四章、胡蝶の夢
十一、
そのあとはもう紫陽花とはさっぱり口を利かなくなってしまった。
桜は頑ななしかめ面を作って、ずんずんと砂利道を歩いていく。けれど、紫陽花はそんな桜の様子を露と気にするそぶりもなく、つかずはなれずの距離でぶうらり下駄足を鳴らしながらついてくるのだった。
もしや紫陽花もまた、迂回して宮城を出るつもりなのだろうか。いぶかしみつつも話しかける気も起きず、黙々と歩いていると、ふと紫陽花が歩を止めた。女の布で覆われた視線の先には、高い塀と木組みで屋根瓦を支えられた門が見える。前年の地揺れでまだ修繕の途中であるようだが、中には蝶たち皇族の住まう殿が連なっているはずだった。が、その割には門を守る兵の数が少ない。
「地揺れのせいで帝や姫君、皇子たちは皆、別所に移り住んでおるのよ。今いるのは東宮くらいのものかの。四季皇子。どういうわけか、外に移りたがらず奥にひっそりこもっていると聞く」
紫陽花はしゅるりと目元の覆いを解いて、彩度の高い紫の眸を門のあたりに向けた。こうして見ると、人形師だった空蝉の眸の色よりもずっと濃い。真紫の宝石みたいな眸だった。その眸を鋭く細めて、「白浪殿、のう……」と紫陽花は胸元から取り出した折り文をいじって呟く。桜の視線に気付いたらしい、ぞんざいに差し出された文を、好奇心に負けてつい受け取ってしまい、開く。宛名に「橘雪瀬殿」、裏の差出人のところに「まさご」という見慣れた仮名を見つけた。上には「あなたのいとしの」とある。あなたのいとしの、まさご? 難しい顔をして桜がまだすぐには読めない漢字と睨めっこをしていると、かたわらの紫陽花があっさり「白浪殿の四季皇子、玉津卿と薬売りを調べろとあったよの」と答えを明かした。
「先日その文が軒に挟まっておってな。橘は見るなり、捨てろと言うたのだが、すこぉし気になった。よもや行方知れずの橘真砂とは思えぬのだが……」
いやいやいや、と桜は首を振る。どう考えても真砂だ。雪瀬にわざわざ「あなたのいとしの」で文を送るあたり、真砂以外の何者でもなかった。
あのひとときたら、蝶のもとを去っていったい何をしているのだ。あんなに、蝶を悲しませて。見つけたら首根っこを捕まえてもう逃げなくさせないと、とこぶしを固めつつ、桜は文にもう一度目を落とす。裏返したり透かしたりしてみたが、それ以外のことは何も書かれていなかった。そういえば件の玉津卿も御殿医との密談で「四季皇子」としきりに囁いていた気がするが、そのことと何か関係があるのだろうか。
「第四皇子四季といえば、玉津卿の外孫にあたる」
それは真砂に教えられて、桜も知っていた。
三年前虚弱を理由に廃嫡された朱鷺皇子に代わり、皇太子として立った四季皇子。四季皇子の正室は、玉津卿の孫娘だ。皇子が立太子して以来、外祖父にあたる玉津卿が宮中に舞い戻り、力を増していることも薄々。中務省の官衙に黒櫃を担いで並ぶ商人たちがよい例だ。商人どもは鼻がきく、と商家で生まれ育った菊塵は算盤を爪弾きながらよく揶揄する。彼らは訓練された犬か花に群がる虫のごとしで、権勢のにおいを嗅ぎつけるや、玉や珊瑚を山と積んでやってくる。人嫌いの月詠は、そういうものを煩わしがって厭うたので、月詠邸はあのとおりの寂れようだけれど、そうでなかったら金ぴかの御殿が建っていただろう、というのは同じく菊塵の言だ。
「四季皇子は近頃、表に顔を見せぬ。趣味の鷹狩りにもろくと出ておらんようだし、それがどうにも、気になっての」
ふうん、と桜は特に感慨もなく相槌を打つ。実際興味が惹かれないではなかったが、皇祇殿下や朱鷺殿下ともちがう皇子であったし、玉津卿まで絡んでくるとますます桜にはわからないことになってしまう。何より紫陽花とこれ以上深く関わりあうのは御免であった。だから、そう、と顎を引いて、「じゃあ」とくるりと背を向けようとしたのだけど。「まぁ待て」と紫陽花の手が桜を引き止める。
「盲の私を置いてゆく気かおぬし。薄情者よのう」
「盲?」
紫陽花の言葉に、桜は首を傾げる。
