四章、胡蝶の夢



 十三、


 ぱちり。畳んだ檜扇が音を鳴らして開かれる。
 夏初めにふさわしい淡木賊色の直衣に身を包んだ玉津卿は、開いた檜扇を口元にあてがい、「それ話してみよ」と言った。

「四季皇子がどうなさったと? 東果ての領主殿にお話したように私にも話してみせよ、娘」

 化粧を施した真白い顔とはうらはらに、男のたるんだ瞼奥にひそむ眼光は鋭い。蛇がごとき眸でひたと見つめられ、桜は弱く喘いだ。失言を、した。このような場所で四季皇子などと。逃れようのない失言をしてしまった。玉津卿の後ろには腰に太刀を佩いた黒装束の男たちが控えており、まるで言葉次第では即刻斬り捨てるとでも言いたげだ。
 ぎゅっといつの間にか強く握り締めていた浅葱の袖端を離すと、桜は震え出しそうになる胸中を奮い立たせて玉津卿を仰ぐ。檜扇越しに、にび色の眸がこちらを探り見る。やがて男はうっそり目元を細め、「四季皇子であるなら、今日は趣味の鷹狩りに万葉山に出ておるがの」と空惚けた。

「日嗣の御身ゆえ、そう外にお出になるなと再三申しておるのに、なかなかじじの言うことを聞いてはくれぬのよ。まったく皇子の放蕩癖を落ち着かせる手立てはないものか」

 取り巻きたちと玉津卿が笑い合う。そうして桜にひとつも口を挟ませず話を終わらせてしまうと、はよう道を譲れ、とばかりに高慢に檜扇を振った。背後で領主たちが身じろぐ気配がするが、桜は玉津卿を見つめたまま微動だにしない。
 だって、桜は腹が立ってしまっていた。四季皇子の、あの姿。病のせいで身体は半ば腐れて崩れ落ち、痩せた喉ではたすけて、と誰かに訴えることもできない。阿芙蓉を焚いて、防腐の丹を塗り、無理やりに生かす。とても、医者のすることではなかった。あれでは。あれでは、皇子があまりにもかわいそうだ。このひとは、皇子のおじいさまでもあるのに。

「どうして嘘をつくの」

 白々しい笑い声に耐えられなくなって、桜は眉根を寄せた。
 見なかったことに、知らなかったことにしなければならないことが痛いくらいにわかっていたけれど、どうしてもできそうにない。できるわけない、目が合ったあのとき、皇子は確かに桜にたすけて、と言ったのだ。こぶしをぎゅっと握りこむと、桜はにわかに頬を引き攣らせた玉津卿を見据えて、言った。

「四季皇子は病をわずらってる。皮膚がぼろぼろになって、痛そうで、とても苦しそうだった。どうしてあのお医者さまは何もしてくれないの。あんな、あんなひどい――」
「いい加減にせよ! この無礼者が!」

 ばしっと眼前で激しい音が打ち鳴って、視界が瞬時に赤く染まった。
 畳んだ扇で額を叩かれたのだと、遅れて理解する。目の前には白粉を塗りたくった顔を怒りで赤黒く染めた玉津卿の姿があった。

「四季皇子がそのようなみすぼらしい姿になっておられるなどと! 侮辱するにもほどがある。おまえの魂胆は読めておるぞ娘。丞相の差し金だろう。私や皇子を貶めようと、そのようなことを申しておるのだろう! なんと賤しきことか!」

 二度三度と続けて叩かれる。桜はか弱い娘らしく倒れてしまったり腰を抜かしてしまったりはしなかった。ただ、それこそ紫陽花であったのなら、阿呆めと嗤うような姿でそこに突っ立っていることしか。瞼の端を切ったのだろうか、目の前が赤くてよく前が見えない。

「跪き、そこで詫びよ」

 玉津卿は言った。

「嘘をついていたと詫びてみせよ」

 額が熱い。桜はゆるゆると顔を上げ、玉津卿を見やった。
 小さく首を振る。

「私は、嘘をついてない。だから、謝ることはできない」

 刹那、玉津卿の腕が振り上がったのを見た。次瞬には飛んでくるであろう扇を思って、身体が固く強張る。ばしっとひときわ大きな音が鳴った。桜は目を瞑る。だけども、いつまで経っても、打撃は襲ってこない。不思議に思っておそるおそる目を開くと、桜の前に立ちはだかる浅葱色の背中があった。

