四章、胡蝶の夢



 二、


 雨音がする。庭に面している濡れ縁と違って、屋敷の内廊下はひどく暗い。ほとんど足元すら見えないその中を雪瀬は手燭の明かりひとつで歩く。ぼんやりしていると置いていかれてしまいそうで、桜は数歩先を行く彼の足音や明かりに気を配りながら早足で歩いた。
 雪瀬にとっての「普通の速さ」は歩幅の短い桜には「早足歩き」になってしまう。いつも、そうだった。ともしたら置き去りにされてしまうんじゃないかという淡い焦燥に駆られながら、桜は遠のく彼の背中を必死に追いかけるのである。紫陽花や漱といった面々がいなくなってふたりきりになると、どちらともなく口を閉ざしてしまって、宙ぶらりんの沈黙ばかりが耳についた。雪瀬は何も話さない。話して、くれない。まだ見慣れないオトコノヒトの背中を見つめながら、桜はそっと唇を噛む。だって、わからない。わからないことだらけだった。――コンインって、何? どうして紫陽花が雪瀬の奥方様なの。尋ねたいことは山ほどあるはずなのに、そのどれも言葉に変える術が桜にはない。
 さして長くもない廊下を行き止まりまでいくと、表の広いものとは異なる内玄関が現れる。下駄を突っかけて軒先から外に顔を出し、「やっぱり降ってる」と雪瀬はごちた。手燭を傾けて灯心に火をつけ、畳んであった提灯を膨らませる。遠雷がするが、雨音の様子からすると、そうひどい降りではない。霧雨くらいだろう。雪瀬にならって下駄に足を通そうとし、そこで桜は少しためらった。朱鷺殿下の一件ですっかり忘れていたが、鼻緒が切れたままだったのだ。右足だけを宙に浮かせて動かぬ桜をいぶかしく思ったらしい。雪瀬は提灯に照らされた足元へと視線を落とし、「ああ」と苦笑した。

「切れてんね」

 臆面もなくかがみこんで切れた縮緬を摘むと、「縮緬でなくてもいい?」と尋ねて、上げ框に置かれた木箱からよられた藁を取り出した。桜は小さく顎だけを引く。鼻緒が切れたのは無茶な走り方をした桜のせいだ。たとえ藁一本であっても新しいものをもらうことが申し訳なくて、しゅんと肩を縮めていると、雪瀬は別の意味に受け取ったらしい。「心配しなくても、ちゃんと直してあげれるよ」と言った。

「一回足を置いて。それで、そこに座って?」

 覚えているものより一段低い声が囁く。桜としては裸足のままでもよいから、一刻も早くこの場から逃げ出したくて仕方がなかったのだけど、雪瀬の声というのは昔から桜にとって不思議な力を持っている。その柔らかな声に乞われると、別に命令をされたわけでもないのに、桜は従順な犬か何かのように彼の言うとおりにしたくなってしまうのだ。刷り込みのようなものなのかもしれないとも思う。かつてものを知らぬ自分を導いたのは、彼の声で、手であったので。

「足は怪我してない?」
「へいき」

 こくんとうなずいて框に腰掛けると、雪瀬は切れて力なく桜の足指にかかっていた鼻緒と下駄を取り上げた。眼に藁を通し、右で押さえて左できれいに結び上げていく。相変わらず、魔法みたいに器用なひとだった。そのときふと別のことに気付いて、桜は伏せがちだった目を上げる。

「……雪瀬、左利きだった?」

 つと鼻緒を結んでいた手が止まる。よく見ると、それが桜がするのとちょうど逆の結び方であったので尋ねてみただけだったのだが、雪瀬は「ううん?」とあっさり首を振った。

「俺は、両利き。でも今は右の力があんまりないから、左が主なの」
「なくなった」
「うん」
「……いつ?」
「三年前」

 彼はひっくり返した下駄を桜の足に一度履かせながら答えた。三年前。その意味するところに勘付かぬ桜ではない。雪瀬の骨ばった右手の甲には薄い皮膚色をした傷痕があって、未だ醜く肌を引き攣らせている。なんだか泣きたいような衝動に駆られてしまって、膝に置いたこぶしをきつく握り締めて耐えていると、こちらを上目遣いにうかがった濃茶の眸が少し困った風に細められた。

「そんな顔しないで。別に、使えなくなったとかそういうわけじゃないから。不便してるってわけでもない」

 ――あつい、あつい右手のひらが。
 不意にその手が触れたときの温度が生々しいくらいに蘇って、桜は息をつめた。思わず自分の右手に目を落としてしまったくらいだ。傷ついて、いたのだと思う。あのとき。彼は。ひどく熱っぽい手のひらをしていた。桜の身体の奥の奥のほうに触れた、あの。

