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二章、風の花嫁(11)




 あの日、雪瀬が見つけた「出航予定」の船は、蜷のアランガ公認の商船だった。雪瀬はさっそく都にいる蜷の商人から航路や荷の詳細を聞くと、葛ヶ原の柚葉に扇を飛ばし、アランガに商談を持ちかけるよう頼んだ。
 葛ヶ原領主橘雪瀬の名義で買い取ったのは、馬百頭。さらに三百の人間の運賃を上乗せして支払う。話し合いの末、アランガは雪瀬の提案を快諾した。無論、南海の騒乱が背後にあると読めないアランガではなかろうが、「橘の妹君が気に入ったゆえな」と当人はいたって愉快そうに片目を瞑ってみせたという。つまり、今上帝側に恩を売ることに決めたのだ。
 昨年蜷を訪ねた皇子皇祇の存在がここにきて効いたのかもしれない。
 話を聞き終えた薫衣はひとり唸った。
 そう思うと、真に恐ろしいのは今上帝と言うべきだろう。とはいえ、
 ――よく気付いたな。
 薫衣としては、やはりその念も強い。
 出航表を確認するや、すぐにアランガの船を使おうと考えた雪瀬も。その意図を汲んで、アランガ相手に話をつけてきた柚葉も。颯音を失ったときは、わたしがふたりを支えてやらなければ、と気負っていたけれど、橘の兄妹は結局自分よりずっとふてぶてしい。

「まったくおまえのあるじは人使いが荒いこと!」

 馬の足に音を消すための布を巻いていると、この数日、薫衣や雪瀬たちとは別の意味で駆けずり回っていた沙羅が戻ってきた。いつもはきちりと編み込んでいるお下げはほつれて、面にも疲労の色が見える。けれど、碧眼だけは生き生きと輝かせ、沙羅は薫衣相手に胸を張った。

「馴染みの商人を通じて、いろいろと流しておきましたよ。都に武具が集められているだとか、都から黒海へ向かう途上の山道で兵の足音がしただとか、あたかも都が戦支度をして、出発したかのように」
「ご苦労さま。あとは奴らがうまく信じてくれるかだな」
「心配には及びません。実際に湊の商人から、短弓百本と矢、大量の兵糧を買い付けて都へ運ばせています。黒海商人の前でかなり乱暴な買い方をしましたから、今頃噂になっているのでは?」
 
 しれっと言ってのけた沙羅に、「ちょっと待て」と薫衣は顔をしかめた。

「その金はどこから出した?」
「もちろん、葛ヶ原領主につけるに決まってます」

 うなだれそうになるのを薫衣はこらえた。海上の交易権をはじめとした数々の権益を取り戻し、徐々に立て直し始めているが、葛ヶ原の財政は未だ再建の途上だ。馬百頭と武具はあとで朱鷺に支払わせねばなるまい。頭の中で実にしょうもない算盤を弾き、薫衣は息をついた。

「法螺を吹くなら、徹底的にやりませんと。実際に金が動いていれば、ただの流言だって信憑性が増します」
「まあ、しかりではあるな」

 アランガの商船に乗って潮泊に到着したのが数刻前。
 薫衣たちはアランガ所有の蔵に身をひそめ、さっそく準備に取り掛かっている。決行は今日の深夜。時間はあまりない。
 もともと馬用にしつらえられた蔵はだだっ広く、三百人程度なら難なく収容できる。中をざっと見回した沙羅は首を傾げた。

「橘雪瀬はいないんですね」
「守れるだけの兵数がないんだ。少しの護衛を連れてあせび殿のところに向かっているよ」
「あらまあ。自分は蚊帳の外だなんて、よくうなずきましたね」
「雪瀬は割合、そういうところはわきまえている気がする。危ないところには出ない。領主さまには代わりがいないから」

