四章、胡蝶の夢



 十二、


「……花病よの」

 褥をしばらく眇め見ていた紫陽花は、御殿医が女官を連れて立ち去るのを見送ると、やがてぽつりと言った。

「よく道端で身体を崩して死んでおる者がいるじゃろ。最初に花の痣のようなものが随所に浮かび、それが身体を広がるようにして、目を病み、鼻を崩し、耳を失い、皮膚が剥け、ひとの形を失って行く恐ろしい病ぞ。うちの婆のもとにも何度かこういうのが運び込まれてきたからよう知っておる。一度罹れば、治ることはなく、ひどい痛みを伴うものであるから、ほれ。ああして、阿芙蓉を焚く」
「あへん?」
「そうよ。数年前に西の大陸から入ってきた草でな。ああして焚くと、ひとの身体を麻痺させて、痛みを感じなくさせる」

 紫陽花は枕元のそば近くに置かれた香炉を指差し、説明する。見れば、枕元のそばだけではない、褥をぐるりと囲うようにして大小さまざまな香炉が所狭しと置かれていた。

「痛みを」
「それから辰砂……、防腐剤もあるの。しかし、若い」

 確かに、褥に投げ出された、かろうじてひとの形を保っている節ばった腕はまだ若い、男のものであるようだった。皮膚が剥げ、黄色い膿みをあらわにした頭に引っかかるようにして残っている髪房は、微かに光沢のある白銀。さらに虚空に向けてぼんやり見開かれた眸の色にも覚えがあって、知らず息がつまる。それは桜が知っている姫君と同じ翠色だった。

「第四皇子四季」

 紫陽花はくっと喉を鳴らした。

「日嗣の皇子がなんとも憐れなお姿じゃ。馬鹿め、花病に罹ったか。長いこと表に顔を見せなかったのはつまりこういうわけ」

 独語する紫陽花の言に、不意に思いつくことがあって、桜は「紫陽花」と女を仰いだ。

「あへんは、白い粉をしている?」
「ああ、そうじゃな。もとは花の実だが、近頃は粉末にしたものが入ってきていると聞いたことがある。なんだ?」
「玉津卿とお医者さまが話してたところに、白い粉が落ちてるの見たから。真砂と私」

 犬のマネー、とあのとき床板に鼻をくっつけながら真砂は言っていたけれど、正しくは床に微細に落ちた白い粉を探っていたのだろう。考えて、そのようなことを簡潔に伝えると、紫陽花はほう、と顎をさすった。

「つまり、知っておるのじゃな、玉津卿は。四季皇子にまつわるすべてを知って、隠し立てしておると。――それはそうじゃ。もしも皇子が不治の病と知れれば? 廃嫡じゃ。何せまったく同じ理由で朱鷺殿下を廃嫡したのはあやつであるからのう。朱鷺殿下がだめで、四季皇子がよい、では道理が立たぬ。だが、四季皇子が廃嫡され、ただの一皇子に落ちれば、外祖父として保ってきたあやつの権勢はそがれてしまおう。だから隠し立てしおる。ふふ、桜。面白うなってきたではないか」

 意味のつかみかねる言葉をぽつぽつと独語し、紫陽花は喉を鳴らしてまた嗤った。
 いったい何がそんなにおかしいのか。愉快なのか。桜には、わからない。紫陽花の横顔から目をそらし、御簾越しに力なく横たわっている皇子を見つめると、虚空に向けられていた翠の眸がふとこちらを見やった気がした。先ほど引き上げられた御簾のうちに垣間見た、病におかされた黄色に近い翠。それが自分を見ている。唇のめくれた口腔が何かを呟くが、ひゅうひゅうと空回る吐息の気配ばかりで声は聞こえない。もどかしさに駆られて、おもむろに桜は立ち上がった。夕顔の棚から外に出ていこうとすれば、気付いた紫陽花が「何をしておるのじゃ」と腕をつかんで止める。

「だってあのひと、たすけてって言ってる」
「たわけ、何も聞こえんであろう、つくづく獣みたいな娘じゃな! 御殿医に見つかる前に、戻るぞ」
「でも、」
「これ以上の深入りは無用じゃ。わかるであろ、桜」

 そう説いて伏せる女の目の真摯さに一瞬のまれる。その隙に紫陽花は桜の腕を引いて、きびすを返した。頬を撫でる弱い風の気配に、桜は背後を振り返る。何かを探すように目を凝らしたけれど、垂れ込めた御簾越しにはもう何も見えなかった。
 
