五章、乞巧奠



 一、


 水無月末。
 その晩の月はまだ昇っていなかった。肥え太った、見る者に感慨も抱かせないゆえ、名もついておらぬ二十日目の月である。月というのは細く欠けているのがいちばん美しいと、月を名に冠した丞相は嘯く。しかし彼はそうは思っていなかった。月はやはり満ち満ちたあの姿こそ、観賞にあたう充足がある。
 大内裏の西に位置する大屋敷、玉津邸である。屋敷の主人である玉津卿そのひとは、冷やした酒を口に運びながら、半月後に迫った乞巧奠(きっこうでん)の宴の式次を確認していた。水無月会議の終了とともに執り行われる乞巧奠は、本来はかの有名な棚機伝説に由来する、裁縫や芸事の上達を願う祭である。当日は、外庭に葉薦と長筵を敷いて朱漆の机を置き、その上に真桑瓜や梨、大角豆などを並べ、はやる秋の音を奏でる一面の筝を飾り、皆で五色の短冊に願い事を書く。その際に、皆の前で筝を弾く娘を選ぶのは中務卿の役割であった。下官が候補にあげてきた貴族の娘たち、女官たちの名の中から、筝を弾く者、筝を調弦する者、筝を運ぶ者、と半年ほど前には内々に決定し、役にあたった娘たちに伝えていた。今年の筝弾きには当初から、氷鏡の藍をと推挙する声が多かった。藍の筝の腕は確かであったし、何よりあの娘は老帝の今時分のいちばんの寵姫だ。丞相方の娘であることが玉津にとってはつまらないでもなかったが、ここで却って自分の娘などを無理やり押し通したりすれば、やれ玉津卿は身内贔屓だの、狭量であるだの影で叩かれよう。そうであるなら、氷鏡藍を推して、己の懐の深さを示すほうが得策であると当時玉津は考えた。
 その出で立ちから美食女色にふけっていると民草からの人気はいまひとつである玉津卿であったが、食はともかく、女に関してはいたって真面目で、玉津が十代のとき、年端もゆかぬ女童のなりで嫁いできた公家の女を未だに大切にしている。側室のたぐいもいない。若い時分は女と遊んだこともあったが、それは玉津にとっては火遊びの類に過ぎず、時が経てば、必ず正室の鬱金姫(うこんひめ)のもとに戻った。子どもも多い。すべて鬱金に作らせた子どもである。
 政治手腕も、切れはしないが悪くもない。保守的であることは往々、怠惰や腐敗に繋がるが、反面なまぬるい平穏を維持するには長ける。しかれども、彼のその外見に反する刃がごとき知性と蜘蛛の巣がごとき人脈は、すべて彼の一族郎党の繁栄のためという小事につぎ込まれた。玉津は己の血脈を愛していたし、帝のそばに侍ってゆうに五百年にはなろう己の系譜に誇りを持っていた。玉津の父母はそういう人物であったし、玉津の祖父母も、玉津の使用人や部下たち、ひいては妻や子も皆そういうことに重きを置く人物であった。玉津にしてみれば、人形の娘を妾にして手元に置く丞相のほうがよほど低俗で淫靡な存在であったし、帝に逆らった謀反人の弟であるのに、それを恥ともせず、あろうことか、己の耳を切り落とした葛ヶ原の領主などは野蛮で、許されざる存在であった。これらの卑賤な者たちが平然とはびこっていることこそ、この国が傾いてきた証拠と言えよう。

「ああいう者たちをのさばらせてはいかん……」

 呟いて、抽斗の奥にしまっていた小瓶を取り出す。異国から取り寄せた白い粉。玉津の大切な皇子を生き長らえさせている魔法の粉である。しかし、異国の品ゆえ、なかなか都にも入ってこない。馴染みの商人を通じて、さらなる量を求めているのだが、西大陸のどこぞの国の王が数年前毒であるとして生産をやめるよう呼びかけ始めたため、いっそう手に入りにくくなっていた。残り少なくなっていく白い粉は玉津の肩に重くのしかかり、早く早くと気ばかりが急いでゆく。玉津は緩く首を振って、盃に満たした酒を飲み干した。

