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二章、風の花嫁(12)




 一羽の鳩が宮中の甍の上を旋回し、そのうちのひとつ『赤の殿』に向けてまっすぐ降りてくる。殿上にはおよそ数か月ぶりに、丞相月詠が参内していた。夏にあってもますます異彩を放つ黒衣はまるで変わらないが、蒼褪めた膚はさらに血の気をなくし、袖からのぞく手首も前より痩せた。そのくせ、眼差しばかりは研ぎ澄まされる気がするのが月詠という男である。

「ようやく来たか」

 呟き、月詠は鳩の足に結んであった文を開いた。一瞥するや、形のよい眉をひそめ、油皿に投げ入れてしまう。炎になめされ縮んでいく文を見て、「どなたからですか?」と対面に座す男――都察院長官の嵯峨(さが)卿が問うた。『赤の殿』に久方ぶりに月詠がのぼったことを知って、早朝であるが、訪ねてきたのだ。

「菊塵(きくじん)からだ。葛ヶ原兵が龍呼に夜襲を仕掛け、黒海から湊城を奪還したらしい」
「葛ヶ原? 東の田舎ものがいつの間に南海くんだりまで……」
「おおかた、都に常駐させていた警備兵だろう」
「しかし警備兵など、三百程度ではありませんか」

 対する黒海兵は三千と聞き及ぶ。あらかじめ陣を敷いていた南海軍をあわせても、千五百といったところか。どうにも信じがたく、嵯峨は帯に差した扇をしきりに指で擦った。
 葛ヶ原領主橘雪瀬といえば、玉津卿を鮮やかに捕縛したことでひととき噂にのぼったが、総じて地味な出で立ちで、勇猛果敢な印象にはほど遠い。そんなたいそうなことをやってのけるとは思わなかった、と皆に感じさせるあたりは、なるほど敵の裏をかいていたのかもしれない。
 嵯峨の胸中を察してか、月詠は薄く口端を上げた。

「湊城内に、南海か葛ヶ原と通じる間者がひそんでいたらしい。時期を考えれば、南海のほうか。網代あせびはあれで注意深い男ゆえな」
「なるほど、それで……」
「しかし、模範的な裏のかき方では化かし合いにもならん」

 独白する声にはこの男にしては珍しい、残念がるような響きがあった。嵯峨は細眉をひそめたが、月詠はすでにいつもの表情に戻って、山積みになった決裁の文書に判を押している。

「して、おまえの用はなんだ、嵯峨。久方ぶりに顔を見せたが、よもや赤の殿まで油を売りに来たわけではあるまい」
「それは、月詠さまが近頃こちらへ遠のきがちでございましたので」

 こたえる嵯峨の言外には非難めいた気持ちが滲む。
 月詠が体調を理由に赤の殿にのぼらず、代わりに院と側妾の藍らが住まう桔梗院のほうへ通っていることは周知の事実である。老帝もとい桔梗院は、御名においてたびたび命令を発し、それが今上帝朱鷺のものとは相反することも多いものだから、宮中ではにわかな混乱が生じている。都察院の嵯峨にとっても、これは避けたい事態だった。とはいえ、今日赤の殿に参上したのは、月詠に小言を言うためではない。

「こたび相談に参ったのは、藍のことです。あの娘め、玉津卿の元使用人をそばに置いているというではありませんか。どころか、奥方の鬱金姫を月殿下の乳母に取り立てた由。鬱金姫は罪人の奥方ですぞ。早急に罷免するよう、月詠さまから申し付けていただきたく」
「あれはよいのだ。好きにさせておけばいい」

 嵯峨の熱心さに対して、月詠の返事は投げやりだった。思わず舌打ちしそうになるのをこらえて、嵯峨はずいと膝を進める。

「月詠さま。あの者どもが何事かを起こしてからでは遅うございます」
「さて、起こすと決まったわけではあるまい。鬱金は月を可愛がっているだろう? よい乳母ではないか」
「まことにそうお思いなら、呆れ果てました」

