四章、胡蝶の夢
八、
湯殿から出ると、湯冷めしないうちにと木綿の湯帷子を着せられ、蝶にあてがわれているのだという一間へ通された。蝶柄の水浅葱の几帳で区切られた部屋はびっくりするほどの量の書物で埋もれている。その中にひときわ使い込まれて褪せた様子の朱色の草紙を見つけ、桜は眸をひとつ瞬かせた。少し見覚えが、あるような。確か真砂の手の中に同じようなものがおさまっているのを幾度か見た気がする。
「朱表紙じゃ。蝶は眠る前にいとしの皇子さまを思って朱表紙を読むのじゃよ」
うふふ、と夢見る乙女のごとく陶然と翠の眸を細め、蝶は「好きなのがあったから持っていってよいからな」と微笑んだ。それきり紅色の帯を翻して二階棚のあたりをごそごそ探り始めてしまったので、桜は所在なくあたりを見回した。やっぱり、本が多い。朱色の草紙が積み重なって並ぶ横では『珍獣百系』だの『東洋毒薬大全』だのいかがわしそうな名のつくものから、『史書』や『地政論』といった難しげな本まで、さまざまある。その中に紫陽花の部屋の書見台に置いてあった書物を見つけて、桜は蝶に断りを入れるとそっと表紙をめくってみた。
昔者荘周夢為胡蝶。栩栩然胡蝶也。
読めない。何を言っているのかさっぱりわからない。それでも数頁ぺらぺらとめくってみたが、いったいどんな気持ちで読んだらいいものなのかすらわからず、桜は本を投げ出してしまった。ほんに幼き子供だな、という紫陽花の言葉が脳裏に蘇る。引きずられて呼び起こされた、あの消えてなくなりたくなるような強烈な羞恥に、腹のあたりが熱っぽくなってぎゅうぎゅう痛んだ。
何故、雪瀬は桜を選んでくれない。桜が馬鹿だからだめなのか。桜が栩栩然胡蝶也が理解できる娘だったら、あのひとの、雪瀬の隣に立つことができるのか。……だって、紫陽花は美しい。ささいな仕草にくゆる、育ちのよさをうかがわせる気品。時に鋭さすら覚える知性と思慮。夜闇に咲く花のごとき美貌と、揺るぎない自信に裏打ちされた口ぶり。紫陽花は桜にないものばかりを持っている。否、それを言うなら、桜に自分のものであるとひとに誇れるものがひとつでもあったろうか。雪瀬は桜を拾った。けれど、選んだわけじゃない。道に落ちていた、傷つき憔悴した娘を見過ごすことができなかったのは彼の優しさでこそあれ、桜の望むものとは違う。彼は、桜を、選んでくれたわけじゃない。
「桜?」
目の前で手を振られ、桜ははたと暗い方向へ沈んでいた思考を取り戻した。ほらまたぼぉっとしておる、と蝶は笑い、こっちじゃ、とちょうど対面のあたりの畳を叩いた。蝶の前には二階棚から引っ張り出してきたらしい櫛箱や、水の湛えられた盥や花彫りのなされた三段重ねの小箱があったりした。ままごと遊び、とは少し趣が違う。蝶が箱の一段目から、筆や貝殻を取り出したので、絵でも描くのかな、と桜は思った。
「じゃあ桜サンは目を瞑れ。蝶がいいと言うまで身じろぎをしてはならぬぞ」
「目? ……どうして?」
「どうしてもじゃ。ほーら、蝶がつむれといったらつむるのじゃ」
そう言うと、蝶は桜の目元に手のひらを置いて、無理やり瞼を閉じさせてしまう。蝶が何をしたいのかわからないが、真砂と同じく彼女の気まぐれにも慣れつつある桜である。いぶかしく思いつつも蝶に身を預けることにして、正座をした膝の上に手を置いた。ぴちゃんと水の跳ねる音がして、湿った綿を頬にあてられる。冷たさに小さく肩を震わせると、「動くでない」と怒られてしまった。蝶は桜の顔を丁寧にこめかみから頬、額、鼻筋と拭い、「今のは花露と言ってな」と何かの作業の片手間といった風に説明する。そぅっと薄目を開けると、ほの淡い粉を水に溶いている蝶の白い手元が見えた。
「一番咲きの薔薇(ソウビ)から露を取り出したのじゃと。よい香りだろう?」
言われてみれば、微かに甘い香りがする気がしないでもない。すごくコウカなもの?と心配になって尋ねると、蝶は「はて」と肩をすくめた。
「タマの……蝶の母上代わりの女官の手製であるからの。あやつ、花や草に詳しゅうて、あれこれ小器用に作りおるのよ」
「すごい」