「ご機嫌いかがですか、玉津卿」

 几帳の影からするりとまさしく「影」のごとく滑り出る男があったのは月が天高くに到達しよう夜明け方だった。玉津は寝不足で落ち窪んだ目を上げる。灯台に照らされたのは、玉津も見知った黒装束の姿。しかし、寝室に勝手に踏み入ることを許した覚えはない。玉津はかたわらに脱ぎ捨ててあった紫の頭巾を取って己の耳を隠すと、「こんな夜更けに何用だ」と固い声を出した。

「私の寝室に入ることを許した覚えはない。アカツキ」
「許さないとお言葉をいただいた覚えもありませんが」

 まるで子供の屁理屈のような言い方をして、男は肩をすくめた。頭から首上までを覆い隠す頭巾に、狂言面、黒装束。ひょうきんに口をすぼめる狂言面が男にさっぱり似合わず、薄気味悪いことこの上ない。初めて目にしたとき何故面取らぬと尋ねると、火傷の痕がありまして、とすげなく言われた。確かに少し引き上げれば顎元に醜い引き攣れのあとがあった。
 男を己の暗部のひとりとして雇い上げたのは、かれこれ二年前の冬であった。もう十年以上前から中で働いているトウノという男が見つけてきたのだった。ひとりはアカツキといい、もうひとりはユキといった。面をつけていたのでアカツキはわからぬが、ユキのほうはまだ二十に届くか届かないかほどの少年だった。はじめて見たとき、少し籐がたっているな、と思った。暗部として育てるには、幼い頃からそういう教育を施したほうがいい。玉津を盲目的に崇拝し、玉津に決してそむかない、否、そむくことすら思いつかない、そういう教育を。とはいえ、試しに、邪魔な要人をひとり消させたときの男の手つきは迅速かつ鮮やかで、あのトウノがよいというのだから、よいかと思い、雇った。以降二年、よく働いている。次々と使い捨てられる暗部の中で、アカツキが玉津の命を成し遂げられなかったことはない。どうも考えの読めない不気味な風貌を差し置けば、使える部下だといえた。

「……まぁよい、座れ。なんぞ話があるのだろう」

 促せば、アカツキは影が滑るようにして玉津の前に腰を折った。懐から玉津が持つものと似た形の小瓶を取り出す。

「商人の榊さまから預かってきました」
「阿芙蓉、か?」
「左様」

 小瓶を紗の布でくるみ、玉津のほうへ差し出す。他の者にはない、この手の細やかな気遣いも、玉津のよしとするところであった。受け取って、灯台の炎のもとに照らす。雪華のごとききらめきを宿していた以前と違い、白い粉は光をあてても鈍く光るだけである。純度が落ちているのだと玉津は思った。

「引き続き、榊へ阿芙蓉を集めるよう交渉せよ」
「そのことですが、次に入るのは秋の終わりになるのではないかというのが榊さまの見立てです」
「秋の終わり?」

 となれば、数ヶ月以上の間が空くことになる。玉津は憔悴する第四皇子の姿を思い浮かべ、奥歯を噛んだ。皇子は日に日に阿芙蓉を焚く量が増えている。これだけで数ヶ月を持ち越せるようには思わなかった。
 アカツキは狂言面の奥で沈黙を保っていたが、やがてぽつりと言った。

「四季皇子をこちらに移したらいかがですか」
「移す、だと?」
「さすれば、阿芙蓉を御殿医に渡す手間が省けましょう。また先日のように『鼠』に見つかる恐れもなくなる」

 アカツキの言っていることは玉津にもすぐに察せられた。細心の注意を払って殿の奥で静養させていた四季皇子。それを、あろうことか丞相の妾の娘が見つけてしまったというのだ。門は選りすぐりの駒に守らせていたというに、どのようにして入ったのか。兵士たちを問いただせば、覚えがないという。彼らはアカツキにすべて「廃棄」させた。使えぬ駒など飼うだけ無駄だ。あの場ではなんとか取り繕ったが、四季皇子がこの半年ほど公に顔を見せていないのは隠しようのない事実である。百川漱の言うとおり、もしや、と疑いを抱く者もいるかもしれない。あの丞相の妾。余計なことを騒ぐ前に口を塞がねば。