 嵯峨は挑発するつもりで真正面から月詠を見据えたが、返ってきたのは文書に判を押す乾いた音だけだった。こうなったあるじには、もはや何を言っても無駄だ。浅く息を吐いて、藍が憐れです、とぽつりと呟く。感傷じみた己の言に嫌気が差して、嵯峨は辞去を申し出た。

「あとひと月もすれば、都察院に三つの首が送られるぞ」
「は……」

 意味深な言葉に嵯峨は眉根を寄せたが、月詠が顔を上げる気配はない。首を傾げながら部屋を出るとき、何気なく籠の止まり木で羽を閉じる土鳩が目にとまった。十人衆のひとり菊塵からの報せであると、先刻月詠は言っていた。つまり、かような事態を見越して、独自に十人衆を動かしていたということだ。
 ――この方はいったい何を考えておられるのだろう。
 一抹の新鮮な疑問が嵯峨の胸に去来した。
 かつて橘の謀反を丞相補として封じたかと思えば、その次男を生かして葛ヶ原領主にせしめ。朱鷺の即位を静観するかに見えて、老帝との間に着々と対立の溝を広げてもいる。月詠の行動はそのときによって、朝廷を守ろうとしているようにも、破壊しようとしているようにも感じられ、一貫しない。
 ――この方の心がわたしにはわからぬ。
 重く嘆息した嵯峨の胸中など素知らぬ風に、月詠は痩せた手首を翻して判を押している。





「薫衣さま! 外の攪乱隊も戻りました」
「工作隊も皆無事です!」

 湊城では、先ほどからせわしなく報告が行き交っている。
 城に残された黒海兵は皆殺されるか、捕虜となって地下牢に閉じ込められた。山側に陣を敷いていた黒海兵は後退しかけたところを南海兵が押し出して潰走状態にある。あとは、沖に残った水軍を南海の水軍と陸の兵で挟み撃ちにすれば、一気に片付けられる。
 
「黒海の水軍は?」
「湊のほうへ偵察隊が向かっています。そろそろ戻る頃かと」

 山側の南海兵も続々と帰還しているため、征圧した城内はひとで溢れ返っていた。その中を早足で歩き、薫衣は物見櫓にのぼった。番をしていた兵に聞くと、先刻から、黒海水軍の位置は変化していないとのことだった。沖に逃げるわけでも、陸に戻るわけでもない。妙だな、と呟き、薫衣は夜明けの海原にぼんやり浮かんでいる船の明かりを睨む。

「思ったより動きが鈍い。派手に煙を上げたし、鐘も鳴らした。湊に異変があれば、駆け戻るものと思ったが」
「南海の水軍を警戒しているのでしょうか」
「それもあるかもしれない。けれど、このままではどのみち海上で孤立する。黒海とて、わからぬわけではないだろうに」

 仮に湊城が葛ヶ原・南海兵の手に落ちたことを知ったとしても、逃げ出さずにじっと沖を漂っているというのは妙である。ここにきて、いったい何を待っているというのか。

「薫衣さま」

 顎に手を置いて沈思する薫衣の背に、若い声がかかった。
 連れて参りました、と弓兵の少年が膝をついた男を示す。頭巾を目深にかぶった男は、一瞥では年齢も出身もわからない。薫衣は緩く苦笑を漏らして、男に向き直った。騒乱の中、薫衣を助けた弓兵を探したところ、この男が名乗りを上げたのだという。

「南海は暑かろう。頭巾は取らんのか? アカツキどの」
「これは失礼。ともすれば、貴女の機嫌を損ねる顔かもしれぬゆえ」

 飄と返した男の声には確かに覚えがあった。眉をひそめる薫衣の目の前で、男は頭巾を一息に取り去る。薫衣と同じ淡茶の髪があらわになった。

「燕の伯父上……!?」
「よう。元気にしていたか、我が姪よ」

 現れたのは、かつてのあるじ、橘颯音が子飼いにしていた密偵である。また、薫衣にとっては血の繋がった伯父にあたる、東野燕(とうのつばめ)。颯音の死とともに行方をくらませていたのだが、生きていたらしい。

