四章、胡蝶の夢



 九、


「そういうときは略奪愛じゃ」

 雪瀬と紫陽花にまつわる一連の話を聞き終え、蝶が放った言葉がそれだった。耳慣れぬ単語にきょとんと目を瞬かせ、「リャクダツアイ」と桜は蝶の台詞を鸚鵡返しにする。うむ、と蝶は神妙そうにうなずき、山と積まれた草紙をあさって、一冊を取り出す。褪せた朱色の表紙には『朱表紙〜人妻の章〜』という題名が何やら艶かしい女性とともに描かれていた。

「あいする男を妖艶なる美女に奪われてしまったと。たわけ! それなら奪い返してやるというのがオンナというものよ。ちなみにこの人妻の章には付録として、男を誘惑するための方術が四十八載っておってな。これがなかなかに、鼻血なしには読めぬシロモノなのだが」

 そこで言葉を切ると、蝶は桜へ草紙を差し出した。

「この秘伝の書を我が友に授けてしんぜよう。そして略奪愛に励むのじゃ」

 略奪愛とは、はて励んだりがんばったりするものなのだろうか。桜は首を傾げたが、さりとて蝶の好意を無駄にしてはならぬと思い、「うん」と受け取った朱表紙を胸に抱えてうなずく。

「リャクダツに励んでみる」
「よしよし。それでこそ私の可愛い桜サンじゃ」

 蝶は桜の頭をくしゃくしゃと撫ぜると、「がんばれな」と微笑んだ。化粧や髪の結い方は蝶が教えてくれるのだという。今度の定期市のときには着物や髪飾りを見に行こう、と蝶は言った。思えば、これまで身の回りのことにはほとんど気を使ってこなかったけれど、こうして本当に簡単にであっても、髪の結い方を変えたり髪飾りを増やしてみたりすると、それまで陰鬱だった心がすっと晴れてくるのだから不思議だった。さっきはもうどうしようもならないくらいどん底の気持ちになっていたのに、蝶に話したとたん、それほどでもない気がしてくる。

「本も興味があるのがあったらどれでも持っていってよいからな」
「うん。――蝶」

 朱表紙の山の隣に積まれていた難解そうな題名の書物を持ち上げ、「これ、」と桜は言った。

「ムズカシイ?」
「南海地誌のことか?」
「ナンカイチシ」

 いったいどんな漢字をあてるのかわからず、むぅと眉をひそめてしまうと、蝶は桜の手から本を受け取って、「面白いよ」と言った。

「だが、地誌というのはどうにも針の穴をつつくるようなせせこましい話が多いからのう。桜サンは歴史や地理などは?」
「ううん」

 ふるふると首を振る。この三年で桜が習ったのは、文字の読み書きや算盤といったごく基本の知識であって、他の学問を体系的に習ったことはなかった。ときどきぷらりと夕餉を食べにやってきた嵯峨が酒を肴に政治や政策の話をすることはあったが、学者でもある彼の話はどうにも難しすぎるきらいがあって、桜はうとうとと眠ってしまうことが常である。

「なら、最初はもっと簡単なものから入ったほうがいいと思うぞ。そうよのう……、ほら、これはどうじゃ? 二百年前におわした光明帝について書いた本なのだがな。政治や地理の話もたまに出てくるが、大筋は光明帝の人物伝であるから読みやすいしの。それにな、桜サン。光明帝は歴代で夜伽の姫を皇后として娶ったただひとりきりの帝なのじゃ。蝶はこの琴姫と東雲皇子――のちの光明帝とのくだりが大好きでなぁ。それから橘の開祖となる風術師も出てくる」
「ほんとう?」
「ああ。桜サンもきっと好きになろう」

 蝶はうなずき、ずいぶん読み込んだらしく少し角のよれた常盤色の本を桜に渡してくれた。夜伽の姫のことも気になったけれど、やっぱり橘の開祖の話が読んでみたい。確か女性であったと聞いたことがあったけれど、どんなひとなのだろうか。貸してもらった草紙を抱き締め、桜は「ありがとう」と笑みを蕩けさせた。