「居を移すことはできぬ。それこそ、あの妾風情の言葉を認めることになろう」

 玉津は腰に佩いていた檜扇を別所に置いてきたことに気付き、苛々と爪を噛んだ。アカツキは空虚な眼窩の奥からそんな玉津を見つめている。何を考えているのかは相変わらずわからなかった。

「帝には再三譲位を働きかけておる。あと、すこし。あと、すこしなのだ。立ちはだかる者はもはやいない、四季殿下はまもなく帝の位につく。その次の帝には殿下の三つになる御子を推す」

 玉津は虚空を爛々とした目で睨み、独語した。
 すでに手は打ち、丞相邸に選りすぐりの刺客を放ってはいたが、あのおんぼろ屋敷は呪いでも張られているのか、中に入れないどころか刺客たちは皆血の泡を吹いて死んだ。ならば、と屋敷から出た娘を追尾させると、それもまたぱったりと血痕を残して足跡が途絶える。娘に付き従うようにしてたびたび目撃される青い目の少女。白藤(しらふじ)。あれの仕業であろうと玉津はあたりをつけていた。月詠が子飼いにしている十人衆のひとりで、素性は知れぬが、おそらくどこぞの貴族の暗部崩れだろう。こちらの動きを察知した丞相が策を講じたのか。試しに、アカツキに白藤を消すよう持ちかけたが、負ける勝負はしたくありませんので、とすげなく断られた。平素ならば烈火のごとく怒るところであるが、この男がいうと信じざるを得ない。

「だがあの娘をこのまま捨て置くわけにはゆかん……」

 そこではっとして、玉津は文机に散らばる筝弾きに推挙された娘たちの名前の札を見た。昨日、下士官から急な報せがあり、何でも筝弾き姫を引き受けていた女官のひとりが体調を崩して里帰りを望んだため、代役を立ててはもらえぬかと親が乞うているのだという。すでに決定したことゆえ代役は不可だと突っぱねる気でいたのだが。よいことを思いついた、と玉津はでっぷりと顎の垂れた口元に策士のごとき笑みを載せる。

「乞巧奠だ。アカツキ、お前はそれまで娘を張れ」
「御意に」

 無駄に言葉を発しないのは、玉津の意図をあざとく汲んでいるからなのか、あるいは玉津自身に関心がないのか。男はしずやかにこうべを垂れて、玉津が顎でしゃくるのに合わせて、腰を上げた。昨夕の霧雨の名残であろうか、ほの白く夜が明けつつある外ではざわざわと青葉を揺らす風音がして、内に垂れ込められた御簾を微かに揺らしている。

「それでは失礼致します、玉津卿」

 外のほうに意識を取られていた玉津はその声にふと目を開いた。
 玉津卿。
 たまつきょう。
 タマツ、キョウ。
 声質ではない。声そのものというよりは、それは音のちょっとした上がり方の癖や呼吸や、澄んだ水音のように残る余韻やそういったもの。脳裏をよぎった面影にぞぞぞぞと背筋に怖気が走った。「アカツキ」と玉津は渇いた喉で生唾を飲み込み、ひたと黒装束を見つめる。

「おまえ、出身は?」

 脈絡のない質問を男が何と思ったのかは知れない。
 まあるい眼窩で玉津をひたと見下ろすと、男はくぐもった声で答えた。

「東ですよ、玉津卿」

 見えない眼窩が確かに嗤った、気がした。







 南海は天と空が同じ色をしている、と五條薫衣(ごじょうくのえ)は思う。
 葛ヶ原の、霞がかった淡い蒼とは違う。南海の空は強い陽射しにも負けぬ鮮烈な青で、そこを翔ける鳥たちは力強い翼と大きな身体とを持っていた。ひょろろろろろと空のほうで鳥が鳴く。薫衣は眩しそうにそれを仰いだ。

