四章、胡蝶の夢
五、
風呂が温まっていればよかったのだが、と紫陽花は呟き、下男らしき男に湯を沸かすよう頼むかたわら、濡れ鼠状態の桜へ手ぬぐいを何枚か寄越した。泥と雨雫をひとまずふき取って、中に上がらせてもらう。犬のほうはかわいそうだったけれど、玄関で待っているよう言いつけた。
紫陽花に通された屋敷はしんと静まり返っていて、人気がない。「皇祇皇子は?」と尋れば、紫陽花は苦笑し、さる一室の襖を開いた。そこには宝刀を握り締めたまますやすや眠っている皇祇と、その隣でやはり刀を抱いて寝入っている無名の姿がある。
「ここ数日ほとんど寝ないでやりあっておった。朝方精も根も尽き果ててふたりして寝入ってしまったよ」
見れば、無名と皇祇の頬や腕には引っかき傷や切り傷が無数にある。よもや刀で斬り合ったわけではないと思うが、取っ組み合いの喧嘩くらいはしたのかもしれない。壮絶であったよ、と紫陽花は語るが、同じように背を折って眠る無名と皇祇は年の離れた兄弟か何かのようで、どうしてか微笑ましく感じてしまう。脇に押しやられていた夜具を引っ張ると、風邪をひかないように大きな無名と小さな皇祇にかけて、桜は襖から離れて歩き始めてしまった紫陽花を追った。
「どうぞ」
通された一室は、紫陽花の部屋になるのだろうか。足を踏みいれたとたん、覚えのある香りがして、桜はぎくりとした。それに気付いたのか、紫陽花は「好きな香での」と説明をする。
「……荷葉?」
「ふふ、人形の君は鼻がよいの」
犬か何かを褒めるような口ぶりに、桜は余計なことを言わなければよかったと後悔した。荷葉。先日の宴で、雪瀬の上着からくゆった香りだ。何の香りかさっぱりわからない、と口にした男に香をつけたのは、それならこのひとなんだろうか。
「私はこの香り、キライ」
気付くと桜は突拍子もなく思いも寄らないことを口走っていた。直後、言った自分のほうが驚いてしまって絶句する。さらしが巻かれているので表情はうかがえないが、紫陽花は口元をにんまり吊り上げ「それは残念」と嘯いた。
「人形の君はやはり沈香だけのほうがお好みであったかな」
「じんこう」
は荷葉に含まれる香のひとつで、深くてあまい香りが桜も好きであったのだけども。うなずきかけてはたと桜は動きを止める。沈香はむずがる『赤子』を寝付かせるのに最適の香りである。
「キライ」
むすっとして答える。答えてから、ひどい自己嫌悪に襲われた。
本当に自分は思っていることと言っていることがばらばらになる病気にでもかかってしまったのだろうか。思考と口から滑り出る言葉がさっぱり一致しない。早くも先行きに大いなる不安を抱きながら、桜は紫陽花の出してくれた座布団の上にぎくしゃくと座る。かたわらに、匂いを発する陶磁の香炉を見つけた。火舎の部分には珍しい、異国風の銀細工。対面には書見台があり、積まれた書物はどれも桜が聞いたことも見たこともないような難解な題名がついていた。よもや桜が勉強代わりに開くような絵草紙の類ではあるまい。最後に、流水紋を描く深紫の衣を摘んで書見台の前に女が座ると、ひどくしっくりとなる。
ここは紫陽花の部屋なのだと、認めざるを得なかった。このひとは、ここで、雪瀬のそばで、あたりまえのように、毎日を送っているのだと。まるで花が萎むかのように幾許か奮い立っていた桜の気持ちは沈んでいく。自然肩を落としてしまうと、すっと衣擦れの音がして、蓋つきの茶碗を差し出された。
「……アリガトウ」
「茉莉花茶だ。よい香がする」
下男を下がらせ、自分の前にも置かれた茶碗の蓋を開けると、「して?」と紫陽花は問うた。
「何用があってこの屋敷に来たのかな? 察するに、皇祇殿下に関わる相談だとは思うのだが」