「……女子供を何度も叩くのはよろしくないでしょう、玉津卿。次の帝の祖父となられる御方なのだから」

 しずやかに言葉を紡ぐと、雪瀬は細く息をつき、袴裾を持ち上げてその場に跪いた。

「そこの娘が吐いた暴言を最初に聞いて咎めなかったのはわたしでございますので。代わりにお詫び申し上げます。数々の無礼をお許しください、玉津卿」

 すっとその背が折られる。無音の風が吹きぬけた。衣擦れひとつ立てない男の所作は無駄がなく、清冽な荷葉のくゆりもぞする。それは桜を圧倒し、射すくめるに足る静寂であった。どうして。桜はこんな風にできない、こんな風にうつくしく背を折ること、できない。

「――とまぁ、我があるじもこう申しておりますし、」

 にわかに沈黙したその場に明るい声を響かせたのは、漱だった。にっこりと持ち前の屈託なさで微笑むと、漱は玉津卿の足元に片膝をつく。

「ほーら、玉津様も扇をおしまいになって。らしくないですよ、こんな女の子ひとりにいきり立つなんて。逆に、よもや、って思ってしまいそうになるじゃないですか。ねぇ?」
 
 あっはっは、とひとり愉快そうに笑い、漱は首を傾ける。顔こそ笑っているがその眸には相手の腹のうちを探るような怜悧さが湛えられている。舌打ちののち、玉津卿はあからさまに顔を顰めて檜扇をしまった。

「ふん。つまらぬものを見て気分が悪うなった。行くぞ」

 取り巻きたちにそう言って、玉津卿は淡木賊色の直衣をもったり揺らした。すれちがいざま、玉津卿のにび色の眸が不意に跪く雪瀬を捕らえる。

「――女子供を、とはよくいうわ。己がしでかしたことをよもや忘れたわけではあるまい、葛ヶ原領主」

 卿が目深にかぶった頭巾を少し引き上げると、耳のない不自然に平坦な頬が出てくる。桜が息を呑んだ異形にも、雪瀬は別段感慨を抱いた風でもなく、ただ少し眸を眇めた。

「よぅくこの姿を目に留めおけ。この姿を。この憐れな姿を。おぬしのしでかした野蛮極まりない行為の数々を。のうのうと東果ての領主におさまっておれるとは思うなよ。私が帝の祖父となったあかつきには最初におぬしの両耳と鼻をそいで見せ物にしてやりおる」
「恐ろしいことを仰る」

 まったく恐ろしいと思っていない口調で言って、葛ヶ原領主は艶笑した。透き通った微笑い方をするひとが嘘みたいな、毒のある嗤い方であった。

「もしもそうなったら、喜んで。わたしはあなたに両耳と鼻と、ついでに目玉ふたつを揃えてお待ちしておりますよ、玉津卿。次は使える刺客を寄越すんだね」

 冷ややかに目を伏せた男に、ほざいておれ、と玉津卿は吐き捨て、取り巻きたちを連れて道を譲らせた。卿の一団がいなくなると、どことなく緩んだ吐息がそこかしこで漏れる。淡木賊色の背を見送った漱が立ち上がって、「だいじょーぶですか?」と雪瀬に懐紙を差し出した。桜はおずおずと雪瀬を見上げる。さっきの艶笑は嘘のように消えていたが、懐紙をあてた頬は少し腫れているようだった。後悔の念がせりあがってくる。桜が変な意地を張ったせいで、雪瀬は代わりにぶたれて、それだけでなく、跪いて、謝らされてしまった。きよせ、と叱られる前の幼子みたいな情けない声を出すと、彼は自分のほうをつと見やる。名前を口にしてはみたものの、言葉が続かず、いたたまれなくなってそろそろと目を伏せる。息が潰れて消えそうだった。

