五章、乞巧奠



 二、


 連子格子の外では、水無月の長雨が降りしきっている。
 湿気を含んだ炭は燃えづらい。火をおこすのにひとしきり苦難してから、朝の西市で買ってきた白玉粉と葛粉を水で溶いて混ぜ、四角い型に流し込んでことことと蒸らす。細かいあぶくが立ち、色が白から透明に変わってきたら小豆の蜜煮を並べて、またしばらく火にかける。先日淡(タン)から分けてもらった蜜煮は南海の黒砂糖を使っているせいか、都のものとは少し違う趣があって面白い。蒸気からふうわりくゆってきた黒糖の香りを吸って、桜は目を細めた。
 得手なわけではないが、このところの桜の楽しみのひとつは甘味作りである。暇を見つけては竈に火をくべ袖をたくし上げて、老犬や十人衆の四人にふるまっている。今作っている“みなづき”も彼らのためにこしらえ始めたものだった。少し前になってしまうが、紫陽花のもとからしゃくり上げながら帰ってきた翌朝、ごはんを作らないで、やってきた彼らを空腹のまま帰らせてしまったから。そのお詫びの気持ちをこめて、伊南や白藤の好きな“みなづき”を作ることにしたのだ。前に作ったとき、砂糖が多くてまずい、と嵯峨に苦言を呈されたので、今回は量を少なめにする。うずうずして蒸篭の蓋をずらし、表面が飴色に固くなってきた小豆の蜜煮を匙ですくって息をふきかけ、口をつける。うん、と桜は微笑んだ。あまい。おいしい。眦を甘やかに緩めてひとりほのかな悦に浸っていると、泥んこになった犬が勝手口のほうから、ひょ、と顔を出して、桜の袖端を口で引いた。

「なに?」

 尋ねると、犬は灰色の目で桜を見上げ、外のほうへ首を振った。
 お客さんらしい。長い付き合いのおかげか、犬の伝えたいことならたいてい理解できてしまう桜は、毛をぐっしょり雨に濡らした犬を軽く前掛けで拭いて、蒸篭を見ておくよう言いつけた。玄関口に向かいながら紐を解いた前掛けで額に浮かんでいた汗を軽く拭う。伝った汗がちくんと瞼を刺し、そうすると、瞼にそっと押し当てられた懐紙や、男のひとのひんやりした指先などがくるおしく蘇ってきて、知らず行き場のないため息がこぼれた。まるで、病か何かのようだと思う。普段はよそにやっているのに、それはふとした拍子に鮮明に蘇ってきて、桜を苦しくさせる。ふるふると自分に向けて首を振ると、桜は前掛けを丸めて瓶に引っ掛け、玄関から外をうかがった。降りしきる雨でぬかるんだ庭には犬の小さな足跡があるだけで、人影の類はない。客人とやらはどうやら門の外にいるようだ。月詠や蝶、十人衆であったのなら、構わず中に入ってくるので、そうではないらしい。
 立てかけてあった紺染めの番傘を開くと、あまり大きくない庭を突っ切って外門をうかがう。確かに、微かだけどもひとの囁き合う声が聞こえる。木戸をほんの少しだけ開いて、「ドナタ、ですか」と桜は警戒をあらわに尋ねた。とたん、木戸のふちに男のひとの太い手のひらがかかり、断りなく開かれる。傘の柄を握って軽く息を詰めた桜の前に現れたのは、見慣れぬ橙の官服に身を包んだ男たちだった。

「丞相殿の、桜様でございますな」

 総勢で十人はいようか。髭を生やした筆頭の男が尋ねるので、桜はこくんとおぼつかない所作で首を振る。丞相邸にやってきてもう三年になるが、こんな風に昼間に見知らぬ客人が現れたのは初めてのことだった。

「ジョウショウに、なにか」

 とっさに思いついたのは、顔を青白くさせたあの男の身に何かあったのだろうかということだった。しかし、桜の予想に反して髭男は「いいえ」と首を振る。そして、付き従っている小姓らしき少年を呼び寄せて、艶やかな螺鈿細工の施された文箱を桜に差し出した。紫の組紐の結ばれた蓋には帝をあらわす五弁の花紋が彫ってある。成り行きで受け取ってしまったそれに一瞥をやってから、桜はいぶかしげに男たちをうかがう。髭男が顎を引いて促したので、桜は仕方なく結ばれていた組紐を解き、文箱の蓋を開けた。中には書状らしきものが一通入っており、桜の目で見ても質がよいとわかる絹のような手触りの紙には、「乞巧奠」という言葉が書かれていた。

