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二章、風の花嫁(10)




「直接龍呼を叩くべきだ」

 今上帝の勅を告げた雪瀬に、薫衣は首を振った。
 都の橘屋敷である。夜陰に沈んだ室内には蜜蝋が灯り、海図とそこに置かれた兵士や船の駒を照らしている。龍呼の湾に並ぶ黒海船を模した駒を眺め、雪瀬は考えるときの癖で膝に頬杖をついた。

「つまり、南海軍に合流はしないということ?」
「黒海はまだ、私たちが動いていることを知らない。なら、陸と海とで睨み合っている南海軍とは別に動かしたほうが不意をつける」
「それで、奇襲か」
「ああ。見てみろ」
 
 薫衣は海図上の龍呼を指す。
 龍呼は南海の主要な湊のひとつで、古くから都や異国との交易が盛んに行われている海港都市である。地理的には、狭く穏やかな湾と険しい山を背に持つ扇状地だが、今はそれらが仇となって容易に攻略がしづらい難所となっている。今、龍呼湾には黒海船が並んで南海の水軍を寄せ付けず、湊城には総数三千の黒海兵が居座っていた。
 南海地方にとって、主要な交通は水路である。
 湊が奪われた影響は計り知れず、南海の網代あせびはすぐさま奪還のための兵を差し向けたが、攻略困難な地形から、兵数のわりにめざましい成果が出せないまま、今に至る。加えて陸からの白海・青海の侵攻である。両軍に対抗するため、あせびは幾許かの兵を龍呼に残し、いったん白海・青海のもとへと引き返した。

「龍呼に近い潮泊では、まだ通常どおり商船のやり取りがある」

 薫衣は龍呼から十数里離れた、黒海領内の湊へ指を滑らせた。

「都からは水路で半日。三百程度の兵なら、何艘かの商船に紛れて、潮泊までたどりつくことができる。龍呼のほうはさすがに船が規制されていて難しいだろうが」
「だけど、潮泊から龍呼まで十数里はあるんでしょう。あちらも警戒しているだろうし、気付かれずにたどりつける?」
「夜、潮の満ち引きで潮泊から龍呼にかけては、広大な砂浜が現れる」

 都で半年暮らした薫衣らしい目のつけどころだった。

「足腰を鍛えた兵で夜陰に紛れてのぼれば、一刻もかからない。黒海に占拠された湊城は海岸沿いにある。ボヤを起こして、外に兵をあぶりだす。城が混乱すれば、待機していた船もいったん戻るだろう。それに乗じて、南海の船を湊に侵入させればいい」
「三千の兵がそう思いどおりになるかな」
 
 雪瀬はあくまで慎重である。
 なるさ、と薫衣は口端を上げ、湊城に詰めていた兵の駒を山側の一本道に動かした。

「兵の頭数が多いなら、先に城から出してやればいい。たとえば、朝廷の援軍が山側から攻めると噂を流しておくとかな。信じ切れなくても、黒海は兵をそちらに割かざるを得なくなる」
「砂浜は見通しがいい。哨戒船に見つかる危険は?」
「明かりを落とせばいける。実はもう少数で何回か試した」

 平然と薫衣が言ってのけるので、雪瀬はさすがに呆れてしまった。こちらが悩むまでもなく、薫衣の頭の中ではとっくに道筋が立っていたようだ。

「だって、都の警護なんて暇だぞ。私がぼんやり突っ立って半年過ごすと思ったか、領主さま」
「思わないけど、まさかそんなにお転婆な姐さんだとも思ってなかった」
「潮泊だけじゃない。南海にはしばらくいたから、よく歩いたんだ。浜も、湊も、……いろんなところを飽きるくらい」

 独白めいて落とされた言葉に、雪瀬は薫衣の南海での幽閉の月日を想った。人払いをしてあるため、竹の衝立を置いた室内にいるのは今、薫衣と雪瀬のふたりきりだ。外から、虫の歌声に混じって涼しい風が吹き抜ける。木擦れ音に耳を傾け、雪瀬はふと颯音のことを薫衣に話すべきか悩んだ。
 橘颯音が生きて、南海にいる。
 漱から打ち明けられた話は、南海の騒乱のせいで、未だ仔細を確かめきれずにいる。ただ、かつて月詠の前で検分させられた首が、冬季のわりに腐敗が進み、雪瀬にすら判断がつかなかったのは事実であるし、六年前に南海で目撃された「小指をなくした男」の話なら、雪瀬のもとへも報告が挙がっていた。颯音は六年前、小指の一部を切断して失っている。そして、南海屋敷。時期と場所は一致していた。
 もしかしたら、と思う。
 もしかしたら、兄は――。
 とたんせり上がった、くるおしいまでの感情が喜びなのか不安なのかは、自分でもわからなかった。
 だって、ほんとうに?
 ほんとうに、生きてんの颯音兄。
 生きてるなら、どこで何してんの。
 本来なら、颯音が座すべき領主の座は、もう六年も雪瀬が温めているというのに。

「南海の件が終わったら」

 おもむろに口を開くと、海図の駒を動かしていた薫衣は短い髪を揺らして、不思議そうな顔をする。その手を雪瀬は握った。いつか姉になったかもしれない女の手は、夏にもかかわらず乾いて冷えていた。

