五章、乞巧奠



 三、


「かような場所で何をしておる」

 一度畳んだ番傘を少し傾け、丞相邸のくぐり戸から頭を出すと、まるで待ち構えていたかのように白亜の少女が表戸に背をもたせてこちらを睥睨した。おやおや、と真砂はわざとらしく目を瞠ってみせ、「蝶姫さまではありませんか」と猫撫で声を出す。この姫がいっとう厭う軽薄さだ。案の定、蝶姫は柳眉をきつくしかめて、すぐそばに控えていた護衛らしき男に「おぬしは下がっておれ」と命じた。

「ですが……」
「こやつはおぬしの前の蝶の護衛じゃ。午後はこやつを蝶の側付きとする。おぬしはもう下がってよい」

 有無を言わせぬあるじの言に、真砂よりは年嵩の、しかしまだ若い男は戸惑った風にこちらに目を向けた。都人曰く“奇矯な”姫君の言葉を鵜呑みにしてよいか迷っているらしい。真砂がせいぜいいかにも誠実そうなしたり顔で目礼してやると、こちらは信用に足るものと判じたのか、ではわたくしはこれにて、と略式の礼をし、しゃなりと刀飾りを揺らして立ち去った。男の痩せた背中へちらりと一瞥を送ってから、真砂は薄い笑みを引っ掛け少女のほうへ目を戻す。

「彼が次の護衛君? さながら草紙の皇子さまみたいじゃない」
「蝶の皇子さまはあんなではない」
「ふぅん。そう?」

 桜のいる屋敷から外門まではそれなりに離れている。降りしきる雨音は声を遮るし、くぐり戸さえ閉めてしまえばあの勘の鋭い娘でも気付かれないだろうなと思考をめぐらせつつ、真砂は木戸を後ろ手に閉めた。蝶は自分で呼び止めたにもかかわらず、不機嫌そうな顔をしてよそを向いている。

「――怒っていらっしゃる?」
「おこる? 何をじゃ」
「ワタクシメが勝手にいなくなったから」

 少女の顔をのぞきこむと、「まさか」と蝶はさもありえないという風に鼻で笑った。

「おぬしがいなくのうなって、どれほどせいせいしたことか。おぬしが中途で投げた皇祇探しも、桜サンが手伝ってくれたからの。このままどこぞやへ消えてくれたらよいのにと願っておったら、出てきおって、蝶は今がっかりしておるところよ」
「左様ですか」

 淡白にうなずくと、蝶は若干肩透かしを食らった様子でこちらを見やった。娘の翠の眸から揶揄の色が消え、賢姫らしい怜悧さだけが残る。

「答えよ。この半月、どこへ行っておった。そしてこれからどこへ行く?」
「それはナニ、お答えしなければいかんの俺」
「無論じゃ。おぬしの雇い主は蝶。いわば、おぬしは蝶のしもべじゃ。わかったら、とっとと蝶の質問に答えよ」

 ふぅむと真砂は顎をさする。確かに蝶の主張は理に叶っている。そも、給金をもらいながらお役目を放り出して行方をくらました真砂に圧倒的非はあるのだから分が悪い。

「まぁよいや。この半月どこへ行っていたかですっけ。あなたのもとのお住まいの後宮をぶらぶらしとりましたよ」
「後宮? 何用で?」
「氷鏡の藍ちゃんとお花摘みしたり? 古い知己なんよ」
「わからんな。何故、おぬしが老帝の側妾なぞに会いにゆく」
「古い知己って言ったっしょ。それ以外の理由が必要?」

 意地の悪い質問をすると、思ったとおり、蝶は「べつに」とぶっきらぼうに言って、そっぽを向いた。

「おぬしがどこで誰と何しとろうが蝶にはさっぱり関係ないが、じゃが、」
「そうさね。アナタが桜さんとお友達やってる間、俺は四季皇子付きのサヨちゃんの股ぐらを開いたりよがるチヨちゃんを泣かせたり、たくさんあれこれやったけど、蝶姫様にはまったく関係のないことですよね」

 果たしてこの姫君は。一瞬表情をなくしたのち、ひどく傷ついた顔をして頬を染めた。「姫はさぁ」畳んだ傘を木戸に立てかけると、真砂はおもむろに少女の隣に手をついた。雨で湿った木戸はぬるく、少女の色白の顔に翳りが落ちる。

「俺にどうして欲しいの? さっきから子どもみたいな駄々ばかりこねてらっしゃるけど、勝手にいなくなったのがそんなに気に入らないわけ? それとも他のお嬢さんといちゃこらしているのが腹立つの? 俺が思い通りにならないことが嫌? 桜サンみたく優しくしてくれないから? ――ねぇ蝶。そのよくお回りになる口で答えてごらんよ」