 今回の雪瀬は帝からの勅を受け、薫衣の提案した作戦を採用し、必要な数の兵と武具を用意してアランガの商船を出航させたところで、ほぼ役割を終えている。あとは薫衣たちが作戦どおりに働けばよい。
 先ほど戻った斥候によると、黒海はこちらの目論見どおり山側の兵数を増やしているとのことだった。加えて、昼に南海の水軍が何度か陽動で大砲を飛ばしたため、いつもは湊のそばにいる軍船も沖のほうへ出ている。湊城自体の兵数は千を下るだろう、と薫衣は見立てた。

「南海方の間諜からの知らせです。決行は子の刻。月光が湊城の物見櫓の中央を指す頃、との由」
「わかった」

 斥候から報告を受けて、薫衣は立ち上がった。湊奪還に関する作戦を伝えた際、ならば湊城に潜入している南海方の間諜を使うようにとあせびが言った。有事のときのために、黒海兵に数名忍び込ませていたのだという。
 ――名は『アカツキ』。
 聞いたとき、なんともいわくつきの名だな、と薫衣は苦笑した。暁という男は、かつて葛ヶ原にありながら都と通じた間諜だ。別人だろうが、奇妙な因縁を感じる。
 薫衣は蔵の扉を開け放った。空に架かる月はもうずいぶんと高い。

「浜は?」
「龍呼までの道筋ができています」

 夜半の埠頭に、人気はない。それでも音を立てないよう気を配して、あらかじめ決めていた場所から浜へ下りる。月明かりに伸びる白浜は、これから起こることが嘘のように静かで、足跡ひとつなかった。潮が完全に引いて、再び満ちるまで三刻。万一、湊城を奪えず引き返すことも考慮すると、ぎりぎりの時間だった。

「御武運を」
「ああ」

 送り出す沙羅に軽く笑い、薫衣は続く葛ヶ原兵を振り返った。少年から壮年まで、どの顔もほどよく緊張がみなぎっている。よい顔つきだった。腰に挿した守り刀を一度握ると、心を定め、薫衣は歩き出した。
 すでに晩夏に近い時分だが、南海の猛暑は一向におさまる気配がない。日射しがないことが幸いであるものの、海岸付近は湿気で風が重く、蒸し暑い。動きやすさと音が立つことを警戒して軽装にしたのがよかった。馬たちも鞍を外し、足に布を巻いてある。裸馬であっても、薫衣たちは変わらず彼らを乗りこなすことができた。
 月明かりだけを頼りに、三百の兵と百の馬は黙々と海岸を移動した。陸側には、南海特有の葉肉の厚い木々が茂り、葉裏にはびこる蠅がときどき群れをなして前方を塞ぐ。顎から滴り落ちた汗を肩布で拭い、においに惹かれてたかる蠅を追い払う。

 ――あいつが死んだのは真冬だったな。

 えんえんと続く砂浜を歩いていると、不意にそんなことが思い出された。
 顔につぶてのような雪が当たる寒い日だった。颯音の頭髪と指を持ってきた「虱」の男を薫衣は斬った。あのとき、頭から振りかぶった血の熱さは、たぶん一生忘れない。そして、戻ってきた雪瀬を抱きしめたときの、あのあたたかさも。
 生きていかなくちゃと思った。颯音がいなくなって、たくさんのものが手のうちからこぼれ落ちてなくなってしまったけれど、このぬくもりがまだ残っているなら、わたしは生きていける。南海に幽閉されるなんて屈辱を味わわされても、気持ちひとつでしがみつけるなんて、こんな図太さが自分の中にあったなんて、颯音をただただ追いかけていた頃の薫衣には想像もつかなかった。
 
