四章、胡蝶の夢



 四、


 しばらくの間手なぐさみのように草紙をめくっていた蝶だったが、雨がひどくなってきたのに気付くと、護衛とともに琵琶師の屋敷へ帰って行った。あれから蝶にきちんと謝ることもできず、桜はしょんぼりと肩を落として部屋の後片付けをする。といっても、蝶が桜に貸していった草紙をしまうくらいで、床拭きや夕餉の準備といった家事はすでに蝶が訪れる前に終えてしまっていたので、すぐにすることがなくなってしまう。月詠はもちろんのこと、日中は十人衆の面々も出仕しているから、広い屋敷には桜がひとり残るだけだ。梅婆も、今日はどこぞやへ出かけているらしい。

「犬」

 桜が畳に寝転がってぼんやり雨音を聞いていると、軽い足音がしてやってきた小さな毛玉がぺろりと桜の頬を舐めた。いつもは外に出している犬は雷がひどく苦手で、雨のときだけは中に入れてやっているのだった。桜に鼻先を押し付けてきた犬の茶色い身体に腕を回し、獣くさい温かな毛に顔をうずめる。

「わたし、どうしたらいいか、わからない」

 朱鷺殿下が雪瀬に預けた皇祇皇子のことを。月詠に話すことはなく。かといって、蝶に打ち明けることもできず。意味もない皇祇探しを続けている。
 それはおかしなことのように思えてならないのだけど、さりとてどうしたらよいのかもわからなくて、途方に暮れている。しまいには蝶まで傷つけてしまった。――どうして、わたしはこんなにばかなんだろう。ひとりでは何もできないのだろう。苦しくて、どうしたらいいのかわからなくて、桜は記憶の中の『少年』に何度も教えを乞うた。雪瀬、どうしたらいい? 雪瀬だったらどうする? だけども、彼は『大人』の顔をして言うのだ。月詠に皇祇のことを話さないでいてくれたら嬉しい、だけど桜の好きにしていいよ、と。彼はもう、以前のように桜を庇護し導いてはくれないのだ。唇を引き結んでずっと顔を押し付けている間、犬はのん気な寝息を立てて時折尻尾を振っていた。


 犬を抱きかかえたまま、四半刻ほどうとうとしていたように思う。浅い眠りから目を覚ますと、さっきよりもほんの少し頭はすっきりしていた。桜は乾かして畳んだまま置き去りになっていた夏羽織を見やり、小さく息をつく。
 本当は、行きたくない。あそこに行って、またあの晩のように深く傷ついて帰ってくるのが怖くてしょうがない。だから、目に入らないようにしていたのだけど、でもやっぱり、桜が今するべきことはたったひとつのように思えた。ぎゅっとこぶしを握ると、桜は畳んだ夏羽織を風呂敷に包み、「いこう」と犬の背を叩いた。


 蝶を見送るときは止みかけていた雨は、再び雨脚を強くしていた。ここ数日はずっとそうだ。雨が強くなったり弱くなったりを繰り返している。水がたっぷり与えられているおかげで木々は青々としていたけれど、道端に板を敷いてそこで生活をしているひとびとは、生気のない顔で破れかけた合羽越しに雨を見ていた。そのかたわらでは蝋のように青白くなった子供が腹を出して死んでいる。雨の日は、死体が増える。増量した川の水が、河原で生活する者たちの家を奪い、しまいには命まで奪ってしまうのだ。
 桜はだから、雨の日に外に出るのが好きではなかった。誰かがこの国は、病んでいるのだと言う。桜は、わからない。桜は、この国以外のところへ行ったことがないから。子供のからだで大人の慰みをするかなしさも、むなしさも、桜には当たり前のことであったので、よくわからない。だけど、こんな風にひとりぼっちで雨に打たれて死んでいくのはひどく寂しいことだとそう思う。さみしい。かなしい、国。昨今、桜ににわかに芽生え始めた気持ちはそれだった。
 道のほうへ投げ出された白い手の前で思わず足を止めてしまっていた桜を犬の濡れた鼻が小突く。目を落とせば、人懐っこく舌を出してこちらを見上げている犬の顔があって、桜は強張っていた心を溶かすように微苦笑をこぼした。
 東の小路を曲がって角をふたつ行く。現れたのは、つい七日前に訪れたばかりの橘邸だった。この間見たときは夜であったせいで細部まではわからなかったけれど、昼の淡色の空の下、改めて仰ぐ橘のお屋敷は、ふるいな、というのが最初の印象だった。水無月会議など、行事に合わせて領主が仮居する別邸は領主ごとに同じだけの敷地が与えられている。なので、屋敷自体の大きさや門の広さはあまり他と変わらなかったのだけど、虫食いのひどい柱や築地塀の瓦は焼け褪せており、ずいぶん年季が入っているように見えた。長く使われなかったせいもあるのだろう、築地と地面の境には雑草がずいぶん生えてしまっている。