「キッ、コウ、デン……?」

 その難解な字がかろうじて読めたのは、蝶に先日借りた書物に同じ言葉が幾たびか登場していたからだ。乞巧奠。文芸の上達を願う星祭。髭男は桜が文字を読めたことにわずかに驚いたような顔をしてから、「左様」と神妙そうにうなずいた。男が橙色の官服を翻して跪けば、他の者たちも同様に腰を落とす。ぱちくりと目を瞬かせた桜に、髭男は恭しく両手を掲げて告げた。

「申し上げます、桜様。帝よりあなた様を今年の筝弾き姫に、とのご推挙が上がっている。我々はそれを伝えに参った」
「ことひき、ひめ? ……筝姫?」

 脳裏にまず浮かんだのは、二百年前光明帝の后であったとされる人形の姫の名だった。髭男はこれにもまた驚いた様子で「左様、左様」と繰り返す。

「乞巧奠の際、帝の前で筝を弾くのは二百年前から始まった慣わしです。当時の皇后をもじり、筝を弾く者を筝弾き姫と。見事な筝の演奏を成し遂げた者には帝じきじきに毎年褒美が与えられる」

 滔々と語る男を胡乱げに眺め、桜は書状を文箱に戻した。

「私は、筝は弾けない。だから、筝弾き姫はできない」

 蓋を閉めて、文箱を髭男に突き返す。だが、髭男は「左様、左様」とさっきと同じ台詞を繰り返すばかりで文箱を受け取ろうとしない。

「あなた様が筝を弾かぬことは我々も存じております。今年の筝の奏者は、氷鏡藍様。あなた様には、筝の調弦をしていただきたい」
「ちょうげん」
「なぁに難しいことではない。筝の所定の位置に柱(じ)を置くだけのこと。単なる形式のお役目です」

 胡散臭い笑顔を髭面に貼り付け、「ああもちろん」と髭男は芝居がかった仕草で胸に手をあてがった。

「丞相殿の了承はすでにいただいております。あとはあなた様のご意思を確認するだけ」

 確認するだけ、と言いながら、目の前の男のひとの中ではすでに桜が筝弾き姫を引き受けるのは決定事項となっているようだった。それに釈然としない気持ちを抱きつつも、特段理由もないのに、無碍に断るのもいけないように思えた。背後に絡む難しいからくりがわからぬ桜でも、今上帝からの推挙が断れるものでないことくらいはたやすく察せられる。

「私を、筝弾き姫にって言ったのは誰?」

 丞相に囲われているだけの桜に、宮中に深い繋がりを持つ者はいない。例外としては蝶姫がいたが、あの姫は天真爛漫の気まぐれやのようでいて、桜に断りも入れず勝手に筝弾き姫に推挙するようには思えなかった。もしや月詠だろうか、と思って尋ねると、髭男からは意外な名前が返ってきた。

「中務卿、玉津様でございます。何でも、先日あなた様をお見かけした折、類稀なる美しさと典雅なる所作とに深く感銘を受けたそうで、今年の筝弾き姫にぜひ、とのお言葉で」

 ひとの言葉を鵜呑みにしやすい桜でも、これにはさすがに眉をひそめた。先日といえば、四季皇子の病状を訴えた日のことだと思うが、玉津はあのとき鬼のように怒って桜の額を何度も叩いたのだから。自分が典雅な所作とやらを披露したようにもとても思えなかった。

「……ほんとうに?」

 じっと髭男の目を見つめる。深くのぞきこむように目を合わせていると何故かたじたじとなった様子で「左様、左様」と男は早口で繰り返し、「とにかく」と話を畳みにかかった。

