四章、胡蝶の夢
七、
止まらない嗚咽を夜具に押し込め、小さくうずくまる。夜が更けて朝になっても、幼子のようにずっとそうしていた。準備していた夕餉を食すわけでもなく。風呂を沸かすわけでもなく。次の朝餉を準備するでもなく。一晩中降り続く雨音と、東の空のほうで響く遠雷を聞いていた。
「桜。おい」
明け方泣き疲れてようやくうとうとと浅い眠りにつくことのできた桜の肩を揺さぶったのは、大きな男の手のひらだった。うっすら明るくなった視界に目をこすって、伊南、と桜はかすれた声で呟く。男はいったいどうしたのかだの、身体を壊したかだのを矢継ぎ早に訊いてきて、その隣では嵯峨が几帳面そうな眉間に縦皺を刻んで、「めし」と呟いていたりする。ああ、もうそんな時間だったのか。理解はしたものの、身体を起こす気にはなれず、桜は昨日準備しておいた夕餉の鍋のことを教えた。ときどきぷらりと訪れる十人衆や月詠のために桜はいつも量を多めに作っておくので、朝食としては足りるだろう。
「お前はいらんのか」
「……いらない」
「……よそっては…」
「じぶんで、して」
緩く首を振る。思えば、昼食もろくに取ってない上、夕食も抜いたというのにおなかは全然減ってなかった。どころか今は、鍋の匂いを嗅ぐだけで気持ち悪くなるような、そんな気がした。桜のすげない態度をどう取ったのか、伊南は「わかった」と呟いて、「飯は今日はいらん」と言った。桜の肩に羽織をかけると、他の十人衆たちを連れて、部屋を出て行ってしまう。最後に「オナカヘッタ」という白藤のしょぼくれたような呟きだけを残して襖が閉じた。いくつもの足音が遠ざかっていく。最初は伊南たちの世話に追われる必要がなくなったことにほっとしたが、徐々に腹の底から後悔の念が競りあがってきた。だって、おなかをすかせてこの家にやってきてくれたのに。桜の我侭で追い返してしまった。もう来てくれないかもしれない。誰も、来てくれないかもしれない。どろどろした自己嫌悪と後悔とに苛まれ、桜はすべてから目をそむけるように眸を固く閉じた。このまま消えてしまいたかった。
朝の喧騒が過ぎ去ってしまうと、丞相邸は気だるい静寂に包まれる。何をするでもなくそうやってしばらく突っ伏した布団の中でうとうととまどろんだり、暗い思考のふちを彷徨ったりしていた。無為にどれほど時が過ぎたのだろう、外の雨音が弱まった頃、こんこん、と玄関を叩かれる音がした。桜の耳は確かにその音を捉えていたが、気だるさのほうが勝って、また寝返りを打つ。こちらの返事を待っているつもりなのか、しばらくの間玄関にひとはいたようだ。けれどほどなく、じゃり、と雪駄が返される音がして、気配が離れていく。きっと雛か稲じいだろう。桜が馬洗いに来ないから怒ってしまったのだ。そんなことを考えながら、もうどうにでもなれ、という気分になっていると、外の板敷きがきし、と軋んだ。
「桜」
霧雨のやわく屋根を叩く音に混じって、その声は確かに桜に届いた。
稲じいや雛より幼い、絹のように柔らかな声。
濡れた睫毛を震わせ、ちょう、と桜は口の中で呟く。
「桜。おるんじゃろ? 犬が外で鳴いておる」
障子戸越しに蝶の声が聞こえる。来て、くれたのだ。だけど、桜はひりついた喉から声を絞り出すのを諦めて、ゆるゆると首を振った。探るような沈黙がしばらく続く。じゃり、と雪駄が土を食む音がしたので、諦めて帰ってくれたのだろうと少しほっとするや。すぱんと障子が開かれた。桜は驚いて、目を瞠る。薄暗い室内よりはいくらか明るい外光を背負って、蝶がそこに立っていた。足元には外にいたらしい泥んこの犬もいる。
「ほら、おった。やっぱり桜サンじゃ」
ぱっと表情を輝かせると、蝶は臆面もなく部屋に踏み入ってきて、桜のかたわらに膝を折ってかがみこんだ。
「どうした? 外から声をかけてもちっとも返事が返らんから、よもや死んでおるんじゃ、と心配になったではないか」
蝶は翠の眸を和ませて微笑んだが、桜は後ろめたい気持ちに駆られて俯いてしまった。おや、とそこで何かに気付いた様子で蝶は桜の顔を覗き込む。蝶の白い手のひらが火照った頬を包んだ。
「なんじゃ、泣いて、おったのか? ひどい顔じゃ」
「ヒドイ……?」
