四章、胡蝶の夢



 十、


 四半刻ほどしてやってきた伊南に月詠を任せると、桜は『赤の殿』を出た。
 あたりはすでに日が暮れ始め、空は茜から深い藍色に染まりつつある。落ちるとき、太陽はひどく美しい金の光をこぼす。明日もまた雨になるのだろうか、西の空にまばらに浮かんだ金色の雲を仰ぎ、桜は砂利の敷き詰められた道を歩く。もう夕刻になるにもかかわらず、少しすると前方に賑やかな喧騒と長いひとの行列が見えてきた。橙の衣をまとった門衛の立つ官衙。中務卿玉津の執務所だ。
 どうやら宮城に入るとき列をなしていた商人たちはみなこちらに向かっていたらしい。今はちょうど水無月会議が終わった頃であるから、執務所に戻る玉津を待っていたのだろうか。おそらく玉や珊瑚のたぐいが詰め込まれているのであろう黒い櫃を見ながら、桜はふと先日の一件、ひと目をはばかる様子で玉津卿が御殿医の男と密談をしていたことを思い出した。そういえば、あのとき真砂はしきりにあたりのにおいを嗅いでいた。それから、四季皇子、という言葉。卿の護衛をしていた透一。みんなわからないままだった。

 ぼんやりとあちこちへ思考を馳せながら道を歩いていると、ちょうど水無月会議の開かれていた東雲殿へ差し掛かってしまった。会議の終わりを示す鐘が鳴ってからずいぶん経っていたので油断していたが、築地塀の近くでは諸処の領主や彼らを待つ小姓たちがたむろし、建物のほうからも微かな談笑の声が聞こえた。葛ヶ原の領主はそこにまだいるのだろうかと考える。いてほしくない、と思う。それと同じだけ、いてほしいとも思う。あのひとの声が、ききたい。だけど、先日のようにぼろぼろに傷つくのはもう嫌だ。
 相反する感情に桜が煩悶していると、こちらの思惑なんて関係なしに、しつらえられた門をくぐる濃茶の頭が見えた。まごうことない、葛ヶ原の領主さまだった。びっくりして、桜は垣根の後ろにしゃがみこむ。どうしてこうこそこそとするのが癖なのか、自分でも嫌になるくらいであった。中は熱気がこもっていたのか、ほんのり首のあたりを上気させた男は隣を歩く漱と何かを話しながら、衿のあわせを少し緩めてぱたぱたと手扇をした。何気なくよそへやった濃茶の眸が何かを認めて、優しく細まる。衿を振るのを止めて、彼は、おいで、と言った。まるくてやわらかな声だった。昔、夜に寝付くことのできなかった桜を抱き締めて、おやすみ、と囁いてくれるのと同じ声色だった。得も知れない力のようなものに引きずられ、桜はふらふらと垣根から出て行きそうになる。けれど、近くの茂みを揺らして、ひと足先に彼のほうへと駆けていったのは、貧相な黒い体躯の迷い猫だった。道を突っ切る途中、水たまりの水をしこたま浴びて泥まみれになった猫へと彼の腕はためらいもなく差し出され、濡れた毛玉みたいなそれをふわりと抱き上げる。野良猫や野良犬を見つけると、抱き上げて、うっとおしいくらい首や腹を撫ぜて回すのは桜の知っている彼の癖のひとつだった。そういうとき、男はまるで年端のゆかない子供のような顔をする。なぜ。どうして。そんなところだけ、まるで変わってくれていないのか。桜はくるしくなった。
 蝶はああ言ってくれたけれど、リャクダツなんて、桜にはきっと無理であろう。奪ってゆくのはいつも雪瀬だ。奪って返してくれないのはいつも雪瀬ばかりだ。もうかえして、ほしい。わたしのこころ。

「盗み見かのう?」

 ふと暗く沈んでいた思考に分け入るように艶やかな声が耳元で響いた。すぐ隣にかがみこんでしゃらんと簪を揺らす女を見つけ、桜は「ひゃ、」と飛びのきそうになる。悲鳴をあげかけた口元を覆って、しぃ、と指を唇にあて、紫陽花は桜の手首を引っ張って垣根の奥のほうへと移動する。未だ状況がつかめず、瞬きを繰り返す桜に紫陽花はくすりと笑った。

