雪瀬が網代あせびの本陣にたどりつく頃には、日は沈みかけていた。疲弊した馬を外に預け、今は南海兵がとどまっているあせびの義父の屋敷に入る。迎えたあせびは、以前よりやつれていたが、炯々とした眼光は相変わらずで、「よく来られた」と言って雪瀬たちを中へ通した。
「威嚇したのは、西大陸のクレツで間違いない」
「クレツ……ですか?」
「ここいらじゃ、お得意の商売相手さ」
鷹揚にうなずき、あせびは湯漬を持ってきた侍女に明かりを増やすよう命じた。日に焼けたあせびの指が海図上の駒を弾く。
「ただ、あいつらの意図が読めねえ。威嚇は七回きり、湊の護岸や城の外壁を破壊したが、積極的に仕掛けてくる様子はない。だが、追い払おうにも、奴ら、話し合いに応じん」
「黒海の水軍は?」
「湊に戻ったようだ。それと、陸に残っていた兵も立て直したらしい。おそらく、南海と葛ヶ原の兵たちは奪還した湊城の門を閉じ、籠城している。結局、城の内と外が入れ替わっただけだな。クレツ船のせいで、また膠着状態だ」
第一報を受けてから半日が経ったが、状況にさしたる変化は見られない。網代あせびの本軍と白海・青海の連合軍は何度か小競り合いをしているようだが、勝敗を決するには今少し時間がかかるだろう。
「――月詠でしょうか」
雪瀬は道中考えていたことを口にした。あせびの表情にも変化が現れなかったので、可能性のひとつには入れていたのだろう。
「交易の停止に対する抗議行動だとしても、都合がよすぎる。もともと行動を起こす意志が西大陸側にあったとして、日時と場所を指定した人間が別にいる」
「それが丞相だと? だが、今回の奇襲作戦は内密に行っていた。情報を漏らした人間がいるようにも思えない」
「ただ、兵の輸送に使ったのはアランガの商船なんです」
雪瀬は知らずこぶしを握り締めた。
「朱鷺帝は先年、皇祇殿下を蜷の頭領アランガに遣わせていた。加えて、葛ヶ原と蜷とは森を挟んで隣り合わせの土地。俺がアランガに通じたことに月詠が気付いていたら、兵の輸送路を読まれたかもしれない」
いいや、おそらく読まれたのだと確信する。
朱鷺が都の葛ヶ原兵を黒海に向けて動かすつもりだったことは、月詠とて察していたはず。あのとき、ほとんどの商船が出航を取りやめる中、アランガの船だけが通常どおり潮泊に向かうと言ってくれた。雪瀬は即座に兵の輸送を思いついたが、あるいは迂闊だったのかもしれない。
「だがな、雪瀬どの。それなら黒海にあらかじめ奇襲の情報を流せばいいじゃねえか。第一、丞相どのが三海に肩入れする理由があるか?」
腕を組んで唸ったあせびが、ふいに眸を鋭くする。
「いや。丞相どの狙いは朱鷺帝のほうか」
「……おそらく」
旧勢力の筆頭たる月詠と朱鷺帝は宮中において対立関係にある。
あのとき、朱鷺は言っていた。
これははなから己の勝ち戦であり、問題は時間なのだと。
ゆえに、雪瀬は短期で決着をつけるため、少数の葛ヶ原兵で奇襲をかけ、龍呼の奪還を試みた。それに対する月詠の一手が西大陸船だ。
「黒海ならいい。だが、西大陸船ともなると、意図がわからない以上はなかなか手出しができない。始末が悪いな」
ともすれば、外乱に発展する可能性を秘めているためである。
雪瀬は頬を歪めた。
「クレツは、三海につく気はない。理由がない。そう見せかけて膠着状態を招くのが月詠の目的だ。ひと月もすれば、船を引くに決まってる」
「といっても、それを証明する手立てがねえ。くそ。面倒な事態になったなあ、雪瀬どの」
この騒乱、長引けば長引くほど、今上帝の信用は傾く。月詠の狙いはそれだろうが、その先の目的はなんだろう。老帝の腕に抱かれた月皇子の姿を瞼裏に描き、雪瀬は嘆息した。
ともかくも、城内の兵糧が尽きる前に葛ヶ原・南海兵を救い出さなくてはならない。
それに、この局面はまだ――。
「――好機だぜ、雪瀬どの」
いましがた脳裏に浮かんだ言葉をなぞるようにあせびが言った。そう言い切れてしまうあせびに感嘆にも似た感情を抱いて、雪瀬は笑みを苦くする。思っても、雪瀬は怖いので口に出せなかった。
「確かに丞相どのは我らの不意をつく形で仕掛けたが、それは西大陸船の思惑を証明できないという一点にかかっている。なら活路は必ず、見出せよう。薫衣どのだって生きておられるぞ。たやすく死ぬおなごではないものな」
励ますように雪瀬の薄い肩を叩き、あせびは立ち上がった。南海模様の刺繍で衿や裾をふちどった上着に、何連も連なった赤石と翡翠の首飾り。淡がつくったんだぜ、とはばかりもなくのろけて、あせびはすだれをくぐり、欄干に出た。南海では夏には障子戸が取り払われ、代わりに虫除けのすだれが吊り下げられる。風にゆったりと揺れるすだれを押しのけ、雪瀬もまた外に出た。澄み切った夜空に、まるい月が架かっている。