大きく目を見開いたこちらを満足げに眺め、紫陽花は使い古した風の脇息に肘をついた。
「当ててみせようか。おぬしは、皇祇皇子とオトモダチの蝶姫を会わせてやりたくてやってきたのだろ? なんとも友達想いのヤサシイお人形じゃ」
まだ一言も喋らないうちにあっさりと胸のうちを言い当てられてしまい、桜は愕然としてしまった。どうして、と呟く。
「蝶のこと、」
「知っておるわ。何せ朱鷺殿下の前で蝶姫のことを持ち出したのはおぬしであるからの。弟の安否が知れず不安で不安でたまらない蝶姫に、皇祇皇子は生きていると教えてやりたい。できればひと目会わせてやりたい。ふふ、なんとも泣かせる話ではないか」
紫陽花は口元に手を添えてくすくすと笑う。褒められたわけではないのだと、桜にだってわかる。だって紫陽花のするそれは嘲笑としか言えない笑い方だった。嘲笑い、見下すような。さすがにむっとして口をつぐむと、帯元に触れていた紫陽花の手が白刃のごとく翻り、鼻先にぴっと扇子の鋭利な切っ先が突きつけられた。
「しかし、だめじゃ。その話は、断る」
「なっ……!?」
冷酷とすら言える断言に、桜は目を瞠る。
だって、まだ。何も言ってない。桜はまだ、何も。
「よいか、考えてもみよ」
焦燥に駆られる桜を一瞥し、紫陽花は扇子の先で桜の顎をついと持ち上げた。白いさらし越しに感じられるのは並々ならぬ女の気迫だ。
「昨秋の衣川の一件はおぬしも知っておろう? 皇祇殿下は誰ぞやに命を狙われたのじゃ。さあれば、朱鷺殿下は先手を打って皇祇殿下を隠し、朝廷とは縁遠い我らに殿下を預けたのだろうよ。おぬし、朱鷺殿下に蝶姫に皇祇殿下のことをお話になるよう懇願しておったが、私にしてみれば笑止千万。できるのなら、とっくにそうしておるよ。できないのじゃ。人形の君。何故だか、わかろう?」
桜は口をつぐむ。
わからない。わからないからだ。
長い沈黙を、首を振ることもうなずくこともできないで目を伏せて耐えていると、紫陽花は面倒そうに嘆息し、「巻き込むことを厭うておるのじゃ」とあっさり答えを明かした。
「故意か偶然か、蝶姫をこの屋敷に連れて現れなかったことは褒めて遣わそう。姫皇子に、皇祇殿下を弑そうとする手の者がこそりと張り付いている可能性は否めないからの。――のう、可愛らしい人形の君。おぬしここに来るまで、何を、どれだけ、考えた? おぬしの大事な友人を危険に晒す可能性は? おぬしのあとを誰ぞやがつけている可能性は? もし我が屋敷に刺客でも放たれてみよ。おぬしの浅慮で、私らみな冷たくなってるやもしれんのだぞ? どうじゃ。否定できるのなら、してみい?」
追い討ちに追い討ちをかけるような容赦ない弁舌に、桜は完全に、言葉を見失った。
からだが、震えた。
――無理だ。
そう思ったのだ。できない。こんなこと、できない。蝶を皇祇殿下に会わせるなんて。あまりにも危険な賭けだった。情に駆られて桜がしようとしていたのは、そういうことだった。顎にあてがわれていた扇をすっと押し上げられる。自然上向かせられ、桜は、逃げるように目を伏せた。頬が熱い。こらえきれず、ぽろぽろとこぼれ落ちる涙が、恥ずかしくてたまらなかった。見せつけられる、突きつけられる、幼い、むりょくな、じぶん。泣いているだけで、なんにもできない。
嗚咽が小さく喉を鳴らすに至って、それまで無為に桜を観察していた紫陽花の目がふっと興味を失ったようにそれる。するりと扇子を下ろして、紫陽花は嗤った。咲き誇る牡丹がごとき艶やかな、聡明な女の顔をして。
「呆れる。そなたはほんに幼き子供だな。人形の君」
ふかく、ふかく、ふかく。
その言葉は桜をえぐる。
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