五章、乞巧奠



 四、


 東市はたいそうな賑わいだった。常は物乞いと野良犬がうろつくばかりの大路には露店がせり出し、ぼんやりしていると行き交うひとびとの波に押し流されてしまいそうになる。都では見慣れぬ色彩や服装の数々。水無月会議に赴く領主に付き添いのぼってきたよその地のひとびとがほとんどなのだろう。後ろから押されたはずみに離れかけた蝶の小袖の端をはっしとつかめば、蝶は桜の手を繋ぎ直して「これなら迷子にならぬな」と微笑んだ。
 途中、蝶に見立ててもらって昼夜帯とそれに合わせた朱の組紐を古物市で買い、包んでもらったものを抱いてあちこちの店を冷やかした。小豆がおいしい水茶屋に入って、冷し善哉をふたつ頼む。少し離れた場所にたたずんでいる蝶の護衛のひとのぶんも頼もうとすると、蝶は顔をしかめて、あやつのぶんはよい、と言った。どういうわけか、以前より蝶は自分の護衛を倦んでいるようだった。
 小豆をたっぷり使って甘く煮た善哉にはまるい餅がみっつ入っている。湯気が濛々としているせいで、日除け傘の影に座っていても熱気があったが、そのぶん冷やした善哉は喉に涼しい。桜は陶磁の椀を火照った頬にあてて、猫のように目を細めた。

「玉津卿の推挙、じゃったと?」

 冷茶をのみこんだ蝶に、うん、とうなずき、桜は匙で小豆をすくう。

「橙色の衣の、髭のひとが言ってた」
「髭といえば、名和よの。玉津卿の飼い犬じゃ。あやつめ、何か悪い企みなどをしておらんとよいのだが」

 ――今からでもいいけどさ、筝弾き姫の件は断ったほうがいいと思いますよ。
 少し前に聞いた真砂の言が自然脳裏に蘇り、桜は目を椀に落とした。蝶も真砂もこう言うからには確かに何かしら用心はしたほうがいいのかもしれない。よもや筝の調弦をするだけで月曲湾の藻屑になるようには思えないし、耳に聡い桜が、覚えこんだ音を間違えるとも思えないのだけれど。

「気をつける」
「そうしてくれ。まぁ当日は蝶もおるから、そう不安がらずともよいが」
「そうなの?」

 席は遠いがのう、とぼやき、蝶はお椀に残っていた善哉をふちに口をつけてずずっと飲み干した。汁粉のついた口元にぞんざいに懐紙をあてる。

「そうそう。桜サンは乞巧奠の由来は知っておるか?」
「ううん」

 知らない、と思って首を振れば、「やはりな」と蝶はいくらか調子を取り戻した様子でにんまり口端を上げた。

「蝶はな、宮中の山とある下らぬ儀式の中で乞巧奠がいちばん好きなのじゃ。何故だかわかるか?」
「ううん。……どうして?」
「ふふん、それはな! 乞巧奠が壮大なる愛の祭りであるからよ!」

 胸の前で手を組み合わせ、蝶は天を仰いだ。

「この世界には地を流るる川のほかに、天を流るる川というのがあってな? これを天の川という。小石の代わりに水底に星を煌かせ、月の小船を浮かべて天をふたつに分ける大きな川じゃ。地には地の帝がいるように、天には天の帝がおる。話をしたり、見たりすることはできないが、天には天の都があり、都人が住んでおるのじゃ。さて、天の帝にはひとり類稀なる美しい娘がおった。棚機姫じゃ。棚機姫は織物がたいそう上手な姫君での、毎日毎日他の娘たちのように遊ぶこともせずに機織ばかりをしておった。これを憐れに思った天帝が、西の川岸に住む牽牛という格好よくって美形の殿方を連れてきて、姫の婿とした。棚機姫と牽牛は深く愛し合うようになるのだが、仲良うなりすぎて、おのおのの仕事を忘れてしまうのじゃな。これに怒った天帝が棚機姫を川の東に、牽牛を川の西側に追いやって、ふたりを引き離してしまう。年に一度だけ、七の月の七日の日にだけ会うことを許しての。乞巧奠が七の月の七日に開かれるのはこれに由来しておるのじゃ」

 そうだったのか、と感慨をこめて、桜は空を見つめる。あいにくと天の川や棚機姫の姿は見えなかったが、天の上というものもいろいろと大変なのだなと深く嘆息した。大好きであったのに、引き離されてしまうなんて。

「であるから、七の月の七日は棚機姫にあやかり娘たちは手習い事がうまくなるよう天へと願いを捧げるのじゃ。筝弾き姫が筝を奏すのもそのためじゃな。祭りの前、あらかじめ願い事を五色の短冊に綴って笹に結び付けておくのだが、筝がうまく弾ければ、願いは聞き届けられ、失敗すれば聞き届けられないと言われておる。その年の筝弾き姫には少々重責であるがな」