 されど、常は勝気な姫君はふっくらした花色の唇を噛むだけで息をひそめている。「ちょーお?」待ちくたびれて呼びやると、かろうじて消え入りそうな声が、けがらわしい、と言った。真砂は微笑む。

「俺の名字ね、橘なんよ」
「……は?」

 脈絡がないといえば脈絡のない言葉に、蝶はいぶかしげな顔をした。「橘なんよ」ともう一度同じ言葉を、幼子に親が向けるような優しい表情で言った。

「桜サンの想い人である葛ヶ原領主橘雪瀬は俺の従弟にあたる。それとも、アナタさまには、こう言ったほうがより伝わるだろうか。アナタさまのお父上、今上帝を討とうとした元葛ヶ原領主橘颯音は俺の従兄にあたる。そして俺も少なからずそれに加担した。片足を失ったのはその代償だぁね」
「そんな、阿呆な……」
「そう? 俺からすれば、アナタさまの鈍感さのほうにびっくりだけどね。ねぇ、蝶姫。俺が現れたとき、ああ自分を助けにやって来てくれたんだって思った?」

 翠の眸が軽く瞠られる。図星だ、と真砂は笑った。

「八年前、俺は確かにアナタにこう言った。もしも俺を、葛ヶ原の広い大地の中からアナタが見つけ出せたら、アナタを愛して差し上げますと。生涯かけて惜しみのない愛を捧げますと。だけど、アナタは『俺』を見つけようとはしなかった。こうして目の前に現れたってアナタは『俺』を見つけなかった。俺はねえ蝶姫。探しものをしていたの。もちろんアナタじゃあ、ない。俺は俺の探しものを見つけに都にやってきて、俺の探しものを見つけるのに必要だったから、アナタの前に現れた。変わり者の爪弾き者とはいえ、今上帝の皇女の護衛ともあれば、いろんな場所に出入りできるものねぇ。そして、俺は探しものを見つけた」

 木戸に肘をつき、そうして動けなくさせて、娘のすべらかな頬に手をあてがった。緊張で強張った頬は盛夏の昼下がりであるのが嘘みたいに冷たい。指の背で少しなぞって、肩に落ちている白銀の髪房に指を絡める。長い睫毛に縁取られた翠の眸がひたと自分を見据えた。ああ、本当は怯えて、傷ついて、ずたずたなのに、それでもそういう顔ができない蝶はなんて可愛いんだろうと思って、嗤い出したくなった。実際嗤った。踏み躙りたくなる翠の眸である。

「探しものは見つかったから、もうここにいる必要はないんだ。お姫さまごっこはおしまい。じゃーね。サヨナラ、蝶」

 背をかがめて、真白な耳朶にそっと囁く。
 刹那。ぱん、と乾いた音が耳元で鳴った。目を瞬かせて、少女を見やる。娘は手のひらを翻したまま、翠の眸にいっぱいの涙をためて、それでいて燃えるような怒りを湛えてこちらを睨んでいた。

「お前なんぞ、嫌いじゃ!」

 腹の奥から沸き立つような怒声が爆ぜる。

「嫌いじゃ! 何が橘じゃ、何がサヨナラじゃ、ひとを嘲笑って揶揄って見下して何が楽しい!? そうじゃよ、おぬしが言うたとおり、おぬしが蝶の前に現れたとき、思うたよ、ああおぬしは蝶を覚えていて、見捨てないでいてくれたのかと! うれしかった、とてもうれしかった。その何がおかしい? 何が愚かしいというのじゃ! お前は心根が曲がっておるよ橘真砂。心根が曲がっておると気付いていながら、ちっとも恥じぬ、その傲慢な在り様こそがお前に巣食う汚い膿みじゃ! とっとと失せい! お前のような輩に護衛なんぞ、蝶のほうがお断りじゃ。今すぐに、蝶の前から、その目障りな姿を消せ!」

 すべてを言い切ったとき、娘の声は枯れていた。乱した息を整えようと肩を上下させ、きっとこちらを睨みつける。激しい怒りが翠の眸を滾らせていた。それでもなお、濡れた翠は美しい。雨のあとの若葉のようで。

「仰せのままに」

 真砂は答えると、ついた手を離す際に娘の顎をついとすくって、濡れた眦にたまった涙を吸った。若葉に降る雨のような甘い味を期待したのに、しょっぱくて少しがっかりした。さっと少女の眦に朱が走る前に身体を離して、杖を軸に背を向ける。二度目は御免だ。