普段は目元を覆っているが、紫陽花の足取りにはそういう者に見られるおぼつかなさを感じたことがなかった。桜の胸中を読み取ったらしい。紫陽花は「確かに、今の私はものが見えんわけではない」と亜麻色の髪に挿した簪をしゃらんと奏でて顎を引いた。
「そなたが知っておるかはわからぬが、しらら視というのは本来、ひとならざる者を見る代わりに現の目を弱めるものであっての。白鷺の霊眼を借りておる橘とは少し勝手が違う。私は、しらら視としては過分の才を持って生まれたが、代わりに現の目をほとんど持たなかった。土も、空も、建物も、まことうすらぼんやり輪郭を取れるくらいにしか見えぬよ。そして代わりに、ひとにあらざる者が濃く見える。手に取るように見ることができる。魂を持つひとなら、よう見えるが、魂のやわらかな動物はやっぱりうすらぼんやりとしておる」
「でもこの前、本を、」
紫陽花の書見台に置いてあった書物を思い起こして、桜は尋ねる。紫陽花はああ、と口角を吊り上げ嗤った。
「あれはの、漱が幼い頃読み聞かせてくれたものを思い起こしているだけよ。今でもたまに気が向けば、隣で読んでくれる。それらを何度も反芻して、理解して、覚えこむ。百川紫陽花とはそういう、ひとりでは何もできぬ非力な女なのよ」
飄々として常に自負に満ちて見えた女には、似つかわしくない自嘲気味の笑みだった。それにぽかんとしてしまうと、紫陽花は「――であるから」と桜の手を取った。
「ちぃとこのか弱き女に付き合って欲しいんじゃ。心優しい人形の君。のう?」
次瞬、さっきの自嘲は嘘みたいに消え、女の面によぎるのは花のごとくに可憐なる笑みである。つきあうって? 訳がわからず、眉根を寄せた桜の手を引き、紫陽花はからんと駒下駄を鳴らして門前に向かった。門を守る兵たちがなんぞ、と眉をひそめる。その胸に紫陽花の手が伸びた。ふわり、舞い散る花びらが触れるかのごとき手つき。胸に触れられた男があっけなく倒れ、異変を感じて槍を構えようとした男の胸にもまた、ふわり。音のない紫陽花の動きは、さながら花嵐か何かのようだ。その姿に微かな既視感に駆られ、あ、と桜は思う。風術師。橘颯音。しゃらん、と簪を鳴らして再び紫陽花が地に降り立ったとき、すでに門と詰所にいた兵たちは皆倒れ臥し、あたりは静まり返っていた。渦中の女は息ひとつ乱していない。
「なに、したの?」
思わず倒れた衛兵のひとりのもとにかがむが、どうやら昏倒しているだけで息はある。紫陽花は薄く嗤い、「都は戦人形ばかり使っておるからのう」とひらりと手を振った。
「私にかかれば皆こうじゃ。さすがに五十、百とおれば難しいが。ちぃとな、四季皇子のおわすという白浪殿にお邪魔したいのよ。ほれ、人形の君。その寝転がってる男どもを隠すのを手伝っておくれ。私はこのとおり非力にて」
高飛車に命じられ、桜は閉口してしまう。なぜ、と問い返せば、「見つかれば、私は殺されてしまうもの」と紫陽花がくすりと微笑する。
「人形の君は心優しき娘ゆえ、私を見殺しにしたりはせんであろ?」
「紫陽花、わたしは」
「のう、人形の君? ほんに、たすけてほしいのじゃよ」
そういう言葉を言うのは、ずるい。そんな風に言われて、弱視の女をひとり置いてこの場を去れるほど桜は冷酷にはなりきれなかった。情に惹かれて、というよりこれは桜の心の弱さなのだろう。ほだされている自分に腹が立って目をそらしてしまうと、「やっぱり人形の君はヤサシイの!」とまったく嬉しくない賛辞をもらった。まだ助ける、と言ったわけではいないのに、倒れた男の頭を持たされ、いつの間にやらひとりひとり茂みに隠すのを手伝っているという始末。男たちを運ぶ紫陽花の足取りはやっぱり迷いがなくて、空も建物もぼやけて見える、といったさっきの言葉のほうがもしや嘘だったのではないかと疑いたくなってしまうくらいだ。仕方なくなって、ふぅ、と息をつく。それで心を決めてしまうと、男たちを運び終えた紫陽花に手を差し出した。
「白浪殿というところまで連れて行ったら、おわり。それで、いい?」
「無論じゃ。やっぱりそなたはヤサシイお人形さんよのう」
「紫陽花を私は連れて行く。だから、そのかわり、」
「うむ?」
「さくら、と呼んで。私はお人形さんじゃない」