 苦笑してから、「しかし」と蝶は声音を明るいものに変えた。

「今年の筝弾き姫が桜サンであるなら、ご利益もありそうじゃ。蝶の願いも天に聞き届けてもらえそうじゃの」
「ねがい?」
「――皇祇が無事帰ってくるようにと」

 目を瞠った桜にしずやかに微笑い、「手習いでないから天帝に叱られるだろうか」と蝶は肩をすくめた。


 冷やし善哉を食べ終えると、少し用があるのだと蝶が言ったので、半刻ほどあとにまた水茶屋の前で落ち合う約束をしていったん別れた。都の鐘は一刻おきに鳴るだけだが、桜のほうは感覚でわかるだろう。そのまま水茶屋でのんびり善哉を食べているのでもよかったが、蝶に感化されたのか、珍しく東市を見て回る気になった。水茶屋の気のいい主人に包みを置かせてもらって、巾着ひとつを持って市のほうへ足を向ける。
 東に市があることは知っていたが、稲じいからは東は物騒だからと引き止められていたし、食糧や日々の細々としたものを買い求めるなら近くの西市だけで事足りてしまっているため、あまり足を運ぶことはなかった。道のかたちや小路の入り組み方も皆、見慣れない。
 そわそわとあたりを見回してから、立ち並んだ露店の中に水の湛えられた丸い硝子器を見つけて、桜はさまよいがちだった足を止めた。水草の間をすり抜け、赤い尾ひれを翻す金魚を目で追い、つん、と指で硝子に触れてみる。古物市に、陶器市。米を焼いて砂糖をまぶした索餅を買って、あとで蝶と一緒に食べようと心に決める。目の端を腫らしていた少女を少しでも元気にしたかった。

「あ、」

 ふと目に留まったのは錆びた銅の看板の掲げられた小間物屋であった。昔ながらの古い店なのか、周りと違って店構えがしっかりしている。中には簪や櫛、笄のたぐいが無造作に並べられていた。
 数歩行き過ぎてしまってから、思い直してそぅっと店の暖簾をくぐる。店番は老婆ひとりのようで、日陰になった店の中でうとうとと居眠りをしていた。これでは危なかろうと思いつつも、ひとの目がないことにいくぶんほっとして、桜は惹かれた簪のひとつを手に取ってみる。銀めっきの二又の足に、薄紅色の丸い珠が挿してある。赤子の頬のような肌色は珊瑚だろうか。老婆が寝入っているのを確かめてから、端の黄ばんだ鏡に映る己を見やり、おそるおそる後ろに挿してみる。

「偽珊瑚、じゃな」
「ひゃ……!」

 つと耳朶を撫ぜた馴染みのある艶めき声に、桜は肩を跳ね上げた。漆黒に近い濃紫の小袖に身を包んだ女が少し首を傾けるようにして鏡越しにこちらをのぞきこんでいる。

「……紫陽花」
「石ころに卵白と赤の染料を混ぜて作ったまがいものよ。光沢がまるで違う。めっきの銀も剥げておるし、とんだ粗悪品じゃな。まぁそなたの挿し方のほうがよほど笑えるが」

 どうやら斜めに曲がっていたらしい簪を指で弾いて、「奇遇よの」と紫陽花は言った。

「そなたも七夕見物かの?」
「私は、蝶と善哉。紫陽花は?」
「ああ、私らは――」

 紫陽花が説明するさなか、水浅葱の暖簾を押しやる手があり、連れの青年が顔を出す。無防備に視線を合わせてしまい、あ、と呟いたきり桜は固く表情を強張らせた。それに対して雪瀬もまた、ああ、と息を吐く。

「桜。こっちに来てたの?」

 雪瀬の言う「こっち」とは東のことだろう。桜の住まう丞相邸は西側に位置するので、普段雪瀬たち地方の領主と生活範囲がかぶることはない。うん、とうなずき、桜はほんのり首を傾けた。

「雪瀬と、紫陽花は?」
「みやげを買いに来たのよ。乞巧奠が終われば、こちらを発たねばならんゆえな。近頃はどこの領主たちも皆同じじゃ」
「ここを、発つ?」
「水無月会議は終わったからの」

 当然のごとく返された紫陽花の言葉に、桜は思いのほか動揺した。
 ここを発つ。思えば、葛ヶ原に住まう雪瀬が長い間都に留まっているはずがないのだった。雪瀬は水無月会議のために都にのぼってきたのであって、会議が終われば、葛ヶ原に戻るのが道理だ。次にこちらに来るのは、何月も先。何年も先かもしれない。

「そうそう」

 声を失してしまった桜をよそに、紫陽花はほとりと手を打った。

「乞巧奠といえば、今年の筝弾き姫はそなたがやるようではないか。今、宮中や領主たちの間では丞相の人形が筝弾きをするというその話題でもちきりよ」
「筝を弾くのは藍だよ。私は弦を合わせるだけ」
「ふふ。果たしてそれだけで済むかな?」