「ごめんください」

 桜は藍染めの傘を畳むと、閉ざされた門をこんこんと叩いた。普通ならば、ひとりかふたりくらいは置いてあるはずの門衛がこの屋敷にはない。そのことについては先日漱に尋ねていて、彼は嘘か真か、「おカネがないんですよ」と笑っていた。桜の身の丈の三倍はありそうな、分厚い木の門はびくともせず、返事が返る気配もなかった。困り果て、別の門はないのだろうかと築地に沿って屋敷を回る。あいにくと裏手にしつらえられていた通用口らしき門も閉ざされており、その他に出入り口は見当たらなかった、が。

「……あな?」

 ちょうど塀の、雑草に覆われたあたりに犬が一匹通れるくらいの穴が開いている。もとは板で塞がれていたらしいが、それは雨で流されて草むらに転がっていた。桜はかがみこんで、中をのぞきこむ。どうやら敷地内に通じているようだったが、視界が低いせいでよく見通せない。ううむ、としばらく難しい顔をして思案する。以前の桜であったなら、これ幸いと身を滑り込ませただろうが、さすがに外の世界に出て四年近くも経てば、それくらいのジョウシキは身に付いてくる。ひとの家には門から入るもの。それ以外の場所から入るのは獣か盗人くらいのものだ。しかし、そのジョウシキが通じない『友人』がすぐそばにいることを桜はすっかり忘れていた。ぱしゃん、と水音を立てて褪せた茶色の尻尾が振られる。

「犬!」

 制止をかけたときは遅かった。犬は穴に身を滑り込ませ、瞬く間にあちら側へくぐりぬけてしまう。飛び出たところでちょこんとお座りをすると、つぶらな黒の眸で桜をじっと見る。まるで早くこちらに来い、とせがんででもいるようだ。

「犬。だめ、もどるの」

 だが、犬の誘いに乗るわけにはいかない。穴のほうへと腕を伸ばし、犬を引っ張り戻そうとするが、あと少しのところでひらりとよけられてしまい、しまいには指先をぺろぺろ舌で舐められるという始末だ。

「犬!」

 怒ったはずみに、踏ん張っていた足が滑って桜はぬかるみに顔面から突っ込んでしまった。口の中に砂の味が広がる。うー、と呻いて手の甲で顔をこすろうとするのだけど、よく見れば、手も衣もみんな泥まみれだ。この間おろしたばかりのお気に入りの濃紺の花衣だったのに。――ああ、もう。桜は半ば癇癪まじりに腹を据えると、風呂敷を衣のうちに入れ、傘を畳んで穴の外へ放った。袖をまくりあげ、頭を穴に突っ込む。犬の身体で楽々とくぐり抜けられた穴は、桜にはやっぱり少し狭い。無理やり腕で押し進めて、しこたま泥を顔に浴びてしまいながら桜は穴からぽふっと頭を出した。かぶりを振って水気を払う。しかし肝心の犬がいない。いったいどこへ行ってしまったのだと穴から顔だけを出したままきょろきょろすると、雨音に混じってしゃらん、と玲瓏な音がした。

「おやおや。動物が二匹紛れこんでおるかと思えば」

 頭上から降ってきた嘲笑混じりの声に、桜はみるみる表情を強張らせて顔を上げる。この手の桜の予感はたいてい当たってしまう。眼前に、なよやかな梅の樹のごとくたたずんでいたのは、やはり百川紫陽花そのひとであった。女は紅を刷いた口元をゆうるり歪めると、腰を折って桜のほうへ番傘を差し出す。女の足元には尻尾を機嫌よく振る犬の姿があった。

「また会うたの、可愛らしい人形の君」
「あじさい」
「ふふ、名を覚えてくれていたか。光栄よの」

 微笑み、紫陽花はしらうおがごとき手で犬の頭を撫ぜる。

「それで、わざわざ穴からいらっしゃったというからには我が屋敷の主人に御用があるのかな」
「雪瀬は水無月会議に出仕してる。ここには、いない」
「ほう、そこまでご存知なら、十全十全。中へ入るといい。私でよいなら、話を聞こう」

 艶やかな黒の駒下駄を返しかけ、そこでふと紫陽花は未だ穴の中から上半身を出しただけのこちらを振り返る。

「ああ。尻がつづまって出られないというなら手を貸すが?」

 その口元に愉悦を含んだ笑みが載っているのを見て取るや、「ケッコウ、ですっ」と桜は頬を赤らめ、穴から無理やり這い出た。