん」

 頬を撫ぜるあえかな風に導かれるようにして振り返ったその先に、青年がいた。先ほど別れたはずなのに、どうして。いぶかしむ、というよりは呆けてしまった桜に、「おとしもの」と彼は端的かつ簡素な答えを返して、何がしかを放る。反射的に広げた両手のひらが受け止めたのは、縮緬布に包まれた銅貨だ。衿元に入れたはずだったが、どうやら走っているさなかに落としてしまったらしい。未だ事態が飲み込みきれずに縮緬と青年とを見比べている桜の脇を下駄の歯を鳴らして通り過ぎ、橘雪瀬は麗人の前に立った。

「葛ヶ原領主を探していたんでしょう? ご丁寧に屋敷があるのとは別の場所で待ち伏せまでなさって、いったいどんな用件でございましょう」
「そなたが橘雪瀬かい?」
「ええ。今代葛ヶ原領主並びに橘宗家を継いでいるのはわたしです。このようにいとけないおなごをひとり夜道に放り出すような薄情な男ですけど、それで問題ないなら、どうぞお見知りおきを『朱鷺殿下』」

 それまで泰然としていた麗人と黒子たちの肩に緊張が走る。「いつから聞いておった」と声を低くして尋ねた麗人に、「気ままな旅人じょせふいゆ高田のあたりから」と答えて、青年はまた一歩、前へ踏み出した。麗人の左右を守る黒装束が腰に佩いた刀の柄に手を伸ばす。対する雪瀬は右に佩いた刀へは一顧だにせず緩く腕を組んだままだ。

「朱鷺殿下。廃嫡された『元』皇太子が俺に何の用だっての?」
「無礼を許そう。俺は、ひとかどならぬ心の広さを持っているのでね」

 雪瀬に向けて、というよりは左右の護衛に向けて言い、『朱鷺殿下』は肩をすくめた。

「何故わかった? どこかに名札でもつけていたかな」
「白髪に翠の眸の貴人なんて、都にそうはいらっしゃいませんよ。おまけに腰に真珠の懐刀を挿しているとくれば、子供にだってわかる」

 そうすると、子供にだってわかることが桜にはわからなかったというのだろうか。ひそかに萎れて息をこぼしていると、不意に雪瀬が言葉を切って、こちらを振り返った。表情を少し緩めて、「どうぞ」と道を開けるようにする。

「『ひょうたん屋さん』に行くんでしょ? 殿下は俺に用があるんだって。巻き込んで、怖い思いをさせて、悪かった」

 夜闇に細く伸びる道を示される。微かなためらいを覚えた桜に追い討ちをかけるように、「この子はなんにも関係ないから、いいでしょ? 殿下」と雪瀬が言う。反射的に、桜はかぶりを振っていた。桜のほうに拒まれることは予想外であったらしい。雪瀬は濃茶の眸を眇めて、こちらを見た。無言のうちに何故だと問われた気がした。だけど、桜のほうが問い返してやりたいくらいだ。目の前には刀を佩いた男がふたりもいるのに、どうして雪瀬を置き去りして逃げることができよう。唇を引き結んで、ぶんぶんともう一度大きくかぶりを振る。それに関係がないなんて言葉を、桜は受け入れたくなかった。この期に及んで受け入れたくないのだった。意地になって、刀の柄に手をかけている黒装束たちの前につかつかと歩み寄ると、ちょうど一歩ぶんの間合いのところで足を止めて、朱鷺殿下のほうを仰いだ。ほう、と男の温厚そうな眉がひそめられる。

「俺も、彼も、そなたはもう行っていいと言っているのに。とびきり勇敢なお嬢さんなのかな? あるいはお節介やきさんなのか」
「――私は、蝶を知ってる。あなたの妹の、蝶姫」

 虚をつかれたらしい。殿下の眸がひとつ瞬く。思慮深げな翠の双眸には緩やかに疑念の色が浮かんだが、桜は構わなかった。

「あなたが蝶の兄上なら、話がある。蝶はずっとスメラギ皇子のことを探してる。不安で、きっと本当はすごく不安で、たまらないの。蝶の兄上なら、ちゃんと蝶にスメラギ皇子の話をしてあげて。誰も何も教えてくれないって、蝶はさみしそうだった」

 はじめは怪訝そうであった眸が淡淡と晴れていき、鮮烈な何かが閃く。あっはっは、と明るい笑い声が弾けたのは直後だ。眸をぱちくりとさせた桜をよそに、朱鷺殿下はおかしそうに喉を震わせて額を抑える。左右の護衛が戸惑った様子で視線を交わしあった。