「薫衣ねえさん、またここにいた」

 竹製の縁の前に置かれた沓踏み石に小柄な影が差した。妃(キサ)、と見知った少女の名を呼び、薫衣は首筋に滲んでいた汗を手巾で拭く。風通しのよい小袖に洗いざらした紺袴。短い淡茶の髪をうなじあたりで無造作にくくって、薫衣は竹縁に座り、弓の調整をしていた。庭には、南海領主、網代あせびの五歳になる息子が使っている巻藁がある。残念ながら網代家の若君は弓を好かぬようであったが、代わりに薫衣はよくこの的を使わせてもらっていた。

「薫衣ねえさん、あしろに今度弓を教えてあげてよ。あの子ったらおとなしくて、部屋に引きこもってばかりなのだもの」
「でもあしろさまは、弓より書物のほうが好きそうだぞ。この間なんて、南海地誌の最初の部分を諳んじてらした」
「妃は嫌よう。頭でっかちな殿方より、薫衣ねえさんみたいなかっこいい男のひとのほうがいい」

 口を尖らせて呟く妃を見やって、薫衣は苦笑する。幼い時分、おまえみたいな生白くて性格の悪い男に仕えるより、東野の燕おじさまのようなかっこいい男に仕えたかった、と文句を言っている自分を思いだしたのだった。薫衣は、調整を終えた弓を持ち上げて、的の前に立つ。風術師であった橘颯音は、刀や槍のたぐいを一切扱わなかった。扱えたのだろうけれど、人前で佩刀している姿を見たことがなかった。ただ、弓だけは長じてもときどきいじっていたので。一度気にかかり、問うたことがある。何故、弓はやるの? と。的の中心にきれいに吸い込まれていく矢を見届けず、淡然と弓を下ろした男の横顔に薫衣が問うと、落ち着くのだと、橘颯音は答えた。あの研ぎ澄まされた濃茶の奥に、苛烈を秘めた眼差しで。弓を構えていると、己の中に渦巻く雑念が削ぎ落とされ、真っ白くなる瞬間があるのだと。だから、と橘颯音は言った。悩んでいるときは弓をやる。「お前みたいな男が悩むことなんてあるのか」と薫衣は鼻で笑ったが、颯音は眦を細めて微笑むだけで、また的のほうへ目を戻してしまった。
 不思議なものである。その記憶はもはや甘い感傷ではない。甘い感傷でしかなかった時期もあったが、今はそうではない。葛ヶ原から南海に追放されてしばらく経った頃、薫衣は弓を始めた。何しろ橘颯音は、自分に懐刀以外の何も残してはくれなかったので。言葉ひとつも残してはくれなかったので。ふとひとつくらいあの男の真似事をしてもいいと思った。あの男が見ていたものを、今はなくなってしまった背中の軌跡をたどってみたいと思った。句作はむかないので、弓をやった。弦をぴんと張って、的に向かい合う。きりきりと弓を張り詰めていると、雑念や懊悩のたぐいはすべて薫衣の後方へと過ぎ去っていく。そして。
 男の言っていた白、が見えた。

「お見事!」

 妃が明るい声を弾かせた。
 矢は的の中心を射ている。薫衣は知らず詰めていた息を吐き出して、弓を下ろした。ぱちぱちぱちと妃の背後から、品のよい拍手が響く。はっとして振り返ると、網代あせびの奥方――淡(タン)が侍女を連れて濡れ縁に出てきていた。

「失礼を」

 淡が訪れていたのを気付かなかったのは薫衣の不注意だ。すぐに腰を落として膝を折ると、「よいのです、顔を上げて。薫衣」と淡が言った。

「先ほどあせびに先立ってこちらへ戻ってきたばかりなの。海紗が熱を出してしまって」
「熱を?」
「ええ。今、医者を呼んでいるのだけど、薫衣、あなた薬草に詳しかったでしょう? 一緒に海紗をみてあげてくれませんか」
「もちろん」

 うなずいて、薫衣は弓と矢とを弓置きに置いた。顎を伝っていた汗を手巾で拭って、濡れ縁に上る。この気さくな奥方と薫衣は仲がよい。長旅で、積もり募った話もあろうが、海紗をみることが先決であろう。礼をしてその場を去りかけ、薫衣はふと思いつくことがあり、足を止めた。