 人気のない庭を足早に引き返す。幸いにも、門のあたりにまだひとはいなかった。とはいえ、倒した門衛たちの始末はどうするのだろうと考えていると、紫陽花は茂みに隠した男たちのかたわらに臆せずかがみこみ、すいと胸に手を当てた。たおやかな指先が男の胸をなぞれば、とたん彼らは眠れる人形に血が通ったかのように目を覚ます。寝惚け眼に身を起こす男たちに、「暑気にあてられたのかの。倒れておったよ」と微笑み、紫陽花は桜の手を引いて駒下駄を返した。

「あのひとたち、」
「問題ない。前後の記憶がこんがらかっておるだけじゃ。私らのことも覚えてはおるまい」

 砂利道を取って返しながら、「しかしそなた、ほんに馬鹿者じゃのう」と紫陽花は心なし青白い顔を歪めた。

「あそこで飛び出ておれば、今頃私たちはお縄ぞ。馬鹿の相手はほんに疲れよる……」

 ふ、と漏らされた呼気が荒い。気付いて、女を振り返れば、紫陽花は今しがたよりさらに蒼褪めた顔で胸を抑えていた。驚いて、へいき?、と女の身体を支えようとする。だがそのさなかに傾いだ身体が桜にもたせかかった。この暑気であるのに、血の気が失せてひどく冷たい。いったいどうしてしまったのだろう。あじさい。呼ぶけれど、女から返事は返ってこない。荒く息ばかりを繰り返す女を抱き止めると、桜はひとまず女の細腕を自分の肩に回してずるずると運んでいく。先ほどくぐった門がまだ遠目に見える。紫陽花は門衛たちは覚えてないだろうと言っていたが、少しでもこの場所からは離れておきたかった。
 力を失ってしまった身体は女とはいえ重く、小柄な桜が運ぶのはかなりの労苦を要した。西に傾き始めて心なし弱まった陽射しも、まだあたりの暑さを払うまでではなく、桜は汗をしとど流して女の身体を引っ張る。この宮城で桜が向かえる場所といったら、月詠のいる『赤の殿』以外になかった。情けないことに、頼れる男もそれしかいない。月詠は情などないに等しい男だけれど、桜がひとり女を連れ込んだところで顔を軽く顰めるくらいだろう。詮索はしないし、ひとを呼んだりもしない。そういう確信が、桜にはあった。
 息を上がらせながらなんとか『赤の殿』にたどりつき、女の身体を畳の上に横たえる。暑気にあてられたのだろうか。紫陽花の頬は青白く、手や指先もひどく冷たかった。あたりをうかがうと、予想に反して『赤の殿』にあるじはいないようだった。顔見知りの小姓に手ぬぐいを用意させて、自分は水を汲みに行く。不思議そうに自分を見上げてくる小姓の口に、薄荷水と一緒に買ったざらめ飴をひとつ入れてやり、「しぃ、してね」と口止めの約束をする。耳の聞こえぬ小姓の少年はけれど、桜の表情からだいたいを読み取ったらしく、こくんと首を振って、手ぬぐいをくれた。
 戻って、萎れた花のように横たわる女の額に絞った手ぬぐいを載せる。血の気が通うようにと冷たくなった手を取ってさすっていると、女はほどなく薄く目を開いて、「どこじゃ」と短く問うた。

「赤の殿。へいき?」
「最悪じゃ。頭は痛むし、吐き気はする、眩暈がする、目を開けているのもつらい、とにかく目の奥が痛くて死にそうじゃ」

 それだけまくし立てられるのなら、まずは大丈夫そうだ。桜が手ぬぐいを額から痛むという目の上に載せると、女は小さく息をついた。

「……あじさいは」
「うん?」
「うそつき。目はみえるんでしょう」

 答えが返ってくるのは期待しないで呟く。紫陽花はふふんと口元を歪め、ようわかったの、と言った。最初こそ、どちらなのかわからなかったが、しばらく一緒に歩いていれば女の足取りが澱みないことにはすぐに気付く。加えて、紫陽花は夕顔棚越しに四季皇子の状態を克明に語り、阿芙蓉や丹の話もした。彼女の目は、最初から見えていたのだ。

「だが、ぜんぶ嘘というわけでもない。さっき語ったのは私が十も半ばの娘であった頃のことよ。先祖返りと呼ばれるほどに強い力を持ったしらら視だった。だったが、私の霊視の目は十代の後半になるにつれ徐々に失われていった。今、二十一。視力は回復したが、しらら視の目は弱まるばかり。酷使すれば、ほれこのとおり。使い物にならなくなる」