 その日は帰ってから、夜通し蝶に借りた草紙を読みふけった。難しい漢字がまだすらすらと読めない桜はところどころ止まっては意味を調べての繰り返しだったけれど。その作業すらまた楽しい。ひとつ、知ったことがある。この国は最初から傾いてなどいなかったこと。ひとりの非凡な賢帝がいて、彼を愛し、彼のもとに集った人間が数多くいたのだということ。橘華雨。のちの橘開祖となる女傑はしなやかで、強くて、気ままで、天真爛漫で、青嵐のにおいのする風をまとっていた。そのしたたかな強さは懐かしい橘の少女の面影を思い起こさせ、桜は頬を緩める。だけども、話が進むにつれ惹かれたのはまた別の女性だった。光明帝の寵姫琴姫。光明帝がやがて天寿を全うしたそのとき、この人形の姫はともに柩に入り、炎で焼かれて、灰となったのだという。その末路に、焦がれた。
 桜も、あいする男と灰になるまで寄り添い続けられたら。それを、許されたら。まるで夢のような。夢のような、話だけども。そんな風に、くるおしいくらいに思った。





 翌日桜は十人衆の朝食の世話を終えると、残ったごはんに紫蘇と刻んだ梅を混ぜて握ったのと嵯峨の屋敷の鶏が産んだばかりの卵とを割り子に詰めて、宮中『赤の殿』に向かった。嵯峨を介して、熱冷ましの薬草を持って来いとの文が月詠からあり、以前薬草医に調合してもらった薬の残りを持って行くのと一緒に弁当を作ったのだった。桜は、久しぶりに晴れ間を見せた空を仰ぐ。青嵐が引き連れてきた雨雲のせいで雨が長く続いたけれど、盛夏はまもない。抜けるような真っ青な空から降り注ぐ強い日差しが都の鄙びた小路を焼いて、陽炎をゆらめかせる。都という場所の特性だろうか。生き物の気配はどこか希薄で、水たまりの残る道を痩せて骨の浮き出た野良犬が食べ物を探して横切っていった。
 宮城の門にたどりつくと、桜は門衛に首にかけた銀の鈴を見せる。この国は、関所を越える際には櫟の樹でできた鈴を使い、宮殿に入る際には銀の鈴を見せる。個々の鈴は持ち主の役職や所属ごとに形状や音色が違い、桜が月詠から貸し与えられた銀の鈴は裏に繊月が描かれているのが特徴だった。素性を明らかにしないこの男は家紋を持たなかったが、代わりに名前にちなんだ爪痕のごとき細い月を紋に使っていた。
 出入りの商人などが行き来する門に並ぶ。すでに顔見知りの門衛に鈴を見せて中に通してもらうと、桜は丞相の執務所である『赤の殿』に向かった。

 古くから丞相の執務室のことを『赤の殿』と呼ぶ。赤、と呼ばれるのに柱が赤いわけでも、格子や欄間が紅殻というわけでもない。丞相という地位柄、かつてこの殿で時の丞相が政敵に刺し殺され、その血が床を赤々と染めたからだとか、いやいや、単に百年以上前、権勢を誇った丞相が赤い衣を好んだからだとか、いろいろな説があるものの、確かなことはわからない。後者の話を桜に教えてくれた琵琶師は、それなら、『赤の殿』もあと十年したら『黒の殿』に変わるのう、と月詠の漆黒衣を揶揄して笑っていた。

 灼熱の太陽の下でも、赤の殿はどこか鬱蒼とした静寂に包まれていた。
 この場所が、桜はあまり好きでない。であるからそばを通りかかった小姓を捕まえると、これ幸いと風呂敷を預けたのだけども、この少しひとの機微に疎いところのある小姓は桜を本当に月詠の寵愛深き妾と思い違えているらしい。丞相なら今菊の間のほうにおりますよ、と言って、逆に案内されてしまった。菊の間というのは、丞相が休息を取る私室のようなものである。淡雪のごとき風合いの几帳から「月詠」と中の男に声をかける。果たして男はいた。小姓がいらぬ気を利かせて一礼ののちその場を立ち去る。桜は仕方なく息をついて、脇息にもたれかかって書見台に置いた本をめくっていた男の前に立った。腕に抱えていた包みを差し出す。差し出すというよりは突きつけるといったほうが正しいのかもしれない。