そういえば、桜は橘のお屋敷から逃げるように帰ってきてから一度も自分の顔を見ていなかった。お風呂にも入っていなかったから、泥と雨とで汚れたままなのはもちろんのこと、一晩泣いてばかりいた自分がいったいどんなことになっているのか想像にたやすい。気付くと、ひどく情けない気分になってきて、桜は蝶の手のひらからいやいやするように首を振って逃げた。深く俯いて、いや、と呟く。
「かえって」
「馬鹿め。帰れるわけがなかろう。おぬしがそんなだというのに」
ふるふると桜はかぶりを振った。だって、恥ずかしい。こんな自分を蝶に見せたくない。はずかしい。きえてしまいたい。唇を噛んで俯いていると、「――桜」と。硝子の鈴が触れ合うような澄んだ声が自分を呼んだ。両手のひらが頬をつかむ。夏の雨に濡れた若葉のような、きれいな翠の眸。それにまっすぐ目を合わせられてしまうと、逃げ場をなくしたかのような錯覚に囚われた。
「だって、」
喉を鳴らしてしゃくり上げる。幼子が駄々をこねるみたいに、「だって、だって、」「だって、」とそればっかりを繰り返す。苦笑して、蝶が「だって?」と優しく言葉を継いだ。
「だって、なんじゃ? 話してみい」
「……わたし、みっともない」
みっともない。あたまがわるくて、無力で、空回って、いつも泣いてばっかりで。それしかできなくて。そう吐露すると、胃がぎゅっと痛んで熱いものがせり上がってきた。泣いてしまうのは嫌で、息を細く喘がせて嗚咽をのみこもうとしていると、それまで頬にあてがわれていた手のひらがふと下ろされた。急に心もとなさに駆られて蝶を見上げようとすると、強い力で手首をつかまれる。そのまま有無を言わさず引き立たせられ、桜は軽くよろけてしまった。何事かと足元にまとわりついてきた犬の頭にぽんと手を置くと、「おぬしの友達を借りるぞ。留守番をよろしくな」と蝶は言った。そしてぽかんとしている桜を屹然と振り返る。
「ほらゆくぞ、桜。いつも蝶ばかりがお邪魔していたからの。今日は琵琶のじいさまに桜を連れてこいと言われていたのじゃ。な? ゆこう」
にっこり微笑むと、蝶は桜の手を引いて歩きだした。
*
琵琶師はこの国の現任の宮内卿である。会うにしても、まず風呂に入らねば。そうでなくとも服くらいは着替えなくては。そう言い募った桜を、「案じるでない」と蝶は一声で一蹴する。琵琶師のお屋敷まではそう遠くない。ごねているうちにいつの間にか狸の瓦屋根のある屋敷にたどりついてしまい、桜も観念せざるを得なくなる。年配の門衛は桜の姿を見ても別段驚く風でもなく、中に通してくれた。琵琶師のお屋敷は、橘邸や丞相邸とはまた異なった、前時代風の古い造りをしている。虫食いのひどい太い柱を撫で、もう百年も前から建っている屋敷なのじゃ、と蝶は笑うと、控えていた下男に薪で風呂を沸かすよう命じた。蝶の護衛をしていた男はそこですっと無言のうちに下がる。
「宮内卿は……?」
「まだ出仕しておる。夕刻頃戻ってくるじゃろ。あやつの琵琶の音はよいぞ桜。兄上がよく天上がごとき音色と褒めておったことがある」
「びわ」
「見たことはないか? 近頃弾き手も少なくなってきたからのう」
蝶は床の間に飾ってある屋敷の主人のものらしき紫檀の琵琶を指差す。ものの価値は桜にはわからなかったが、艶やかに光る紫檀の楽器は大事に手入れをされているのが伝わってきて、確かに美しく見えた。近くに寄ってじっと見つめていると、「触れてはならんぞ、琵琶師の雷が落ちよる」と蝶が冗談めかして肩をすくめた。
「蝶姫さま」
しばらくすると、さっきの下男がやってきて風呂が沸いたことを告げる。「うむ!」と返事をする蝶はいたくご機嫌である。首を傾げるこちらの手を引いて、奥の湯殿の前らしき部屋に入るとおもむろに縮緬地の帯を解き始めたので、桜は面食らってしまった。
「わたし、出る?」
「あぁ? 何を言っておるのだお馬鹿さんめ。入るのは、蝶と桜サンじゃ。ふふー、懐かしいのう。小さい頃兄上や皇祇とやった背中の流しっこなるものが蝶はやりたくて仕方のうなってなぁ」
帯を解いて夏物の薄い衣も剥いでしまうと、それを衣桁にかけて、「ほら」と蝶はたじろぐ桜をうながした。
「桜サンも脱ぐのじゃ!」
「ひゃ、」
手際よく小袖や襦袢を剥ぎ取ってしまうと、蝶は桜の腕を引いて湯殿に向かった。熱っぽい湯気が視界を真っ白くする。ふわ、と息をのむ桜をよそに、蝶は勝手知ったる何とやらで桶をひとつ持ってきて、湯船に湛えられていたお湯をすくった。