桜がほのかに声を弾ませると、蝶は「よい香りじゃろ?」とさっきともう一度同じことを自慢げに言って、桜の目元に手を置いた。目を瞑れ、ということらしい。頬にひた、と柔らかな筆先のようなものを当てられる。さっき水に溶いていた粉だろうか。頬の産毛をなぞるようなそれがくすぐったくて、桜は身を縮めてしまうが、蝶は綿をあてたときと同じように慣れた様子で筆を動かしていった。
「眉、はよいな。きれいな眉だものな」
独り言のように呟き、蝶は貝殻と小筆を手に取った。貝殻に筆をつけると、染料が入っているのか、先端がほのかに艶やかな紅に染まる。それを桜の口元へ持って行き、つぅと横に滑らせた。
「口をぎゅっと結んではならぬぞ。普通にせい」
緊張からか力の入っていた桜をそう嗜めて、蝶は指先をそっと下唇のふちに乗せた。何かを整えるような要領で唇に触れられる。唇に添ってなぞり、赤く染まった指先を離された。
「――うむ。よいよい。力を抜いてよいぞ」
蝶の声に引かれて、桜はいつの間にか詰めていた息を吐いた。何をされていたのかいまひとつわからず首を傾げてしまうと、蝶は「次は髪だな」と言って袖まくりをする。
「カミ?」
「うむ。桜サンはどんな結い方が好みかの? いつも後ろで結っておるが、今日はもう少し高く結ってみるか」
蝶は桜の後ろに回り、櫛箱から取り出した木櫛で髪を梳いた。まだ少し湿っている髪は滞りなく櫛の歯を通す。ひと房ひと房を丁寧に梳くと、蝶は髪を持ち上げて、手際よくまとめてしまう。いつも挿している銀簪に添えて、棚の一番下の段から取り上げた縮緬の夏椿を挿した。花からは小さな愛らしい蝶が垂れて、翠の硝子玉と一緒にひらひらと揺れる。最後に桜の前髪を手櫛で梳かすと、「おしまいじゃ!」と蝶は言った。
「目を開けてよいぞ。今、鏡を持ってきてやる」
二階棚の隣に置いてあった丸い鏡のおさまった台を蝶がよいしょと動かす。そこに映りこんだ自分をおそるおそるのぞきこんで、桜は目を瞬かせた。なんだか、見慣れない。
「な? 可愛いであろう?」
一呼吸ぶん間をおいて、蝶は桜の隣から一緒に鏡をのぞきこんだ。
「桜サンは可愛い。蝶の知っておるどんな姫君よりも可愛い。だから、みっともないなんてことはない。もしそうだというなら、そう思う桜サンのほうが間違っておるのじゃ」
桜ははっとして蝶のほうを見やった。
みっともない。みっともないから、と目をそむけた。だから蝶は。ここへ桜をつれてきてくれたのだと気付いたのだ。
「だって、桜サンはよう知らぬ蝶のために毎日歩いてくれたではないか。小さな足で一生懸命皇祇を探してくれたではないか。それのどこがみっともないことになろう。違うか? 蝶は可愛い桜が大好きなのじゃ」
両頬に手をあてがわれて、真正面から見つめられる。嘘偽りのない翠。桜は眸を大きく見開いて、それから弱く嗚咽をこぼした。蝶の言葉をまるごとのみこめたのとは少し違っていた。桜はやっぱり無力で、皇祇と蝶を会わせてあげることもできなくて、そのとおりだと思えたわけでもなかった。だけど。だけど、ちがうって。みっともなくなんかないよって。蝶に言ってもらえたのがうれしくて。うれしくて、あたたかくて、たまらなかったのだ。喉奥からつたない嗚咽が漏れるのを懸命にこらえて、こらえて。「何ゆえ?」と蝶に問われた。泣けばいいのに、と蝶はそう言いたかったのだろう。だけど、桜はかたくなに首を振った。だって、だって、だって。
「なかない、ってきめた」
泣かない。もう泣かない。子供みたいに泣いたりしない。
雪瀬と離れ離れになって、心が死んだようになって、柚葉の前でたくさん泣いて。そのときに一度。そして、雪瀬と再会できて、また離れ離れになってしまって、丞相邸にやってきた朝に、もう一度。決めたのだ。もう泣かないのだと。もっと、もっともっともっともっともっと。つよくなりたかった。あいするひとをぜんぶ、からだもこころもあますことなく抱き締められるくらい。つよく、なりたかったのだ。もしも次にあのひとが苦しみの淵に囚われてしまっても、桜が支えてあげることのできるように。
途切れ途切れにそのようなことを呟くと、蝶は笑って「桜サンはお姫さまというより皇子さまじゃのう」とぎゅっと抱き締めてくれた。
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