「ああ、そういやね蝶。アナタの愛する弟皇子は生きてんよ。何事もなければそのうち戻ってくる。よかったね」

 降りしきる雨に傘を開くと、真砂はもはや振り返ることなく今度こそ丞相邸をあとにした。けぶる霧雨が男の姿をやがて見えなくする。





 たおやかな指先が離れたはずみに絃が跳ね、立てた琴柱(ことじ)がごとんと倒れた。琴台に重い振動が響く。けれど、奏者である少女は気付かぬ様子で譜をぼんやりめくっている。隣に座る琵琶師と目を見合わせたのち、桜は「蝶?」と倒れた琴柱を取った。それでようやく桜と琴柱の存在に気付いたらしい。蝶は目を瞬かせ、「ああ」とばつの悪そうな顔をする。

「考えごとをしておった。悪い」
「ううん」

 音はこれでへいき? と尋ねれば、蝶は琴に張った十三絃を続けて奏でてみせ、「うむ」とうなずいた。かたわらにかがんだ桜に、「これが一の糸、次が二の糸じゃ。十まであって、最後のみっつを斗、為、巾と呼ぶ」説明しながらそれぞれを琴爪で弾いて、音を教えてくれる。

「二を調弦するときは、一の糸に合わせる。こんな音だな」

 爪弾けば、二音が重なってきれいな和音を奏でる。桜は音を耳に刻みつけるようにして、こっくりうなずいた。
 来る文月七日。乞巧奠の儀で奏でられる筝曲はかつて光明帝の御世、皇后琴姫が天に捧げたものと同じ月を詠う古曲が選ばれた。桜のもとにも官吏を通じて譜が届けられたが、無論読み方などわかるはずがない。爪の用意や、練習用の筝の準備もなかった。渡されたのは当日着る衣装くらいのもので、譜を抱えたまま桜は途方に暮れてしまった。救いの手を差し伸べてくれたのは、蝶だった。筝弾き姫の件を知るや、蝶は何故引き受けたのじゃ、と憤慨し、されど桜が引く気がないのを知ると、渋々ながらも仮住まい先である琵琶師に話をつけ、屋敷で眠っていた筝を引っ張り出した。調弦の仕方は蝶自ら手ほどきをしてくれるという。
 幸いにも、桜は耳がよいほうであったらしい。三絃であるのなら琵琶師にときどき教えてもらっていたので、音に対する勘のよさはあった。演奏は無理にしても、定まった調弦であるのならそう難いことではない。蝶が奏でてくれた音を覚えこみ、柱を一度崩して、覚えた音をなぞって立てていく。桜が合わせた筝で蝶が弾いてくれた古曲は、琵琶師は眉をひそめていたけれど、晩夏の夜のさやめきや虫の音が響き合うようで、とても美しい曲だと思った。

「今日はこれで終いじゃ。明日もう一度やろう」

 幾度か繰り返せば、物覚えの悪い桜とて要領を心得てくる。昼時の鐘が鳴ったのに気付くと、蝶は譜を閉じ、ぬるまった煎茶を啜った。自分のぶんを急須から注いで、桜もまた人心地つく。一度閉じた譜をぱらぱらとめくり目を落とす蝶の横顔はしかし、どことなく翳りを帯びている。昼からの出仕のため、琵琶師はすでに屋敷を出ていた。長く降っていた雨が上がり、久方ぶりに晴れた空は夏らしく澄み渡り、部屋のうちにあっても掛かった御簾越しに陽射しの強さを感じる。この数日、蝶は皇祇探しをやめてしまっていた。何故かは知れぬものの、桜も自分から不毛な皇子探しを勧める気にはなれず、筝弾き姫という難題が立ちはだかったこともあり、その件は据え置かれてしまっている。

「市にいこうよ、蝶」

 朝、馬洗いを手伝ったとき、東市のほうがとみに賑わっているのだと雛と稲じぃに聞いた。中央の官舎や役人の屋敷が多い西とちがって、地方の領主たちの別邸が多く集まる東側はこの時期、市場がたいそう繁盛するらしい。故郷に土産を買う領主や付き人が頻繁に立ち寄るからだ。

「私、あんこがたくさん載った餡蜜が食べたい」

 とてもおいしいから、蝶もきっと元気になれると思うのだ。あとね、といくつか知っている甘味の名前を上げると、「それもよいな」と蝶は苦笑気味に眦を緩めた。ようやく少女が微笑ってくれたことにほっとしつつも、うっすら朱を残した眦と腫れた瞼にやっぱり胸が痛んでしまって、桜はほとりと睫毛を伏せた。