四章、胡蝶の夢



 一、


 時折空を不穏に光らせる悪天の下を、一騎の牛車が駆ける。
 よく飼いなされた牛の牽く牛車だ。遠方で轟く雷の音にも黒い耳を揺らすだけで一顧だにせず、鞭で急かす舎人におとなしく従っている。ありふれた芒紋の描かれた物見窓は雨風をしのぐためにか固く閉ざされており、はためにはどこの貴人が乗っているのか判別がつかない。
 やがて牛車がさる古屋敷の前で止まる。南海の網代あせびの邸宅であった。あいにくと家主は丞相の宴に呼ばれていて不在であったが、しかれども、榻を踏んでしゃなりと降り立った麗人が頭からかぶった被布を少し掲げて目配せを送ると、門衛は「あ」と短い悲鳴をあげるや地に額をこすりつけんばかりに叩頭し、門の脇にしつらえた出入り口を開ける。ふたりの護衛を従え、戸をくぐる。家人に案内された部屋は離れの、南海由来の棕櫚の木陰になった一室だ。中にひとはおらず、しかし半分障子の閉められた縁に青い人影と、立てかけられたひとふりの刀が見えた。

「お待ちしておりましたよ、朱鷺殿下」

 不意に人影が声を発する。
 ぎし、と板敷きが軋む音がして、相手が身じろぎをしたのだとわかった。遅うなって済まなかったな、と詫びを入れれば、苦笑する気配があり、瑠璃紺硝子のちろりで猪口に酒を注がれる。朱鷺は敷居を挟んで縁のうちに座ると、護衛を立ち退かせた。この男と話すときは、ふたりきりになるのが常である。

「嫌な夜だな。雷の音がしよる」
「嵐が来るやもしれませんね。……葛ヶ原領主にはお会いになりました?」
「ああ、会った」
 
 朱鷺は重い衣を持ち上げて、行儀悪くあぐらをかくと、腰帯に挿していた扇を口元に持っていった。それは癖のようなものだ、思案するときの自分の。ぱた、と扇の骨をひとつ鳴らして、朱鷺は口を開いた。

「お前の言うように会ってはみた。が、信じてよいものか、まだわからぬ。阿呆ではないようだが……皇祇を渡してしまったことを少し悔いておる」
「でも、『彼』は皇祇殿下の御身を引き受けたでしょう」
「おれが脅したゆえな? しかし、条件をふたつもつけてきよった。お前はアレが心の優しゅう男だと言うたのに、とんだ詐欺ではないか」

 朱鷺が頬を膨らませながら吐き捨てると、風がさざめくように隣の男は微笑った。わらうでない、と口を尖らせつつも、頬は自然緩んでしまう。結局抑えきれずに声を立てて笑い、朱鷺は風に羽織をそよがせている男の横顔を見やる。棕櫚の翳りになっているゆえその表情はうかがい知れないが、心中を想像することはたやすい。もう短い付き合いではない男だ。三年前、南海の土地にて出会った、身を切らんばかりの憎悪と底無しの絶望と激情とを眸に滾らせた男。ひと目見て天啓を得た。おれは永年この男を待っていた。

「さてはて、お前の思うとおりに事は運ぶだろうか。お手並み拝見だな、アカツキ」

 眸を細める元皇太子に、男は黙して嗤う。




「い、や、だ」

 ところ変わって、東に位置する橘別邸である。その客間では、第十九皇子が愛らしい花かんばせを歪めて、いー、と舌を出している最中だった。童子とみまごう皇子の御手には、懐刀が握られている。中央に真珠の嵌めこまれた朱鷺殿下の懐刀である。そしてその切っ先を向けられている男はといえば、はぁ、と駄々っ子に手をやく母親のごとき顔をしてうずいてきたらしいこめかみを抑えているのだった。刀を向けているのは皇祇皇子、向けられているのは百川漱である。成り行き、橘のお屋敷にまで一緒についてきてしまった桜は今、客間にあたるらしい広い部屋にいる。

「ですからね、殿下。殿下はわたくしどもがお守りしますから、どうかその懐刀はおしまいくださいと申し上げているのです」
「だから、い、や、だ、と言うておる。お前はこの俺の! つまりこの神々しき目もくらむばかりに高貴な第十九皇子皇祇の命が聞けぬと申すのか!?」
「いえ、そうじゃあないんですけども……」

