四章、胡蝶の夢



 六、


 言葉ひとつ発せられないくらい深くうなだれて。瞼を固く瞑ってこみあげてくる熱いものをこらえて。そうしてどれくらい経ったろう。やにわ、対面で身じろぎをする気配があり、「お戻りになられてしまったのう」と紫陽花が呟いた。
 桜は鈍い動作で顔を上げ、紫陽花が視線をやった方向を目で追う。閉じられた襖越しには何をも見通すことができなかったが、廊下を騒々しく駆ける足音が部屋の前を通り過ぎるのを聞いて、桜は唐突に我に返った。雨が吹き込まない程度にほんの少し引き開けられている障子戸をのぞく。曇天のせいですっかり感覚がなくなっていたが、空がずいぶん暗い。あれはおそらくこの屋敷の主人――戻ってきた雪瀬の出迎えの足音だろう。
 かえらなくては、と桜は半ば錯綜した頭で思った。
 雪瀬と、顔を合わす。こんな姿で。考えただけでたまらない気持ちになってきて、桜は紫陽花に辞する旨を告げるのも忘れて、逃げるように襖にすがりついた。だが、引き口に指をかけようとしたところで、外側から勢いよく襖を引かれる。
 
「紫陽花。お客さんが来てるって聞いたんだけど――」

 言っているさなか、こちらに目を留めたらしい。雪瀬は一度言葉を切って、「……桜?」と尋ねた。いぶかしむような間があった。どうしてここにいるのだと。何の用があって来たのかと。だから問われる前に、桜は抱えていたものを青年の胸に押し付けるようにして差し出してしまった。

「この前の。上着、借りて、しまったから」

 今にも震えそうな喉で必死に平然とした風の声を出して嘘をつく。はじめから考えていた言い訳で、自分を守る。桜は臆病者だ。

「ああ、忘れてた。わざわざごめんね」

 彼が桜から風呂敷に包まれたそれを受け取る間も、ずっと桜は叱られた子供のように俯いていた。顔を上げることが、できなかった。聡い彼は、すぐに気付くだろう。目の端を赤く染めてみっともなく泣いていた自分に気付くだろう。下を見つめると、泥んこ遊びをしたあとみたいな自分の足や衣裾が目に入った。ああ、なんて。なんて、みっともない自分。恥ずかしくて、恥ずかしくて恥ずかしくてたまらなくて、桜は顔を上げることができない。だって、くらべられる。きれいに髪を結い、紅を刷き、香を嗜み、聡明な紫陽花とくらべられる。おろかで、おさないじぶんがくらべられる。桜はすぐにでもこの場を逃げ出してしまいたかった。でなければ、消えて、しまいたかった。

「桜、かお、」

 ひんやりした指先が頬を触れるに至って、桜は弾かれたように顔を上げた。
 視線を結んだのはほんの一瞬であったろう。普段は怜悧さを湛えている濃茶の眸がふと瞠られ、頬に触れていた指先がびくっと離れた。

「かえる」

 驚いたにしてもあまりに行き過ぎたその反応に。気付く余裕もないまま、桜は男の横をすり抜けた。途中、起き抜けの無名や漱が声をかけてきた気がするが、すべてに耳を塞いで、屋敷を飛び出す。そのまま、夜闇に沈み始めた道を走った。走った。走った。すべてから逃避するように、桜は走るしかなかった。いったいどこをどう歩いたのか、気付けば、桜は丞相邸にたどりついていて、濡れた身体を夜具にうずめていた。埃っぽい枕に顔を押し付け、途切れ途切れに嗚咽を漏らす。なかない。なかないと、そう決めたのに。子供のように泣いている自分が、情けなくて、みじめで、みっともなくて。いやで、だいきらいで、だいきらいで。たまらなかった。置き去りにしてしまった犬がそのうち帰ってきて、桜の膝元に滑り込んでくる気配がしたが、抱き寄せるでもなく、桜はずっとひとりで嗚咽を噛み締めていた。





「羞恥心、というのは実はわりあい高等な感情であるのだよ」

 油皿に浸かる灯心がじわりと燃える。か細い明かりを頼りに碁石を打ちながら、脈絡なく紫陽花が言った。いったい藪から棒になんだと雪瀬は眉をひそめ、「……それで?」と味気ない返事を返す。しばしの沈思ののち碁石を置くと、「橘は嫌な手ばかりを使うのう」と紫陽花はぼやいた。

「キレイな手、というより嫌な手じゃ。美しくない勝負をする」
「勝負に美しいも汚いもないでしょうに」
「そのようなことはない。たとえば、戦の陣形。機能的で一切の無駄がない。あれは芸術のたぐいよ。碁もまた同じ」

 気に入りの扇子でぶぅらぶぅらと風を送りながら、紫陽花が語る。こういうときの女はいたく饒舌だ。「そういうもん?」と雪瀬は尋ね、膝に頬杖をついた。

「あなたはときどき兄と似たようなことを言うなぁ。勝負するとたいてい俺が勝つモンだから、お前の手は奇怪で攻めづらいってよくぼやいてたよ」
「ふふ、天才風術師殿になぞらえられるなら光栄よの。それで、先の話に戻すがな? 羞恥する――恥ずかしがるというのは、喜怒哀楽のずっとあとに生じる感情なのじゃ。何故なら、身体の快不快に繋がる喜怒哀楽と違うて、恥ずかしいというのは他者の存在を介し、己を顧みたときにしか出てこぬからじゃ。羨望や憧憬、嫉妬や恋慕のたぐいも同じだな。みな、他人から派生する感情じゃ」
「いったい全体何のはなし?」

 紫陽花の意図するところがいまひとつ見えず、雪瀬は露骨に怪訝そうな顔をする。対する女は無邪気に笑い、「なんということはない」と碁笥を脇に寄せて扇子をひぃらり振った。

「くるくるとよく表情の変わるお人形を見たのじゃ。私とて人形師の端くれ、数多の人形を作ってきたが、ああも感情の豊かなものはついぞお目にかかれなかった。そうすると、興味が沸くのが私の常」
「……彼女と何を話したの」

 しこたま雨水をかぶったかのように泥まみれだった娘を瞼裏に思い描きながら問う。頬に浅い切り傷を作っていた。気付けば、傷ばかりをこさえている娘であった。紫陽花はうん?と鈍感なふりをして小首を傾げ、「別に、何も?」と挑発じみた返答を寄越す。

「別に、何だっていいけど。俺のいない間に勝手にひとを家にあげないでよ」
「なんじゃ、勝手とは人聞きの悪い。橘ならばあげるだろうと思ったからそうしたまでのこと」
「あげないよ」

 一分の隙もなく断じ、雪瀬は紫陽花のほうへ碁笥を押しやった。

「あげない。門の前で追い返す。ここは丞相んとこの女の子が遊びに来るようなお屋敷じゃないんだ。――紫陽花」

 女の真名を呼ばい、雪瀬はすっと碁石をいじる手を止めた。

「俺におもねるなら、彼女を二度と屋敷にあげたりしないで」

 真紫の眸がじっとこちらを見つめる。しばしお互いを探り合うような無言の応酬があったが、やがて女は諦めた風に「わかったよ」と肩をすくめた。碁笥を引き寄せ、それを勝負再開の合図とする。

「……のう。おぬしはいったい何に囚われておるのじゃ、橘?」

 尋ねる声に、雪瀬は聞こえぬふりをする。