「淡さま。――橘真砂は。やっぱり都にいましたか」

 年が明けてすぐにこの地を飛び出していった男が向かった先も都であったはずだ。思い出して尋ねると、淡は「さぁ……」と困った様子で首を振った。

「探したのだけども、彼を見つけることはできなかった。彼もあの気性ですから、私たちなぞに尻尾はつかませないでしょう。ですが、薫衣。葛ヶ原領主のほうは何かを考えているようだとあせびが呟いておりましたよ」
「あせび様が?」
「ええ。あなたが呼ばれる日は近いのかもしれない」

 きょとりと眸を瞬かせる妃を慮ってか、淡はそれ以上を口にしようとはしなかった。薫衣もまた顎を引いて、濡れ縁を歩きだす。あえて名をあげる必要もなかった。薫衣が仕えるべきあるじはもはやこの国にひとりしか残されていない。薫衣のあいする男の、あいした弟。若年にて東果てに立った十代目葛ヶ原領主。
 別れる間際の少年の顔を、薫衣は今も瞼裏に思い描くことができる。
 葛ヶ原から南海へと発つ日のことだった。あいする男に代わって家を継いだ少年にいったいどんな顔をして向き合えばよいのだろうかと思うところがあって、先延ばし先延ばしにしていた末の対面であった。呼び声に引かれて顔を上げた薫衣の前にいたのは、記憶にあるより少し痩せた少年であった。不思議に思った。何故、彼は顔を上げないのかと。膝元に目を落として、まるで叱られる前の子供のように肩を強張らせているのかと。きよせ、と、本当は薫衣のほうから声をかけるのはおかしかったが、仕方なく名を呼んだ。それでも、彼は顔を上げない。噂に、橘雪瀬は実に見事に家督相続の儀を終えたと聞いていた。それは何かの間違いだったのかと薫衣は首を傾げてしまう。それくらい、目の前に座する領主様は年端のゆかぬ子どものようであったので。

「雪瀬。南海に夕方の船で発つよ」
「……うん」
「もう帰ってはこれない。お前に会えるのも今日で最後」
「うん」
「達者でな。体調を崩したと柚に聞いたけど、身体は大事にしろよ」
「うん、薫ちゃんも」
「雪瀬」
 
 苦笑し、薫衣は言った。

「目、あわせてよ」

 やわい声で懇願する。そうすると、無視ができない少年の気質を知っていた。顔を上げた彼は今にも泣き出しそうな、幼子みたいな表情をしていた。――どうしてそんなかおをするの。そんな、くるしそうなかお。まるでじぶんがぜんぶわるいみたいなかお。胸が痛んで奥歯を噛み、気付けば、薫衣は上座の少年の身体に腕を回していた。抱き締めると、彼の身体は思ったよりずっと薄っぺらくて、おんなの腕でもたやすく回せきれてしまうくらいで。傷ついて、ほのかに熱い。頭を抱き寄せると、薫衣の背にもそっと手が回った。だけど、雪瀬は薫衣に身を預けてきたりなどしない。その頑なな背中。今にも崩折れそうで、泣き出しそうで、それでいてもう決して泣かないような、その背中を見たとき、ああこの子どもはもう決めてしまったんだなとわかった。領主として生きる道を決めてしまった。だから、もう戻れない。どこへも戻れない。戻る場所なんかない、洟水垂らして満身創痍になってたとえみじめな末路しか待っていなくたってそれでも這い蹲って歩くしかないんだ独り。最期まで。
 腕はもう離れていた。薫衣は少年の傷んだ濃茶の髪を惜しむように撫でて、それから衣を裁いて額づく。どうかしばし御身を離れることをお許しください、わたしの君。告げると、葛ヶ原領主は暫時瞠目したのち、少し寂しそうに微笑った。ゆるす。儚い微笑い方だった。

 幸い海紗は大事なかったようだ。幼い姫を寝かしつけて外に出た薫衣はふと空にひょろろろろと鳴く鳥に混じり、白い鳥影を見つけた。大きい肢体を持つ南海の鳥たちとは異なる、優美な出で立ち。白鷺だ。認めて、薫衣は口端を上げ、虚空へ向けて腕を差し出した。――ずっと、待っていたよ。