「終わったら、話したいことがある」





 すぐさま早馬が放たれ、南海軍へ薫衣の作戦が伝えられた。さらに、都に戻った沙羅を呼び寄せ、龍呼に向けて朝廷の援軍が向かっているという旨の流言を流させる。潮の満ち引きから計算して、決行は明後日。それまでにあらゆる準備を済ませなくてはならない。皆が寝る間を惜しんで駆けずりまわる中、しかし翌日、事件が起きた。
 霧井湊に向かう途中だった商船を黒海の哨戒船が砲撃したのである。商船の帆には、やはり廻船問屋の屋号が掲げられていたが、中身はあせびが取り寄せていた武具だった。
 何故だと、どよめきが走った。よもや離れた場所から中を見通したわけではあるまい。内通者か、それとも。

「どうやら、黒海では廻船問屋の出航確認をしていたようです」

 探索の末、からくりは早晩明らかになった。
 千鳥の報告を、雪瀬は商船の出航表をめくりながら聞く。
 廻船問屋は、船の混雑を避けるため、湊にあらかじめ航路と発着時刻を提出している。哨戒船は問屋の屋号ではなく、航路と時刻で船の判断をしていたらしい。雪瀬たちが都へ医者を運んだときは、もともと出航予定だった船に人員を積んでもらう形を取ったため、砲撃を受けずに済んだのだ。となれば、あとは出航予定の廻船を見つけて、交渉すればよいのだが――。

「砲撃の報を受けて、今はどの船も出航を見合わせているようです。荷の安全ももちろんですが、船自体を失うことが恐ろしいようで。怯えた船頭たちも船を出すことを渋っています」
「船か」

 薫衣の策は陸路を取っては意味がなく、そのためには潮泊まで何とか黒海に察知されず、たどりつく必要がある。出航表を確認しながら、雪瀬は思案した。どの船も、当初の予定の上に出航見合わせの文字が走り書かれている。だが、その中に一船、「出航予定」の文字を見つけた。

「雪瀬さま。ですが、その船は……」

 いや、使える。
 交渉次第では。

「千鳥。外」

 雪瀬は出航表を放ると、よそ行きの羽織をつかんだ。





 数日後、船は定刻どおり都の霧井湊を出発した。
 行き先は黒海の潮泊。南海の熊菱商船に比べて全体的に大ぶりの船には、潮泊に運ばれる荷物のほか、三百の兵と武具が積みこまれている。天気は快晴、視界は良好。もってこいの航海日和だ。船子と変わらない上下を身に着け、薫衣は甲板から凪いだ海原を臨む。

「薫衣さま」

 見張り台から遠方を注視していた少年が、するりと帆柱を滑り降りてくる。やはり葛ヶ原兵で、若いながら随一の弓の腕を持つ少年であった。

「まもなく潮泊付近に差し掛かります。見えますか、ひときわ大きな船影。黒海の鱗印が帆に描かれています」

 少年の指した先には、巡視船が一艘泊まっている。潮泊に侵入する船の検問をしているらしい。前を走っていた小ぶりの漁船が止められ、船主が手形を差し出しているのが見えた。速度を落とした船が巡視船の近くに並ぶ。商船というより、軍船に近い頑強なつくり。側面にはずらりと砲門が並び、そのすべてが開かれていた。今、弾が飛べば、薫衣たちの船はあっけなく南の海に沈むにちがいない。
 船が極限まで近づくと、巡視船上の人影がはっきり視認できた。薫衣たちを乗せた船の船子――まがいものではない、本物の船子である――が巡視船に向かって声をかける。

「*****!」
「***、*****?」
「**! ****!」

 早口で交わされた言葉は、薫衣にも聞き取れない。だが、おそらくは黒海側の巡視船が、この船は商船なのか、と聞き、こちらの船頭が、そうだ、とこたえたのだと察する。耳慣れない言葉は、東の隣国で使われている蜷語(ケンゴ)だった。
 月毛馬が描かれた帆が潮風にたなびいている。
 これは、蜷の頭領アランガが認めた公式の商船だった。
 積まれた荷は、馬百頭。蜷と南海連合は、以前から馬や貴石、香料などの交易があった。外つ国である蜷だからこそ、南海の騒乱にはばからず船を出し、黒海側の巡視船もさほど警戒せずに湾内へ通している。
 巡視船の検問を終えると、アランガの商船は再び速度を上げ、潮泊の沖にたどりついた。そこから幾艘かの小舟を使って、馬たちの載った木箱を下ろし、埠頭沿いに並んだなまこ壁の蔵に運び入れる。百頭すべてを移し終えると、アランガ船の商人は納品確認の札を薫衣に差し出した。通訳の少年が蜷語を訳す。

「すべて納品いたしました。よろしいですか?」
「ああ。ご苦労だったな」
 
 薫衣は蔵に並ぶ馬を見渡し、札を受け取った。
 常ならば、これから蜷の商人を介して、黒海の馬商に高値で売り付けられるはずの良馬である。しかし、今回に限っては馬商の出番はなく終わりそうだ。何故なら、アランガ所有の馬百頭の買取りはすべて葛ヶ原領主橘雪瀬となっていたためである。




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