 胸を張る威勢のよい所作のわりに、皇子の言葉はどこか舌足らずでいまひとつ迫力が伴わない。皇祇皇子は蝶姫と双子の弟にあたるはずだから、桜とも同年、つまり今年十七になっているはずなのだけども、どう見ても十代半ば、下手すると前半くらいに見える。抜き身の刀を構えているという緊迫した状況にもかかわらず、どうにも締まらないのは童子さながらのその容貌のせいなのかもしれない。
 
「では、なんだと申すのだ!」

 皇子の金切り声に、漱はしかめた眉間をもむ。漱のすぐ鼻先に突きつけられている刀は宝石や飾りがたくさんついているせいでそれなりに重いらしい、痺れを切らした風に皇祇が刀を持ち直すたび、桜は皇子が刀を落とすのではないかとはらはらとしてしまう。桜とて流血沙汰は御免である。とりあえず皇子の気を落ち着かせるにはどうしたらいいのだろうとひとり思案に暮れていると、「――いいじゃない、好きなようにしていただけば」と襖を開いて入ってきた雪瀬が言った。一度いなくなったのは着替えをしていたからのようだ。さっきの品のよい浅葱の小袖の代わりに、木綿の風通しのよさそうな小袖を着流しにしている。雪瀬は刀を構える皇祇を一瞥すると、なんということはないそぶりであらかじめ用意されていた茵の上に座った。

「懐刀をずっと持っていたいのでしょ? 殿下。いいじゃない、そうしたいってんならそうさせてやれば」
「あのねぇ、雪瀬さま。それ、形こそ優美ですけど、ちゃんとひとが斬れる実用を兼ねた刀なんですよ? そんなものを抜き身で持ち歩かれては、わたしたちが落ち着いて眠れない」
「命が危ないって?」
「皇祇殿下の、です」

 今にも刀を足に落としかねない皇子の手つきを見やって漱が嘆息すると、雪瀬は「確かに」とおかしそうに笑った。それが気に食わなかったらしい。「何がおかしい!?」ととたんに皇祇が噛み付く。

「俺は! 言うことを聞かぬなら斬り捨てると言っておるのだぞ!」
「では、試される?」

 脇息にすいと腕を乗せて、雪瀬は嘯いた。意表外の申し出にたじろいだ殿下に、「お試しになられますか?」と慇懃に口調を変えて言いなおす。口元には微かな笑みが湛えられているが、冗談を言っているわけではないらしい。

「……斬ると言っておるのだぞ。お前は阿呆なのか?」
「殿下が仰るなら、そうなのかもしれない。殿下は尊い身分の御方なのだから、こちらに是非など問わず、心ゆくまで刀を振り回されればよい。このとおり、殿下の御前ではわたしも丸腰でございますので」

 肩をすくめる葛ヶ原領主に矜持を刺激されたのか、皇祇皇子はぎりりと唇を噛む。暫時、沈黙があった。左手で腰に挿した扇を引き抜いた男は、「それとも」と首を傾ける。

「そこについてる真珠よろしく、殿下の口もお飾りでらっしゃる?」

 無垢な、あどけないといっていい翠の眸が一瞬驚いた風に大きく見開かれた。その眸が揺れて、眦にさっと朱が走る。刀が、落ちた。薙いだ、というよりは、脇息にもたれる男めがけて刀身が落とされた、といったほうが近い。鼓動が大きく跳ねる。反射的に桜は飛び出しそうになるが、背後から伸びた女の細腕によって、すんでで抱きとめられた。そのときにはすでに事は決していた。鏡のように磨きぬかれた刀身、それを閉じた扇が受けている。皇祇は顔を真っ赤にして刀に力をこめているようだが、男がかざした扇はびくともしない。額に浮かんだ汗がこめかみを伝い落ちるに至って、皇祇は「くそっ」と呻き、刀を離した。

「扱いきれぬ刀など、持っていたって御身を危なくするだけですよ、殿下」

 肩で息をする皇子を苦笑混じりに見やって、雪瀬は畳に転がっていた鞘を拾い上げて差し出す。一瞥を送るだけの皇子に代わり、腰をかがめて抜き身の刀身を鞘に納めた。普段の淡白さとは打って変わって、こういうときの橘雪瀬の手つきは優しい。