「あなた様にとっても名誉なことです。どうか話をお受けください。用意は我々のほうですべてさせていただきますので」
「でも、」
「桜様」
 
 なおも言葉を重ねようとした桜を制し、髭男は不気味に明るく微笑んだ。

「帝がご推挙なさっているのです。断ることなど、できますまい」

 男の眸の奥に揺らめく不穏な光を見て取り、桜は口をつぐむ。名誉などどこにあるのかわからなかったが、推挙を断るだけの理由も見つからず、しぶしぶ顎を引かざるを得なくなる。文箱を抱いて目を伏せた桜に、「めでたきこと」と嘯き、男は口端をうっそりと歪めた。





 髭男たちの突然の来訪のせいで、鍋にかけた火のことはすっかり忘れていた。文箱を抱えぼんやりした面持ちで戻ってきた桜は、玄関でちょこんとおすわりしている犬に迎えられ、はっと我に返る。

「せいろ……!」

 ちゃんと教えてね、と頼んだのに、どうして犬は桜を呼びに来てくれなかったんだろう。八つ当たりに近い思いを抱いて丸めた前掛けをつかみ、桜は廊下を駆ける。しかし、たどりついた先にあったのは、間の抜けた静寂とほこほこと芳しいにおいを立てている器だった。蒸篭はすでに竈から下ろされ、くべていたはずの炭も火消壷で始末されている。試しに蒸篭の中をのぞいてみると、甘やかに蕩けた小豆の蜜煮がういろうに並んでいた。

「危ないなぁ桜サン。危うく丞相邸を火事にするとこだったねぇ?」

 小豆を指ですくって、ふぅふぅ息を吹きかけて舐めてみていた桜は、背後から突如かかった声に危うく喉を詰まらせそうになった。やわく咳き込んで振り返ると、思ったとおりの男が土間の框に腰掛けて、葛切りを啜っている。

「アナタを火事から救った俺さまにとくと感謝するがいい。この恋患い犬」
「こいわずら……?」
「うん。でしょ? 葛ヶ原の領主サマに恋患ってる。寝ても覚めても奴のことばかり。面白いねぇ桜サン。あ、葛切り食う? 梅蜜。甘いんよ」

 箸で摘んだ葛切りを真砂は桜の口に押し込んだ。「ふ、」返事をする前に、つるんとしたそれを飲み込むはめになる。確かに、あまい。少し酸っぱいけれど。もくもくと葛切りを噛んで、桜は咀嚼したものを飲み込んだ。尻尾を振って追いついてきた犬の首を撫で、男の隣に並んで座る。半月ぶりに見る男は最後に会ったときとまるで変わらない顔をして平然と葛切りを啜っている。

「ずっと、どこへ行ってたの」

 蝶のこともあって、心なし咎めるような口ぶりで訊くと、「んー、あちこちー」とてんで軽薄な言葉が返ってきた。

「真砂、」
「ああ、雪瀬に『四季皇子を調べてね』って文を送ったのは正真正銘俺ですぜ。玉津のでぶっちょが落としていった粉のにおいですぐ阿芙蓉ってぴんときてさ。ちょおっと宮中の馴染みに頼ったりなんかして四季皇子について調べてたんよ。せっかくだから我らが領主様に手柄のひとつやふたつ差し上げようかと思ったんだけど、アナタのほうが先にたどりついてしまったみたいやね」
「たどりついた」
「うん。見たでしょ、四季皇子はご病気だ。もう帝位につける身体じゃない。それを玉津が無理に生かしてんだ、己の権勢欲のために」

 つるつると葛切りを啜り、真砂は唇についた蜜を舌で舐めた。からにした小椀を置くと、膨れた紙袋の中から次は鮎の形をした小麦饅頭を取り出し、それを頬張りつつ桜のほうへ目を合わせる。

「さくらひゃんひょたひゃたひめひょひゃひふへひょっひょー?」
「引き受けた、けれど」

 筝弾き姫の件を聞かされたのは、ついいましがたの話だ。どうして真砂がそれを知っているんだろう。眉を寄せた桜の胸中をやすやすと読み取って、「見てた」と真砂は饅頭を飲み込みながら言った。

「アナタに忠告をしに俺はここに来たんだけど。どうやら遅かったみたい。桜サン。今からでもいいけどさ、筝弾き姫の件は断ったほうがいいと思いますよ」
「……どうして?」
「殺されんよアナタ」