「わたし、」

 みなまで言う前に、ひんやりした懐紙を瞼の上に当てられた。

「血がでてる」

 彼の言葉は端的であった。はたりと睫毛を震わせた桜にそっと懐紙を押し付けるようにすると、「漱」とかたわらの男を呼んだ。

「帰るよ。帰ったら、門に塩盛って呪詛返ししとけ」

 ぞんざいに言って、雪瀬は桜が懐紙の端を指で押さえたのを見て取ると、手を離した。それから、「ああ、紫陽花がなんだっけ」と最初に話を戻す。桜は、今度は四季皇子と白浪殿のことには触れないよう気を払って経緯を簡単に話すと、『赤の殿』にふたりの男たちを連れて行く。先ほどより具合はよくなったらしい。紫陽花はきざはしに座って、小姓の少年と綾取り遊びをしていた。むかえにきたよ、と男が促せば、女は甘く微笑って差し出された手を取る。
 すぐ脇を、浅葱色の袖が翻って、いなくなる。桜はただそこにたたずんで、赤の殿を辞する三人を見ていることしかできない。いかないで、と桜はふと思った。おねがい。いかないで。いかないで雪瀬。雪瀬は桜に目もくれない。目もくれないで、紫陽花とともに行ってしまう。きざはしの下にぽつんとたたずんで、桜は血が点々と滲んだ懐紙を握り締めた。胸の奥が、ひどく痛かった。さみしかった。さみしくて、くるしくて、ひどく、くるおしい。その感情を、桜は知っている。かつて、暴力じみた口付けのさなかに彼が教えた。彼が与えた。いとおしい。いとおしい。かなしいくらいに。いっそ、ああ、あのとき息をぜんぶ奪ってころしてくれればよかったのに、と桜は目を閉じて思った。





 身体を弛緩させるかのような、甘く気だるいかおりが雨音に混じって濃くくゆっている。これはいったい何の香だったろうか。箱枕に頭を横たえたまま、氷鏡藍はぼんやり考える。
 少し前まで、短い夢を見ていた。今もまだ、夢の中にいる。夢の中の藍は、年端のゆかない小さな娘に戻っており、満開の桜の下、小さな少年と手を繋いで暖かな樹の幹に頬をくっつけているのだった。凪ちゃんだ、と舞い散る花群れに隠れて見えないその小さな少年が、藍には繋いだ手のひらの感触でわかった。なぎちゃん。わたし、なぎちゃんと手を繋いでいる。刀を知らない凪ちゃんの手は、生まれたての赤子のように柔らかで温かい。穢れのないその小さな手を握っていると、深い安堵が藍を満たした。なぎちゃんは、わたしを呼んでいるのではないかと藍は思う。空の向こうからわたしを呼びに戻ってきてくれたのではないかと。それは、気が狂いそうになるくらいの、幸福だった。花が舞っている。

「――藍」

 夢の浅瀬を彷徨っていた藍を覚醒させたのは、静けさをまとった男の声だった。重い瞼を押し上げて、うっすら眸を開けば、額に手を置かれる。ひんやりした、白く滑らかな手のひらだった。さらりと前髪をいじる手越しに、黒と淡紫の双眸が微苦笑に細められるのが見えた。

「遠いところへ行っていただろう」

 まるで藍が見ていたものを盗み見たかのような口ぶりで言う。しかしそれに対して驚いたり、腹を立てたりする気分にはなれなかった。藍は男とおんなじ風に微苦笑をして、「桜がとても美しかった」と答える。それから箱枕にもたせていた頭を少し動かして、男のほうを仰いだ。暗闇にひとつ灯った蜜蝋に照らされた男は、いよいよほの白く、闇に浮かぶ月か何かのように見える。

「今宵はいったいどんな酔狂でございましょう」

 今上帝の妾になって以来、月詠が自分を訪ねてくることはほとんどなくなっていた。不思議に思って尋ねると、男はくつりと白い喉を鳴らして、藍の額にかかった前髪を戯れのごとく梳く。

「おまえの見舞いに来るのは酔狂か」
「酔狂です。ほとんどしていただいたことがない」
「ふふ、おまえの主人は薄情であるゆえな」

 薄情なのではない。ただ気まぐれなだけだ。
 藍は思ったが、浅く首を傾げるにとどめた。短い間、男の苦笑が夜気にさざめいたがそれだけで、やがて、吐息の音すらひそめてしまいそうな静寂が戻る。盛夏であるにもかかわらず、まるでぬくもりを感じないのは藍が悪い熱を出しているからだろうか。

「いつからだ?」
「いつ、とは」
「悪い熱をもらったと。ずいぶん長く床についておると伊南が心配していた」
「身体が少しだるいだけです。伊南は、いつも大げさにものを言う」
「おまえが心配なのだろう。あれは心根のやさしい男であるから」