「別にそう怯えずとも、取って食ったりなど致しませんって。わたしも金子は欲しいし、きちんとお守り致します。信じられないなら刀を持って歩いても構わないけれど、鞘にはおしまいください。殿下もお怪我はしたくないでしょ?」
「俺に指図する気か?」
「滅相もない。忠言、もしくは提言と取っていただければ」

 隙のない男の物言いに、皇祇は舌打ちをする。さりとて再度懐刀で挑みかかるだけの気力はもう残っていないようだった。

「お、おまえらなんか、お前らなんかなぁ……!」

 ふっくらした唇を悔しげに噛み、殿下は大きく息を吸った。

「お前らなんか、みんなダイッキライだーーーーーーー!!!!」

 涙目できっと一同を睨みつけると、皇祇は足元にあった茵を投げつけ、懐刀を抱えて部屋を飛び出した。ばたばたと激しい足音が遠ざかっていく。受け止めた茵を脇に置きながら、雪瀬は部屋の外に控えていた男に目配せを送る。言葉は交わされなかったが、すぐに雪瀬の意を心得たらしい男は影のようにその場からするりと離れた。

「……引き受けちゃって、本当によかったの?」

 一連の成り行きを見守っていた漱は、殿下が走り去っていったほうを見つめて嘆息する。雪瀬は苦笑した。

「そう言ったって今さら返品できるもんでもなし。しょうがない」
「わたしはきみは殿下の話を断るもんだと思っていたよ」
「ふぅん?」
「きみをどう説得しようかなって考えてた。珍しいねえ」
「俺もたまには欲を出すんですよ」

 懐刀を受け止めた扇の、少し切れた部分を指で撫ぜ、雪瀬は頬杖をつく。桜も知っている、考え事をするときの少年の癖だ。

「三年間参内を禁止されていたせいで、都で俺を知るひとはほとんどいない。なのに、名指しで推挙くださったっていう殿下の『協力者』がね。気になる」

 伏せがちになった濃茶の眸に、怜悧な閃きがよぎる。桜は、男の横顔を目を細めて眺め、それからふと未だに紫陽花に抱きすくめられているのに気付いた。慌てて身をよじる。

「ゴメンナサイ、さっき」

 皇祇に挑発をかける前、雪瀬の手は扇に伸びていた。紫陽花にはきっと最初から雪瀬の思惑が読めていたのだろう。あそこでもしも桜がむやみに飛び出していたら、反対に雪瀬や皇祇皇子の身を危なくさせていたかもしれない。しゅんと肩を落として詫びると、紫陽花はいつもの謎めいた微笑を浮かべて、「礼には及ばぬよ」と腕をほどいた。
 しかし、当事者である皇祇がいなくなってしまうと、この屋敷にひとり紛れ込んでいる自分が浮き立って、なんだか落ち着かなくなってきてしまう。そも、成り行きでおかしなことになってしまったが、桜はお酒を買うために月詠邸を出たのではなかったか。たぶんあれからもう一刻は経っている。あまり遅くなると、月詠に変な疑いをかけられてしまうかもしれない。それでも、どこか後ろ髪を引かれる思いがして言い出せないでいると、ぱたんと障子戸を閉じる音がして、雪瀬が「桜」と呼んだ。顔を上げれば、怜悧さが薄れ、柔らかな色合いを宿した濃茶の眸と目が合う。

「雨、降り出したみたい。傘持ってた?」

 言われて初めて、戸の向こうから染み出す湿った雨音に気付く。ふるりと首を振ると、「じゃあ、持ってくるよ」と雪瀬が言った。暗に帰りを促されているのだと、遅れて理解する。胸を暗い気持ちが塞いだ。

「わたしが持ってきましょうか?」
「うーん、いいよ。漱は殿下の様子を見てきて、いちおう」
「ああ、殿下が逃走をはかってたら困りますからね」
「うん。それは一大事だ」

 彼はくすくすと笑って腰を上げる。こちらには視線をひとつ寄越しただけで歩き出してしまうので、桜は雪瀬を追って急いで立ち上がった。

「……おじゃま、しました」

 漱と紫陽花に向かってちょこんと頭を下げる。どこかぎこちなさの抜けない桜の物言いに、漱は優しく微笑んでくれたが、紫陽花のほうは含みのある艶笑を浮かべて、「気をつけえよ」とひらひらと手を振った。はずみに亜麻色をした髪が肩を滑って、うなじのあたりに挿された紫石と銀の簪があらわになる。その、美しい石の色。胸が苦しくなって、桜は目を伏せた。