「まさか、『南海側の間者』というのは……」
「俺だ。『アカツキどの』の命で少し前から仲間と中にひそんでいたのさ」
「その『アカツキどの』とやらが今の伯父上のあるじか」
「忙しい方ゆえ、ここにはおられないがな」
「ふん」

 薫衣としては、雪瀬を差し置き、別の主人に仕えたのか、という思いがある。現に燕の一人娘である千鳥は、父の失踪後、雪瀬の護衛として働いているのだ。しかし、燕は悪びれず、「そうだよ」とうなずいた。

「そう非難がましい目をするな、薫衣。俺は一途ものなんだ」
「馬鹿を言え。六年も行方をくらましやがって」
「仕方がなかった、とは言わんよ」

 肩をすくめる燕にむかっ腹が立ったが、状況を思い出してこらえる。薫衣は海上の船影を目で示した。

「黒海船が何故か海上から動かない。潜入中、何か話は聞いたか?」
「いや、黒海兵にとっちゃ、今日の奇襲は予想外だったはずだ。備えている様子もなかった」
「ならば、何故……」

 さなか、薫衣は海原の向こうに巨大な船影が揺らめいたことに気付いた。その数、十数艘。沖に漂っていた黒海水軍が躾のできた狗のようにさっとふたつに割れる。

「なんだ、あれは」

 燕が立ち上がって櫓の柵にのぼった。
 不気味な船影は急速に湊に近付いている。湊城はその名のとおり龍呼の沿岸に立てられた城である。埠頭で偵察をしていた兵たちも呆けた顔で、次第に大きくなる船影をぽかんと見上げた。風を受けて翻っていたのは、黒海の帆ではなかった。櫓に取り付けられた物見越しに、船の側面で黒光りする巨大な穴を見つけ、背筋にぞっと悪寒が走る。穴ではない。あれは、巨大な砲門だ。

「岸から退け!!!」

 こういったときの薫衣の勘は、天性といってよい。理屈ではない。半ば動物的な閃きで、まずい、ということがわかる。叫ぶと同時に自らもすぐさま身を翻して、櫓の手すりから飛びのく。直後、至近で轟音と衝撃が走った。埠頭付近だ。梯子から転げ落ちた薫衣は、次撃で物見櫓が大破するのを見上げた。破片となった血肉が降り注ぐ。間に合わなかった兵のものだ。すばやく身を起こした燕が城内へ走る。薫衣も腰を抜かした少年兵を担ぎ上げた。

「何が起きたんだ!?」
「わからん。わからんが、あの帆は黒海じゃない。クレツ――異国船だ。くそ、どうなってやがる!?」

 怒鳴り返す燕の声に重なるようにして再び大砲が爆ぜ、湊城の外壁を打ち砕いた。





「船が現れた?」

 その報は、網代あせびの本陣に合流途中の雪瀬にももたらされた。こちらは陸路を使い、比較的平坦な道を馬で走っている。あせびのもとへ向かっていた早馬が途上の雪瀬に追いつき、事の仔細を伝えてくれた。

「その数、十数艘。龍呼の湊を塞ぎ、動く気配がないとのこと」
「どこの?」
「は」
「どこの船?」

 真っ先に思いついたのは、こちらの策を見越した黒海が薫衣たちを湊城に引き入れたあと、包囲を仕掛けたのではないかということだった。しかし、南海兵は即座に首を振った。

「まだ不確かではありますが、西大陸の商船との情報が入っています」
「西大陸?」

 話がいきなり遠方に飛んだ気がして、雪瀬は眉をひそめた。

「南海連合と西大陸とは、以前から交易があります。今回の騒乱で、交易は一時停止をしていたのですが、これに対する抗議行動ではないかとの見方も。事実、砲撃も七回で止んだ様子。ただし、公の文書はまだ出ていません」
「……葛ヶ原と南海の兵は」
「消息は不明です。ただ――」
 
 橙色に転じた山の端を見つめ、南海兵が痛ましげに嘆息する。
 朝焼けが空を染め始めていた。

「潮はすでに満ちました」

 それは退路の消失を意味する。
 暁天を睨めつけ、雪瀬は歯噛みした。




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