「薬草」

 男に向ける桜の言葉はどこまでも簡潔だった。それでも別段気分を害した風でもなく、月詠は「ずいぶんと大きい包みだな」と至極もっともな感想を述べた。突きつけていた包みを持ち直して畳に置くと、桜は風呂敷の結び目を解く。

「……おひるは?」
「食べていない」
「いる?」
「いる」

 男がうなずくので、桜は中から取り出した割り子と水筒代わりの竹筒とを差し出した。筒の中には、道中物売りから買った薄荷水が入っている。薄荷は爽やかなよい香りがして、飲むと胸がすっとするのだ。男が薄荷水に口をつけるかたわら、桜も割り子に詰めた紫蘇の握り飯をひとついただく。

「頭痛が、するって」
「ああ。暑気にやられたのだろう。珍しいことではない」
「……そう」

 珍しいことではない、と男は言うけれど。
 薄荷水を口にするばかりの男は血の気がまるでない。少し痩せたのではないだろうか。黒衣の袖裾から見えた男の血管の浮き出た白い手首に気付いて、桜は思った。
 月詠という男は、夏にひどく生気が失せる。ものをろくに食わなくなり、酒や氷水でそれを誤魔化すようになる。であるから、夏のうだるような暑気の中でも男はいよいよ透け入るかのような肌をして、気だるい顔で香をくゆらせているのだった。まるで雪か何かのようだ、と思う。夏に生きてゆけぬものが無理やりに生きている。男を見ていると、そんな気すらする。

「……食べないの?」
「薄荷水はもらったゆえな」

 どうやら、この男の「いる」は薄荷水に対してだけだったらしい。心尽くし、というわけでもないけれど、いちおう男のために作った弁当はすべて残されてしまい、桜はなんとなくつまらぬ心地になった。そう、とすげなくうなずき、残っていた握り飯をふたつみっつと腹に詰めていく。すべてをきれいに食べ終えて、指についたごはん粒を猫がそうするように舐めていると、「……よく食べるな」と男は苦笑いを滲ませた。たおやかな指先が桜の頬肉をつまむ。

「よほど図太いと見える。心なしか前よりふくふくとしてきたのではないか」

 どうしてこのひとはいちいち桜の気分を逆撫でする言葉ばかりを吐くのか。
 憮然となってそっぽを向いてしまうと、男は別段執着する風でもなく桜の頬から指を離した。かさりと衣擦れの音が立つ。男の気配を感じて伏せていた睫毛を上げると、膝に軽くはない重みが乗った。見れば、やすやすと懐に滑り込んできて、膝に頭をもたせている男の姿がある。なに、と訊いた桜に、少ししたら起こせ、と男がぬけぬけと言う。銀の睫毛がふっと伏せられる。白く柔らかそうな瞼は、なんだか、嘘みたいに無防備に思えた。夏に生きられぬ、雪のような男。桜は男のほうへと目を落とし――、そして、膝を振って男を畳に落とした。代わりに転がっていた箱枕を男の頭の下に入れる。箱枕をあてがわれた男は薄く開いた双眸に呆れたような色合いを載せた。

「……妾ならたまにはそれらしい役割を果たしたらどうだ?」
「だって、イヤなものはイヤ」

 きっぱりと言い切って、桜は男から身を離す。何故なら、桜の膝を使っていいのはこの世で雪瀬だけなのだ。使われたことなどただの一度もなかったが、桜は基本的にすべてにおいて橘雪瀬に専売特許なのだ。――というようなことを恥らいながら至極真面目にぽつぽつ語ると、月詠は珍しく、肩を震わせて笑った。それがなんだか馬鹿にされているみたいでますます気に食わない。桜が眉をしかめると、ようよう笑いをおさめるのと一緒に男の白掌が伸ばされた。それは桜の首筋のあたりで揺れる簪の白蝶を捕える。くつ、と男は喉を鳴らした。