 のんびり頬杖をつき、真砂はふっと酷薄に笑った。

「玉津のでぶっちょに果敢に挑みかかるアナタは称賛に値するけどさ。宮中というのは、頭の悪い桜サンにはとてもとても想像のつかない魑魅魍魎のはびこる恐ろしい場所なんです。四季皇子の姿を見たっしょ? アナタを切り刻んで海に捨てるくらい平気でやりますぜ玉津卿は。あるいは、そうだねぇ……光の射さない蔵に三日三晩閉じ込められろくに睡眠も与えられず水も飲ませず皮膚が破れるまで竹笞で叩かれさらに破れた皮膚を火で炙って固めまた笞で叩く。ようなことがあったりしてね」

 怖いでしょ?、とでも言いたげな男を桜は静かに見つめた。

「でも、逃げても、なんにも変わらない」
「そうかな? 時間はたいてい勝手に解決してくれんよ」

 真砂の言い分は桜にも理解できた。だけども、わかってもなお、すでに桜に筝弾き姫を辞退する考えはないのだった。しぶしぶながらも役目を引き受けたときに、桜は玉津の持ちかけた勝負を受けて立ってしまったのだから。ことをうまく運べると思っているわけではなかったが、あのとき有耶無耶になってしまった四季皇子のことを確かめられるのではないかという算段もあるにはあった。だけど、それよりも。桜というのはたぶん、引き返すことが得意でない。いつもそうなのだ。引き返しても、戻る場所なんてない道ばかりを走ってきた。走って、走って、泣いても走ることしかできないで、そうやって生きてきた。だからこれはきっと自分に染み付いた習性のようなものなのだと桜は思う。
 できないよ、と途方に暮れて呟くと、真砂は呆れた風に息をついた。

「あーっそ。アナタってのもたいがい頑固者やぁね。たまに善人らしゅうお節介したらこれだ」

 言い捨てる男から目を伏せて、ごめんね、と桜はぽそりと呟く。真砂がおそらくは本当に心配してやってきてくれたのはわかったので、そうすると決めてはいても、少し胸が痛んだのだった。

「別にいいけど。アナタが月曲湾に沈められようが女郎屋に売り飛ばされようが俺にはちっとも関係ありませんしー?」

 口調こそ冗談めかしているものの、隣に座る男のひとは不機嫌極まりない顔をして片頬を歪めた。その目がふと桜の、後ろで結って縮緬の夏椿を挿している髪のほうへ移る。月詠のようにまた馬鹿にされるのだろうか。美しい紫陽花をへんに意識して、醜い嫉妬をして、精一杯飾り立てている自分を。馬鹿にされるのだろうな、と思って、目を伏せたままでいると、不意に男の手の甲が桜の頬に触れた。

「ねぇ桜サン。あの髭男クンの言ってた類稀なるウツクシサっての、嘘だと思ってる?」
「ひげおくん」
「アナタに文箱を届けた彼ですよ。あのねえ桜サン。餞別によいことを教えてあげよう。アナタはね、実は紫陽花の君やら藍ちゃんなんて比べものにならないくらい、美しいんだ」

 あまりに突飛な物言い過ぎて、いぶかしむより前に呆けてしまう。真砂は濃茶の眸に愉悦を滲ませながら、相変わらず桜の頬に手の甲を添えている。

「俺、きれいなものはスキ。アナタはこの半月でまた驚くばかりに美しくなった。さっぱり届かない想いを抱えて橘雪瀬の後姿を見つめてるアナタは特に美しくて、ああもしもアナタのその胸に秘めてる想いがずたずたに踏み躙られて絶望の淵に追い込まれてしまったら、いったいアナタはどれほど清冽な美しさを見せるようになるんだろうって俺は楽しくてたまんなかったね。――冗談冗談、怒んないで。でも、ほら俺はこのとおり桜サンが大好きだから、できればしあわせになってほしいなぁと真面目なひとらしく思ってみたりもするんよ。嘘じゃない。本当に幸せになって欲しいんよ。ね。幸せに、なってよ桜サン」

 頬を軽く手の甲で叩くと、真砂はするりと手を離した。なぜだろう。不意にこころぐるしい心地に駆られてしまい、杖を取って立ち上がった男を視線だけで追えば、「そんじゃあね、桜サン。せいぜいガンバッテ」と軽薄に言って、真砂は小麦饅頭をひとつ桜に握らせた。男はいつも、どこへゆくとも告げずどこかへ向かう。