「なんと……これは奇遇。これは珍妙。俺が皇祇の話をする前に、そちらが皇祇の話を始めるとは」

 ひとしきり笑い声がおさまってくると、朱鷺殿下は宙を大きく振り仰いだ。

「なぁ、そなたもおかしかろう……」

 楠の影で沈黙を守っていた牛車を振り返り、元皇太子は微笑む。

「――皇祇」

 しこうして牛車の御簾をめくりあげて、顔を出したのはまだ幼い少年であるようだった。朱鷺殿下同様、雪華を思わせる白銀の髪を高く結い上げた少年は水干をひらりと翻して、乾いた地面へと降り立つ。うそだ、と桜は思った。川に落ちたはずの皇祇は五体満足であることはおろか、傷ひとつ見当たらない。じろりと高慢そうな顔つきでこちらを睥睨してきた少年の両肩に手を置くと、朱鷺殿下は翠の眸を和やかに細めた。春の新緑に温かなひとの情がよぎった。

「これがかような夜更けにそなたを待っていた理由なのだよ、橘の君。我が弟皇祇は言うにはばかれる事情でとある輩から命を狙われておる。皇祇を匿い、これから水無月会議の終わるまでの十日間守り抜いて欲しい。報酬は、そなたが望むものを望むだけ。領地でも地位でもなんでもあげよう」

 いったい何が始まっているのか。この手の駆け引きが不得手な桜にはさっぱりわからぬものの、殿下が提示したそれが破格の条件であることくらいは察せられる。そっと隣をうかがうと、雪瀬は濃茶の眸を冷ややかに眇めて朱鷺殿下を見ていた。その口元にふっと淡い苦笑が載る。

「金子」

 彼は意外なことを口にした。

「じゃあ、金子が欲しいな。荷車十台ぶんくらい。用意できるの?」
「そなたがそれを望むのなら、勿論。『元』皇太子を見くびらないでいただきたいな」
「それなら聞きますけど。俺の名を殿下に教えたのは誰? 俺も殿下も、互いを知らない。仲介した者が誰か、いるでしょう?」

 濃茶の眸が糸のように細まる。
 朱鷺殿下は首をすくめて、「つくづく用心深い御仁だな」と嘆息した。

「そなたのことは、俺の『協力者』が教えてくれた。なんでも葛ヶ原の橘雪瀬というのは心がとても優しくて、一度抱え込んだものは決して裏切れぬと」
「買いかぶりだねえ。俺は嘘吐きで、ひとを踏み躙って裏切ってばかりの人間ですよ朱鷺殿下」
「であるなら、俺が初めて、そなたが誠実でありたいと思う人間になりたいものだ。まぁどちらにせよ――」
 
 ぱちん、と扇を閉じ、殿下は言った。

「そなたも、そこのお嬢さんも、そして後ろで見守っている百川紫陽花殿、漱殿も。皇祇の姿を見てしまった。俺たちのいっとう大事な秘密をな。特にそこのお嬢さんに至っては、黒衣の君のお人形さんだ。このまま返すわけにはゆかない」
「では、衣川にまとめて放り込まれる? 皇祇皇子の亡き護衛頭みたいに」
「放り込まれるほどそなたらは愚かではないと、願っているがね」
「そういうの、脅しっていうんですよ殿下」
「ふふ。つまりそれだけ、切羽詰っているのだよ」

 殿下はにわかに声の調子を崩して、弱々しく苦笑する。桜が心を動かしたその表情にも雪瀬は無関心だった。
 
「ひとつ」

 おもむろに青年が口を開く。

「条件がある」
「ほう? 聞こう」
「報酬は金子。それはよろしい。ただし、もう一個付け足していただきたいんだ」
「いまひとつ、とは?」
「橘一族の始祖華雨は、二百年前光明帝が志を成し遂げたとき、褒美に橘の枝を下賜された」

 朴訥と関係の見えないことを語り、雪瀬はふと伏せがちだった眸を上げた。

「以来、葛ヶ原の領主はその座を先代から受け継ぐときに橘の枝を捧げて誓いを立てる。俺もひとふり枝を捧げて先代から家督を譲り受けた。枝は誓いの証。それを、光明帝の末なる殿下の御手から今一度いただきたいんだ」

 金子をと告げたのと同じ口で紡がれた願いは、まこと奇怪極まりないものだった。幾分拍子が抜けた様子で、朱鷺殿下は「ずいぶん欲のない男だな」と呟く。そうだろうか、と雪瀬は苦く微笑った。

「今の話を殿下がうなずいてくださるなら、誠心誠意、命を賭けて、皇祇殿下に仕え、お守り致しましょう。決して裏切ることはないと誓う」
「何にかけて?」
「先代の英名にかけて」

 葛ヶ原領主の答えに、朱鷺殿下は満足したらしかった。
 
「それでは、俺も光明帝の末たる己にかけて誓いを守ろう」

 朗々たる声音で宣すると、朱鷺殿下は皇祇皇子に己の懐刀を持たせて、肩を押す。警戒心をあらわにびくびくと仰いでくる皇祇を一瞥すると、雪瀬は「漱」と背後にたたずむ男を呼んだ。強い風が吹いて、不意に月が雲に隠れた。厚く立ちこめた梅雨雲を轟かせるように遠くのほうで雷鳴がする。まもなく訪れよう嵐の気配を感じながら、桜は元皇太子を乗せて去り行く牛車の音を聞いていた。


【三章、了】