「わかりやすいな」

 桜の顔を一瞥した男が端的に指摘する。その意味するところがすぐにわかってしまい、桜は罰が悪くなって、目をそらした。男の手のひらは蝶飾りを爪弾くと、見よう見真似に結った髪から薄く白粉のはたかれた頬に触れ、蜜をのせた唇のふちをなぞる。

「たぶらかすのなら、もっと濃い紅を使わねば。毒々しいくらいに赤く、濃い」

 なぞる男の爪の先に蜜がつく。ねっとりと濡れた爪はぞっとするくらい艶やかな花色をしていた。折った指先でつと顎を取られ、目をあわせさせられる。

「あの男を、あいしていると?」

 尋ねられた。あまりにも簡素な問い。桜は軽く目を瞠り、ふかく、おもい言葉が抱えきれなくなって眉根を寄せ、ゆるゆると睫毛を伏せた。震えながら、微かに顎を引く。それで、精一杯だった。息ができなくなりそうだった。男は喉奥で忍び嗤い、「それは面白いな」と嘯いた。

「月詠は」

 桜はためらいがちに口を開く。

「月詠は、ひとをあいしたことがあった?」

 どうしてそんなことを、この男に聞いたのかわからない。
 長い年月、繰り返し繰り返し飽くことなくモノでも扱うかのごとく自分を犯した男に尋ねたのか、わからない。だけど、桜は聞いた。心の深いところが呼ぶままに男に尋ねたのだ。

「あったよ」

 考えていたよりもずっと簡素な答えが返った。髪をいじっていた手のひらがふと首筋の脈に触れる。指先にそこを押さえられると、とくとくという皮膚の下の音がひどく生々しく聞こえた。命を握られている、その感覚を知りながらも、桜はひどく冷めた心地で男の手のひらを見ていた。男もまた、無表情に桜を見ていた。悠久にも思える時間が過ぎ去り、ふと苦笑すると、月詠は桜から手を下ろした。

「長く喋ると、やはり痛むな。伊南がやってきたら、起こしてくれ」

 背を返して、目を瞑る。男の端正な横顔は表情らしい表情をかたどらぬままで、いったいいつ眠りに落ちたのかは知れない。だが気付けば、ことんと落ちた静寂の中で、しずかな、しずかな、虫の息のような、儚い寝息がしていた。先ほどの強い日差しはなりをひそめ、少し涼しくなり始めた夕風が半蔀の向こうから吹いてくる。落日。鏡のように磨きぬかれた床に赤い斑ができていた。赤の殿、とはもしかしたら、このような光景を見た誰かが呼び始めたのかもしれない、と桜は思った。出しっぱなしになっていた割り子を片付け、風呂敷を畳む。そして、それから。桜は裾を折ってかがみ、そろりと小さな手のひらを男の冷たい額に置いた。痛むといっていたこめかみが和らぐように、手を置いた。なぜ、と桜は思う。何故、心を踏み躙り、身体を蹂躙し、ありとあらゆるものを奪い取って、なお平然と嗤う男に、自分は手を置くのか。乞われれば、甲斐甲斐しく薬草と弁当を持って、男のもとに向かうのか。身体を気遣ってしまうのか。わからなかった。ぜんぜん、わからなかった。桜は、もしかしたら、本当にひどい馬鹿なのかもしれない。阿呆な愚か者なのかもしれない。けれどその一方で、理解を、し始めている。時間は、情を作る。それがたとえば愛情ではないにせよ。友情や、親愛にはならなくとも。情を作る。切り捨てがたい、ほそくて、なまぬるい情を。
 桜は男の額に置いた自分の手のひらを見つめ、目を伏せた。夏にもかかわらず、氷のように冷たい男を、桜はカワイソウだと思った。