 紫陽花は帯から目元に巻いていた布を抜いて、桜の眸にあてがう。女の視界を塞いでいるように見えた布はよく見ると、布目が粗く、外をぼんやり見通すことができた。諒解のいった桜が知れたのだろう。さわりと布を下ろして、女は自嘲気味に軽く嗤った。どうして、と桜は唇を噛む。こんなになるのをわかっていて、どうして。
 いつもひとを揶揄って楽しんでいるのだと思っていた。白浪殿に忍びこむのだって、ただの冷やかし程度だと。けれど、これではとんだ命がけではないか。

「あいしている男が、おるからの」

 俯きかけた桜に、女はふと言った。
 くるくると布を手で繰りながら、真紫の眸を細める。

「目のみえぬ私にひかりを与えたいとしい男。私は、その男の力になりたい。望みを、叶えてやりたい。奴が命を張った大勝負をするなら、私とて命がけじゃ。この身でできることならばなんだってする。――この道理がわからぬそなたではなかろ?」

 紫陽花は薄い笑みを唇に刷いたまま、けぶる睫毛を伏せた。あいしている男。その横顔に、淡くひそんだおんなの気配を垣間見て、桜は瞬きをする。紫陽花のあいしているひと。それは、雪瀬のこと?
 けれど、紫陽花の言っていることなら桜にもわかった。桜も、願っている。あのひとがもう、自分を傷つけるような生き方をしてないといい。しあわせを。願っている。ねがっている、あのひとがわらっていてくれるなら、桜はなんだってするだろう。

「……まだつらいの。少し休ませてもらうぞ」

 勝手に宣言すると、女は白い瞼を閉じてしまう。相変わらずの女の調子に嘆息が漏れたが、つらいと言っているひとを起こすわけにもゆくまい。桜は紫陽花の身体に羽織をかけ、手ぬぐいを絞りなおした。
 そういえば、雪瀬は少し前東雲殿のあたりにいたはずだ。ともしたらまだ宮城を出ていないかもしれない。思いついて、桜は小姓の少年を呼んで紫陽花を任せ、自分は裾を持ち上げて下駄を突っかける。桜ではどちらにしても紫陽花を橘の別邸まで運ぶことはできない。それなら、雪瀬に迎えにきてもらったほうがいい。ちくんと胸の端が微かに痛んだが、桜は小さく首を振って、東雲殿の方向へ走った。




 あれから時間が少し経ってしまっている。間に合わないのではないかと危惧したが、領主たちらしい後姿はすぐに見つけることができた。けれど、肝心の葛ヶ原領主がいない。雪瀬でなくとも、漱であるとか葛ヶ原のひとであれば誰でもいいのだけども。ちょこちょこ爪先立ちをして背の高い領主たちを仰ぎつつ、しかし見知った面影をひとつも見つけられず、桜は途方に暮れた。
 もしかしたら、まだ東雲殿のほうにいるのかもしれない。思いついて、くるりと下駄足を返す。そのとき、横から歩いてきた一団があって、危うくそのひとりと正面衝突をしそうになった。

「ひゃ、」

 とっさによけようとして前に転びかけたのを、差し伸ばされた腕によって支えられる。驚いて顔を上げると、腕のぬしはまさしく探していた青年であった。「桜?」と彼のほうも濃茶の眸を意外そうにひとつ瞬かせる。彼らしい柔らかな声に名前を呼ばわれ、深い安堵が胸を覆った。よかった、雪瀬。見つけられた。腰に回っていた腕が平坦な土の上に桜をおろすのと反対に、桜は男の袖端を引きやる。

「雪瀬。あのね、紫陽花が……、ぐあい悪そうで、それはしらら視の力のせいで、白浪殿からずっとそうで、」

 たぶんそのときの桜はずっと緊張しきっていた。紫陽花とふたりで白浪殿に忍びこみ、帰りにはひとりで女を支えて赤の殿に戻った。その間中ずっと張り巡らされていた緊張が男の声で不意に緩んでしまって、まるで幼子に戻ったみたいに止まらなくなってしまう。それで、それで。言い募ろうとする桜の口にふと手があてられる。四季皇子が。ぽろりと漏れた声はあてがわれた手の中に半ば吸い込まれたのだけれど。桜、と低い声で制止をかけられる。雪瀬の意図を汲んだわけではないのだが、つい反射のようなもので言葉を止め、桜はいぶかしげに雪瀬を仰いだ。それで、気付く。彼はひとりでそこにいたわけではなかった。南海の網代あせびや、百川漱、見知らぬ領主や付き従うひとびと。そして。

「ほう。我が愛孫、四季皇子がなんだというのだ娘」

 耳障りなほどに高い男の声が聞こえて、桜は背後を振り返る。
 紫の頭巾を目深にかぶり、耳までを覆い隠した男。玉津卿が、そこにいたのだった。