「そなたの大事な鑑賞を邪魔して悪かったの。あんまり無防備に呆けて見つめておるので、さすがにあやつも気付くであろうと思い、声をかけたのだが。いや、気付いてもらえたほうがそなたとしてはよかったのかな?」

 茶化すような口ぶりに、桜は頬を赤らめる。紫陽花の指摘は外れてはいない。気付いて、ほしかった。声をかけて、ほしかった。会いたくないのと同じくらい、そう願っていた。だけど、どうしてそんなみじめな胸のうちをこのひとに暴かれなくてはならないのか。

「気付かなくて、よかった。アリガトウ」

 頑なに意地を張り、必死に平静を装って固い声を返す。桜にすれば精一杯の嫌味も、この女性には痛くも痒くもなかったらしい。それはそれは、とくすくす鈴の鳴るような笑い声を立てるので、桜はいたたまれなくなって「じゃあ」と女に背を向けた。どうして紫陽花がここにいるのか、気にならないわけではなかったけれど、どうせ雪瀬に関連したこと以外ありえないので、あえて聞きたくもなかった。東雲殿の前を突っ切るのをやめて、迂回して外に出ようと元来た道を引き返す。しかし、少し歩いたところで桜は足を止めた。胡乱げな顔つきをして振り返る。

「どうして、ついてくるの」
「なぁに、そなたと方向が一緒であるだけじゃ。気にするでない」

 鷹揚に手を振られてしまうと、桜としては返しようがない。むっとした気持ちに駆られつつ、そのうち別れるだろうと思って、すたすたと足早に歩いていく。だが、いつまで経っても、後ろをついてくる女は離れず、どころか「のう、人形の君」と話しかけてくる始末だ。桜は紫陽花とちっとも話したくなどなかったけれど、話しかけられては無視ができないのが性分である。なに、と仕方なく応える。

「私はちと不思議でな。そなたはあの男にどうしてそうこだわるのだ。だってアレときたら、嘘はつくわ素直でないわ、そのくせ臆病者で、打たれ弱く、だというのにすぐに意固地にもなるから、連れ添うのはとても面倒くさいぞ」

 たとえば雪瀬が嘘吐きの臆病者で、打たれ弱く連れ添うのが面倒くさい人間だったとしても。それを別の女から指摘されるのはとても嫌だった。しったかおしないで、あのひとのこと。きゅうと眉根を寄せて、桜は目を伏せる。

「人形の君はよほど私が好かないと見える」

 普通なら苛立ちとともにこぼされるであろう言葉を紫陽花は愉快そうに言い、こちらの顔をのぞきこんだ。布で覆い隠した目元に、怜悧な紫の眸が見えた気がして、桜はつい足を止める。

「やはり、雛の刷り込みのようなものかの」

 ふっと紫陽花は嘲笑った。乾いた声で、見下すように。

「誰であれ、いちばん弱っているときに差し伸べられた手というのは胸の奥を叩くものよ。もしも、深く傷ついて倒れていたそなたを拾い上げたのが私であったのなら、そなたは私をあいしてくれただろうか」

 謎かけでもするように問う。答えなんてないのを知っていて、問う。だから、桜は。今度こそ自分の意思で歩みを止めて、紫陽花を振り仰いだ。

「そんなことは、起きない」

 微かに寄せられた眉根の、その下で自分を見つめているであろう真紫の眸を見据えて言う。

「私を拾うのは雪瀬だけ。もう一回やっても、十回繰り返しても、百回繰り返しても、千回繰り返したって、私の前には、雪瀬しかあらわれない。ほかのひとなんかあらわれない。それなのに、どうしてそんな話をするの」

 口にしながら、同時に追い詰められていく自分を感じた。ああ、わたしは。もう戻ることができない。わたしのこころ、返して欲しい、そう願っても、戻ることができない。たとえば、この恋は叶わないもので、終わりには絶望的な別離しか待っていなくとも。桜は引き返すことなんて、できやしないのだ。殉じるだけ。そういう恋をした。そういう恋をしてしまった。泣きたい気分になって口を引き結び、桜は頑なに背を張って歩きだした。