普段は冷たい湖水を湛えたかのような女の目が、微かに瞠られたのがわかった。ほう、と呟き、紫陽花は紅を刷いた唇に緩やかな笑みを浮かべる。
「そなたはほんに面白いな。人形が人形でないと言うか」
「私は紫陽花のこと、ニンゲンとは呼んでいないでしょう」
「ああ、それは道理じゃ。人形を名で呼ぶのは好かんのだが……、まぁ、よい。桜、案内はしてくれるのだな?」
うん、とうなずいて、桜は歩きだした。
しかし、白浪殿まで紫陽花を連れて行くのは思ったよりもずっとたやすかった。何せ修繕でひとがひけているのもあるのか、中に警備の兵がほとんど置かれていないのだ。本来ならばいてしかるべき大工の姿も見えない。桜の視線に気付いたのか、何やらきな臭いのう、と紫陽花は愉快げに言った。
「そういえば、皇祇皇子は?」
「ああ、元気じゃよ。無名らと仲良くやっておる。だが、何があったかは一向に口を割らんのじゃ。よほど怖い思いでもしたのか、よくうなされておる。たぶんの、皇子は何か見てはいけないものを見てしまったのだよ。そして、見られては困る者たちに亡き者にしようとされた」
「みられてはこまるものたち?」
桜が首を傾げると、紫陽花は曖昧に言葉をぼかしたまま、話を続けた。
「真砂とやらに言われて、都の薬売りたちを少し調べた。そうすると、確かに玉津卿宛にたくさんの薬が運び込まれておる。まるで病人でも出したみたいにの。そしてそれは、数ヶ月前にぱったり、途絶えおった。代わりに運び込まれるようになったのは阿芙蓉(あへん)、辰砂、この意味がわかるか桜」
「くすりは必要でなくなってしまった?」
「必要でなくなってしまった。玉津卿の大事な病人は回復したのだろうか? それとも、……どうなのかのう?」
桜はふと玉津と御殿医が密談を交わしていた場所で、真砂がさかんに床板に顔を近づけにおいを嗅ぐようなそぶりをしていたことを思い出した。あれは何をしていたのだろう。床に落ちていた微かな白い粉。あれこそが玉津卿が御殿医に渡していた何かではなかったのか。考えていると不意に風向きか、微かに酸っぱい、饐えたようなにおいが鼻を刺した。
「ひどいにおいじゃな」
鼻を摘む紫陽花のかたわらで、桜はにおいのもとをたどる。まるで、腐臭のような。嫌なにおいだと思った。いきたくない。そんな衝動が突き上げてきて、桜は足を止める。昔から、普通のひとより桜はそういうことにずっと敏感だった。証拠に、手が汗ばみ、額にも冷えた汗が浮かんでくる。あじさい、と訴えようとすると、女は冷徹な目を奥に向け、「やはり何かあるな」と呟いた。ずるずると女に引かれるような形で奥へ進むにつれ、腐臭は強くなってきて、桜は胃のあたりから酸っぱいものがせり上がってくるのを必死でこらえるはめになった。あじさい、あじさい。弱く訴えるのだけども、紫陽花は歩みを止めないし、その手を振り切って背を返すだけの強さが桜にはない。けれど、ついににおいが誤魔化しきれないくらい強くなって、別の、あまい、気だるいにおいが混じり始めたのを知覚した瞬間、桜は歩くことができなくなった。膝から力が抜けそうなのを抑えてぎゅっと紫陽花にしがみついていると、「まったく面倒くさい娘よのう」と紫陽花が息を吐いて腕を絡めるようにする。汗ばんだ額についと指をあてられる。まじないだろうか、そうするとふっと胸にこごった息を吐くのが楽になった。
すでに白浪殿のすぐそばまで近づいていたらしい。老女官が歩いているのが見えたので、紫陽花に連れられて裏手のほうを回り、夕顔の垣根にそっと身をひそめる。そこはちょうど、四季皇子の御座所の裏庭であるようで、垂れ込めた御簾の向こうにおぼろに人影が見えた。あれが、四季皇子なのだろうか。目を凝らしていると、不意に御簾が引き上げられて、かつて真砂と見たあの御殿医らしき男が外に出て、女官を呼びつける。その先。ぼんやり灯りのともった室内に褥がひとつあった。豪奢な、金の縁取りのなされた褥だ。だけども、そこに横たわる人影はすでにひとのかたちをしていなかった。
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