 意味深に笑い、「それにしても」と話の矛先を変える。

「先の丞相邸での宴で一献やるだけでも縮み上がっていたそなたがかような大役を引き受けるとは思わなかったわ。当日は今上帝のほか、四季皇子をはじめとした皇子たち皇女たち、玉津卿ら十二官庁の卿たちに、各地の領主たち、集まる人数も、大きさも丞相邸の比ではないゆえ」
「……しってる」

 いたずらにこちらを脅すような物言いが気に触った。憮然と顔をしかめて、「筝がまちがうと、願いごとも叶わなくなるんでしょう」と桜は先ほど蝶から教えてもらったばかりのことを言った。

「左様か、なら十全。楽しみよのう。そなたの晴れ姿を観覧席のほうから見ておるからな」

 べつに、紫陽花に見守っていて欲しくなんてなかったのだけれど。睫毛を伏せ、うん、と桜は浅く顎だけを引いた。「さぁて、願い事は何にしようやら」紫陽花は上機嫌に鼻歌をうたい、からんと駒下駄を返す。どうやら小間物屋自体に用があったのではなく、桜を見つけて冷やかしに来ただけだったらしい。暖簾をくぐる紫陽花の亜麻色の髪にはまがいものではない、紫石の嵌めこまれた銀簪が挿してあって、桜はこみ上げたものを飲み下すように手元の黄ばんだ鏡へ目を落とした。髪に曲がったまま引っかかっていた簪を引き抜き、羅紗布の上に戻す。

「買わないの?」

 そっと柔らかな声に尋ねられる。紫陽花とともにいなくなったと思っていた男はまだそこにおり、どんな気まぐれか桜の戻した簪を指先でいじった。ひとの肌色をした珠が彼の指先でひかる。

「まがいものだもの」

 どうしてか急に泣きたい気持ちになってしまって、桜は冷たく言った。紫陽花のように本物の紫石をつけることのできない、真贋すらもわからない自分が情けなく思え、また求婚の証であるあの銀簪が妬ましかった。「そうなの?」と尋ねる雪瀬はしかしあまりわかっていない顔をして、卵白と赤い染料で作ったらしい偽珊瑚の珠を透かした。別の簪をまた手慰みのようにいじり、行き当たったひとつを取り上げる。小手毬を思わせる白い花群れの、羽二重のつまみ細工だった。柄から垂れた鉄ビラを揺らして、桜の後ろで結った髪に挿し、指先でほつれた髪を少し直す。

「桜は、こっちのほうが似合うと思う」

 甘さというものが欠片もない端的な物言いに桜ははたりと目を瞬かせる。それからようやく意味を飲み込んで、いったいどんな表情をしたらよいのかわからなくなり、目を伏せた。息が詰まるのではない。息が潰れて、消えそうになるのだ。彼を前にすると。目を合わせることも、言葉を交わすこともできなくて、桜はただすぐそばにある手のひらに子供がそうするようにそぅっと頬をすり寄せた。雪瀬の手は、動かない。昔だったらそうすると苦笑混じりに頬を包んでくれたのに、今触れている大きな手のひらは微動だにせず、かといって桜を振り払うでもなくそこにあるのだった。不意に指の腹が首筋に触れる。目を上げると、自分を見下ろす濃茶の眸は透明な、暗い湖面のようだった。こんな眸の色をどこかで見たことがあると思った。夜の淵になだれ落ちるようにして身体を繋げたあの晩も、彼はこんな目をしていた。そして桜に、わらわないで、と。もうわらってくれなくていいんだ、と。繰り返し言った。深く傷ついた声をして。いとおしさに駆られてねだるように頬を擦った。ふれてほしかった。それが首の血管の上でも構わなかった。首を絞められるでもよかった。この手に触れてもらえるのならもうなんでもよかった。真砂の言うとおり、確かに桜は病んでいるのだろう。
 微かに動いた指先が頬をふわりと撫でる。思い描いたよりもそれはずっとやさしく、一抹の淡雪が溶けてなくなるかのような。

「ゆかないと」

 つまみ簪がすっと引き抜かれる。彼が告げた言葉は短く、けれど桜に現を思い出させるには十分だった。ゆかないと。あじさいのところに、ゆかないと。引き抜かれ、手の上に載せられた簪へ桜は目を落とす。常盤色の上着裾を翻し、さやかな衣擦れの音とともに彼は桜のもとから離れた。葛ヶ原へ戻るの、と頑なに振り返ることをやめて桜が訊けば、そうだねもうすぐ、と静かな声が返る。暖簾が揺れる気配を感じた。――ああ。まって。いかないで。焦燥が抑えきれなくなって振り返る。しかし戸口にすでに求めた背中はなく、ただ初夏の雨にも似たそよ風がくゆって、夏の光の向こうへ消えた。店の翳りのうちで桜はことんとうなだれる。そして手の上に載ったつまみ簪の花を、無為に足元へと落とした。
 かさりと乾いた音が鳴る。瞼を、閉じた。
 それがこの年桜が都で男と交わした最後のやり取りになった。