 この男からそんな言葉が出るとは思わなかった。なんだかおかしくなってくすくすと笑い声を立ててしまうと、きれいな手のひらが幼子にそうするように額から目元を覆う。幼い頃からそうで、この冷酷非情な男は藍にいたく甘い。まるで自分の娘か何かを扱うように接する。
 藍が――、毬街のしがない商家の娘であった、氷鏡藍が白雨黎に出会ったのは、五歳になったかならぬかの幼い時分であった。藍の母は何代か続いた毬街の商家の娘で、流れ者であった素性しれずの父と堕ちるような恋をして、藍と兄とを産み落とした。藍の父は美しく、藍の母もそれに負けないくらい美しい女であったと聞くが、藍の知っている母はすでに酒に溺れ、言葉もままならぬ狂女の姿でしか記憶されていない。藍の父は、藍が物心つかぬうちに死んだ。ある冬の寒い朝、身体中の血を流して落雁大橋のたもとの水面にぽかりと浮いていたのだった。身投げであったのか、はたまた賊に襲われたのか、いまをもって何があったのかは知れぬ。
 最愛の父を突然に失った母はもともと尖りがちだった精神をますます鋭く、脆くした。あのこがやってくる。あのこがやってくる。虚空を見つめてぶつぶつと呟き、かと思えば髪を振り乱して窓という窓、扉という扉を閉めて回る。数年後、もとより虚弱であった兄がぽっくり、これもまた冬の寒い朝に逝くといよいよ心までおかしくして、夕餉の煮汁の野菜を切っていた包丁を取り出してきて急に藍を切り捨て、己も首をかき切って死んだ。あのこがやってきた。藍の母の最期の言葉はそれだった。
 母に肩を斬られた藍は、襖の奥に隠れてひとり震えていた。母が死んだあとも、怖くて震えていた。白雨黎という名の美しい青年が現れたのは、このときであった。のちに月詠を名乗り、国の丞相まで上りつめる青年はこのときまだ十八の若者であり、相棒を自称する空蝉と各地を旅する流れ者であった。
 商家に立ち寄って、襖の奥に隠れた藍を見つけ出したのが、黎だった。藍のちいさな身体を抱え上げると、「まだ正気なのがひとりいる」と白い喉を鳴らして嗤った。ひと目見て、ひどくがらんどうな目をしているひとだと思った。狂気のうちに果てた母の、真っ黒な目と似ているようで異なる、静寂がその目にはあった。静寂をひそませた男の横顔はたいそう美しかった。

「……泣かぬのだな」

 端正な横顔をじっと見つめていると、ふと彼はこちらに黒い双眸を向けて呟いた。肩の焼け付くような斬り傷を言ったのだろうか。それとも足元で無残に死した母のことを言ったのだろうか。わからなかったが、藍はうなずきもせず、かといってやはり泣きもせず、ただ男を見上げていた。暫時ののち紗の落ちるような涼やかな衣擦れの音がして、男が藍の前に跪く。手を、差し出された。月のひかりを帯びたかのような、真っ白な。

「俺と共に来るか、藍」

 どうしてこの美しいひとは、わたしのなまえをしっているのだろう。
 だけど、そんなことはきっとどうでもよかった。
 あい、と。その声に己の名前を呼ばれたとき、不意にくるおしいくらいの深い懐かしさを覚えた。ああ、わたし、あなたにあいたかった。ずっと、ずっと、あなたにあいたかったの。ぽろぽろととめどなく溢れた涙が頬を伝う。藍は、男の手を取った。思い返すたび、その瞬間こそが自分が道を踏み外したときではないかと思うのだけども、何度繰り返したところで藍はきっと男の手を取るのだろう。そんな記憶であった。

「また、遠い場所へ行っていたろう」

 いつの間にか思いにふけってしまった藍を揶揄して、月詠が言った。藍は遠くへやっていた視線を男のほうへと戻し、曖昧な笑みを口元に載せた。

「昔のことを思い出していたのです」
「むかし」
「さっきは凪ちゃんの夢を見ました。手を繋いでくれていたの」
「藍」

 睫毛を震わせて目を上げると、目元のあたりを覆っていた手のひらが額に移って前髪をかきやる。気まぐれな男はふとひどく優しい表情をした。

「見舞いの品を持ってくるのを忘れてしまった。何か欲しいものを言ってみよ。次来るときには必ず持ってこよう」
「なんでもくださると仰る?」
「ああ、なんでも。お前の望むものをやろう」

 のぞむもの、と与えられた言葉を反芻し、藍の虚ろだった眸ははっきりと男を捉えた。

「それなら」

 なぎちゃんのところへゆきたい。
 ゆきたい。ゆかせて。

「くちづけて」

 ともしたらこぼれおちそうなくらいの切実さに、男は気付いただろうか。視線が絡む。得意の駆け引きを、藍はすることができずに目を閉じた。衣擦れの音が立つ。瞼裏を明るくしていた蜜蝋の光が翳って、甘く身体を弛緩させる香りが鼻腔をかすめた。唇を押し当てられる。瞼の上に、そっと。ゆるりと睫毛を震わせると、淡雪のような呼気をひとつ残して唇が離れる。藍はわらうでもなく、なくでもなく、男を見つめた。絶望を、していた。あまりにも、あまりにも、やさしい口付けに、この不毛な恋の、行き先を見た。
 
 
 
 数日後、藍の熱はおさまるが、もう数月娘に月のものは訪れなくなっていた。


【四章・了】