「薫衣さま」

 何度目かの蠅を追い払って顔を上げると、遠目に常夜灯のともる櫓が見えた。龍呼の湊城である。閉じられた城門に見張りの兵が立つ以外は静かなものだった。
 薫衣はあらかじめ決めていたとおりに兵を分けた。まず数隊を湊へ回し、小舟の綱をあらかじめ切っておく。湊城からあぶりだされた黒海兵が容易に海に逃げられないようにするためだ。別の数隊は攪乱班。城内での小火(ぼや)と同時に外に火を放ち、まるで大軍の敵襲があったかのように混乱を煽る。残りはすべて、湊城の攻略に投入。経験豊かな年長の兵が各隊につく。
 無言のうちに目配せをし合って、三隊は散った。
 薫衣たちは城門に近い茂みに身をひそめ、櫓の見張りをうかがった。単調な作業に飽きたのか、のんきにあくびなどをしている。隣に腰を落とした少年兵が機敏な所作で矢筒から矢を引き抜いた。
 潮風が夜の海原から陸へ向かって吹いている。
 風の加護は、と薫衣はふと考えた。
 風の一族の末筋たるわたしにも、ついているのだろうか。
 そして葛ヶ原からはるか離れたこの地でも、効くのだろうか。
 もし時代にも吹く風があるというのなら。
 「彼」は誰に味方するだろう。朱鷺帝か、あせびか、黒海か。あるいは。
 雲が途切れ、まっすぐ射し込んだ月光が櫓の中央を射抜いた。

「――来た」

 直後、何かが弾ける音がして、湊城の後背付近から煙が立ち上る。驚いた櫓の見張りが異変を報せるべく鐘を鳴らした。薫衣は、緊張で肩を強張らせる少年兵の背をやさしく叩いて、「あれだ」と櫓の常夜灯を指した。

「落とせ!!!」

 つがえた矢が震え、ひゅん、と澄んだ音を夜天に閃かす。
 常夜灯の明かりが消えた。夜目を失った城内では、煙に慌てふためいた兵たちがほどなく内側から門を開き、飛び出してくる。半ばほど出尽くしたところで後方から側面に向けて一斉に矢が放たれた。敵襲かと黒海兵が気付いたときにはすでに遅い。首や背を射られ斃れる兵が重なり合い、湊は瞬く間に血の泥濘と化した。なんとか海岸にたどりついた兵たちも、縄を切られ、遠方で漂うばかりの小舟を前に途方に暮れ、待ち伏せしていた別隊に斬り伏せられていく。
 四半刻を待たず兵数を激減させた黒海の残兵は、ろくな統率も取れないまま、散り散りに山側に逃げ、あまつさえ海に飛び込む者まで出る始末である。
 開いたままの門を見据え、頃合いだと直感する。
 弓隊を下げ、薫衣は愛刀を抜いた。

「湊城だ、続け!」

 馬の腹を蹴り飛び出すと、城門の前で右往左往している兵のひとりを上から叩き斬る。返す刀で、もうひとりの頸動脈を掻き斬り、血を噴き上げる死体を蹴りつけて向かってくる兵にぶつけ、たける馬足で押しのける。
 
「何者だ!」

 鋭い誰何の声に、名乗る必要もない、と胸の内でだけ返す。返しながら、さらにひとり斬った。刃こぼれを起こす前に別の刀に代えて、ふたり、三人。城内は葛ヶ原兵と黒海兵の乱戦状態となる。しかし、勢いづく葛ヶ原兵に対し、不意をつかれた黒海兵は逃げ惑うばかりである。勝敗はもはや火を見るより明らかだった。さらにひとりの脳天をかち割ったあと、視界端に護衛に守られて離脱しようとする武将の背を見つけ、薫衣は目を眇めた。弓はあまり得意ではない。とっさに守り刀を引き抜き投擲しようとすれば。
 弓弦音が空を打ち、男の首をさっと矢が射抜いた。
 いったい誰が。
 だが、考える暇はない。

「湊城の大将茂呂だな?」

 乱戦を巧みにくぐり抜けた薫衣は、血を吐いて振り返った男に問うた。致命傷をわずかに逸れたか、まだ息をしている。護衛は胸を射られて、すでに事切れていた。

「おまえは南海の……?」
「葛ヶ原だ」

 薫衣はこたえた。

「しかと刻め。湊城を奪還するは、葛ヶ原領主橘雪瀬!」

 声を張り上げ、薫衣は驚愕に歪んだ男の首に刀を叩き落とした。




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