「桜サン、桜サン」
「うん?」
「えーーーーいっ」
桶をひっくり返して頭からお湯をかけられ、桜は慣れない熱さに悲鳴を上げた。びっくりしたせいで少し水まで飲んでしまったらしい。涙目になって咳き込んでいると、蝶はころころと笑い、「引っかかったのう」と嬉しそうに言う。ほんとうに、真砂みたいなお姫さまなのだから。桜は桶をむんずとつかむと、お湯をすくって、それをえいっと蝶に引っ掛けた。やりおった、と蝶は笑い、勢いよく湯船の中に飛び込む。激しい水音が鳴って、反動で波立ったお湯が溢れ出した。手ですくったお湯をぴゅっと細い線にして桜の頬にかけ、「水鉄砲じゃ」と蝶は得意げに胸を張る。ずるい。桜は水鉄砲のやり方なんて知らない。むぅ、と顔をしかめてしまうと、蝶は口元を綻ばせて、頬や額やあっちこっちに水を飛ばしてくる。外で薪を割っていた下男が驚いて飛んできてしまうほど騒いだせいで、身体を洗う前に湯船のお湯は半分以下になってしまっていた。
「ふぃー。よう遊んだのう」
ご満悦そうに息を吐くと、蝶は乱れてしまった白銀の髪を後ろで玉を作ってまとめた。そこに座れぃ、とびしっと命令をされ、桜はもう反論する気もなくなってちょこんと低い台の上に腰掛ける。桶に汲んだお湯を、今度はゆっくり桜の頭にかけると、蝶は米ぬかに麝香を練って作ったのだという洗粉を手にとって手の中であわ立てた。そうして両手のひらを桜の髪に差し入れて、髪全体に馴染ませるようにする。
「桜サンの髪はさらさらしておるのう。蝶は癖っ毛だから、昆布をしこたま食って、はりと艶をと思うたが、なかなかうまくゆかん」
「……蝶は、ヘン」
ひとの手で髪を洗ってもらうというのが桜は慣れない。宮中で夜伽をやっていた頃は世話係の女官が桜の今よりも長かった髪をくしけずったり洗ったりしていたはずだが、それはもう遠い昔の記憶だ。居住まいを変に正してしまいながら、桜は思いついたことを口にした。
「ヘン?」
「お姫さまなのに、たくさんのことを知ってる」
「お姫さまなのに、というのはおかしいであろう」
「でも、私の知ってるオヒメサマたちは、私の髪を洗ったりしなかった」
第一自分の髪はおろか、身づくろいに至るまでをひとに任せるのが常だ。蝶みたいに、自分で衣の色を決めて、髪の結い方を決めて、あるいは、自分の足で歩いて、弟皇子を探すという姫君に桜は会ったことがなかった。
「桜サン。蝶はのぅ、実は結構、どエライ姫なのじゃ」
「……しってる」
老帝の正室杜姫の胎から生まれた。この国でただひとりの姫君。
老帝は数多の子を為したが、杜姫の血を引く子どもは三人しかいない。すなわち、朱鷺皇子と皇祇皇子、それから皇祇皇子の双子の姉にあたる蝶姫である。
「今でこそ兄上は文樹林でのんびり書物を読んでおられるが。昔はあれで国の皇太子であらせられたからのう。どろどろした諍いに巻き込まれ、五十九度も、命を狙われた。床に臥せり、生死の境を彷徨ったことも山ほどじゃ。兄上のお身体が弱いのはな、幼い頃女官に口にさせられた毒ゆえじゃ。――蝶は」
ふと言葉を止め、蝶は思い出したように桜の髪をかき回した。
「まだ年端もゆかぬ幼子であった頃、仲良くなった庭師の見習いがおっての。櫛をもらった。その櫛はたいそうきれいな品でのう、嬉しくて皆に見せて回ったのだが、翌日それを手に取って髪をくしけずった妹姫が死んでしまった。櫛の歯の間に毒が塗ってあったのじゃ。見習いはすぐに捕まって、死罪になったと聞くが。蝶は、以来、自分の身につけるものは自分で選ぶ。そうでなくては、泡を吹いて死ぬやもしれんからな。蝶はあのように死ぬのは嫌じゃ」
蝶は常に似つかぬ自嘲気味な言い方をすると、ひたとお湯で温かくなった手のひらを桜の背にあてた。
「桜は小さな傷や大きな傷がいっぱいじゃな」
ふっと息がつかれる。
「……あっちこっち傷だらけじゃ。父上はいつか天罰がくだるのう……」
突き放すような、それでいて情のこもった声が途切れる。振り返ろうとした桜の頭にお湯をかけて泡を流すと、蝶はくるりと背を向け、「さぁ、次は桜の番じゃ」と袋に入れた洗粉を差し出した。
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