「紫陽花と、けっこん、するの」

 桜は自分の足元にかがみこんだ男の背を眺めながら、てんで脈絡のないことを聞いた。何も考えないうちに、勝手に言葉が口をついて出てしまっていた。濃茶の眸がふと桜を見る。さざめいた眸には夜の湖面にも似た深淵が湛えられており、ほんの一時自分には物慣れぬ、男と女の探りあいのようなものがあった。やがて彼は、するよ、と言う。

「冬になる前、秋口くらいかな。雪が降ると、山が閉ざされて、紫陽花のいる瓦町から葛ヶ原を越えられなくなるから。うん、でも祝い酒はいらない。丞相のアレは栓のないお戯れだから、そんなたいそうなモン担いでこなくてよいよ」

 軽口めかして続いた言葉に、乗るべきは桜のほうであったろう。けれど桜は言葉を詰まらせたまま、ゆるゆると目を伏せた。鼻腔がつんと痛んで、目の奥に熱いものがこみあげてくるのがわかった。それを目の前の男に悟られるのが嫌で、こぶしを握ってぎゅっと目を瞑る。だって、こんなに。改めて突きつけられた事実がこんなに胸を痛くするだなんて思わなかった。もしかしたら、心のどこかでまだなお信じていたのかもしれない。雪瀬がお嫁さんを娶るなんて何かの間違いじゃないかと。
 そう、きっと桜は夢を見るみたいに淡く信じてしまっていたのだ。三年前の、一度限りの行為。数え切れないくらいの閨をモノにそうするように扱われてきて、でもアレだけはそうじゃなかったんじゃないかって。桜は雪瀬にあいしてもらえたんじゃないかって。思ってしまった、信じてしまった。だけど、そうじゃない。本当は、そうじゃなかった。触れる手のひらが優しかったから、声が優しかったから、愚かな思い違いをしてしまったのだろう。あのときの雪瀬はひどく傷ついていた。身体も心も磨耗しきって、擦り切れそうになっているように見えた。桜はただ目の前にいたから、縋ったに過ぎない。雪瀬は、桜をあいしてなんかいないのだ。勝手な思い違いをして、傷ついている自分が、みじめでたまらなかった。そんな自分を見られるのが嫌で、たまらなくて。桜はきつく目を閉じ、身をこごめる。
 さくら、と不意に人間くさい、途方に暮れたような声が自分を呼んだ。顔をのぞきこまれそうになっているのが気配でわかって、軽い恐慌状態に陥る。桜はふるふると子供がむずがるように首だけを振った。腰を落ち着けているすぐ横に手のひらをつかれる。吐息がふっと固く閉じ入っていた瞼をかすめ――、「下駄できた。おしまい」。地に物を置く音をさせて、彼は言った。目を開ければ、綺麗に元通り結われている鼻緒がある。そろそろと目を上げると、彼は横に置いていた傘を取って桜に持たせてくれた。

「――無名。いる?」

 外に出た雪瀬が外の詰所らしきところに声をかけると、しばらくして以前と変わらぬ風貌の巨漢の男がのそりと板戸から顔を出した。桜の姿を認めて、少し驚いた風に太い眉を上げる。雪瀬は火を入れた提灯を男のほうへ差し出し、「しばらくぶりの麗しの君でしょう」と揶揄した。

「彼女を丞相邸まで送ってあげて。途中、櫛筍小路の酒屋さんに寄るのも忘れずに。酒屋のおじさんが起きてたら、ついでに桜サンにあったかくて甘いのをご馳走してあげるといいんじゃない? 寒くなってきたからさ」

 彼は懐から一枚安い銭を出すと、お駄賃、と言って自分よりはるかに上背のある男に渡した。それから、着流しの上にかけていた夏羽織をふうわり桜にかける。男用にあつらえられたそれはちっぽけな桜の身体を膝下まで覆ってしまって、きっと雨具の代わりに寄越したのだろうと知れた。意識せず、羽織の端っこを握り締めるようにした自分に、「それも傘も、返さなくていいよ」と雪瀬はやんわり告げる。

「遅くまで付き合わせて悪かった。……皇祇殿下のこと、丞相に言わないでいてくれたら嬉しいけど、言ってしまってもそれは構わない。桜の好きにしていいよ」

 おやすみ、と最後に柔らかな声で送り出される。
 そのとき唐突に、気付いてしまった。さっき雪瀬が漱の申し出を断って、わざわざ桜の見送りに付き合った理由。このためだ。『皇祇殿下のことを月詠に言ってしまっても構わない』、口ではそう言っているけれど、そんなことを聞かされてしまって桜が素直にうなずけるわけがない。桜の性格を、知らぬ彼ではないだろう。知っていて、釘を刺した。丞相には決してこの話をするなと。葛ヶ原領主は狡知だった、今の桜には容赦のないほど。
 いわないよ、と男が求めていた答えを口にする。微かな荷葉の移り香のする羽織を握り締めて、桜は悄然と屋敷をあとにした。