「俺は明日には親父どののもとへ発つ。まずは青海と白海を叩き返さねえとな。クレツ船についても、情報が集めさせるが、もし雪瀬どののほうでも何かわかったら、連絡をくれ」
「わかりました。俺はいったん都に戻ります」
当初はここで薫衣たちと合流する予定だったのだが、状況が変わった。あせびが龍呼に兵を割くにはまだ時間がかかるから、雪瀬はひとりでもクレツの情報を集めるほかない。動かせる兵はすべて薫衣が連れて行ったので、雪瀬のもとには少しの護衛しか残っていなかった。
あせびと別れ、今晩用意してもらった寝室に戻った。千鳥たちは別室で休んでいる。すだれをくぐると、雪瀬は大きく息をついて、柱に背を預けた。昼夜駆けずり通しで移動していたため、それなりに疲れてもいた。火を入れていない夜闇の中、片膝を引き寄せて目を瞑る。
雪瀬は臆病もののたちで、顔こそ平然とした風を装っているものの、内心はいつだって不安でたまらない。何かを間違えたんじゃないか。自分の考えが足りなかったのではないか。本当にこれで正しいのか。じぶんは領主として最良の道を選んでいるのか。今にも押し潰されそうになるのをこらえて、握ったこぶしを勢いよく床に叩きつけた。
「これ以上踊らされてたまるか……」
月詠の手のうちで好きなようにされるのはもうたくさんだった。クレツの砲撃から一日。まだ事態は変転し続けている。月詠より前に、あせびの言う「活路」を見つけるのだ。しばらく沈思していた雪瀬は、微かな羽音に気付いて、顔を上げた。
「雪瀬、無事か?」
「扇」
いつの間にか空は白んでいた。
すだれをのけた雪瀬の腕に、欄干から降りた扇が留まる。南海兵から報せが届くと同時に龍呼に向かわせていたのだが、思ったより早く戻ってきてくれた。
「薫衣たちは無事だ」
開口一番、扇は言った。ひとまず胸を撫で下ろした雪瀬に、龍呼の今の仔細を語る。あせびの読みどおり、やはり葛ヶ原・南海兵が湊城にこもり、それを黒海兵が囲んでいるとのことだった。城内には十分な水と食料があるようだが、もって十五日といったところ。それ以上持ちこたえるのは厳しい。そこまで語ったところで、扇が何やら如何ともしがたい間を空けたので、雪瀬は眉をひそめた。
「何?」
「いや、これから都に向かうと言ったな? そのことなんだが、さっき都で見知った奴らを見かけてだな――」
続けて明かされた意外な『助っ人』の存在に、雪瀬は瞬きした。
「もうすぐ……つきます、よ、ね!?」
背後から、ぜー、はー、と激しい吐息がしている。ぜーはー、ぜーはー。ひっきりなしのそれは、今にも倒れかねない重篤人のようだ。振り返ると、顔を真っ青にした漱が胸を押さえている。桜は少し憐れに思ったのだが、その会話はつい四半刻前にもしたばかりなので、首を振った。
「あと少し、かかると思う」
「昼飯からだって、まだ半刻も経ってねえぞ」
先導して歩く無名も頬傷を歪め、すげなく返すばかりだ。どちらかというと涼しい顔をして歩く無名と桜をじとっと睨めつけ、「雪瀬さまの周りにはどうしてこう体力馬……」と途中まで呟いてから、漱は空を仰いだ。
「船が恋しいです……」
「ろくなこと喋らねえなら置いていくぞ」
「漱。たくさん喋ると、おなかがすくよ」
「……あなたがたの心意気はよくわかりましたとも」
漱の横顔に一時、深い絶望がよぎった気がするが、そこは気を取り直し、旅用の杖をついてまた歩き出す。桜も背負った風呂敷を抱え直して、ふたりに続いた。
無名、漱、桜の三名による葛ヶ原から都への旅を始めて、もう六日目になる。何故、かような珍道中を始めることになったのか。発端は七日前、蜷のアランガとの商談を柚葉がまとめた直後のこと。アランガの商船を使えば、潮泊へ抜け、龍呼への奇襲が可能となる。朗報に葛ヶ原は湧いていた。けれど、円座の隅に座る漱の顔色が難しいものに変わっていくのに、輪から離れた場所で彼らの話を聞いていた桜はいち早く気付いた。
『やっぱり、わたしも都へ向かいます』
やがて意を決した様子で漱が言った。
『都へ?』
聞き返す柚葉はいぶかしげである。ほかの者たちもそう変わりはなかった。
漱は武人ではない。南海の騒乱とはもっとも遠い存在のように、桜にすら思えた。それが自分も雪瀬たちのもとへ向かうのだという。
『よもやあなたさまが刀を取って戦うわけではありますまい?』
『ええ、わたしなぞ刀に振り回されて転ぶのがオチでしょう』
首を振ったが、漱の顔は真剣だった。
『何かがおかしい。うまく事が運び過ぎている気がします。雪瀬さまはたぶん、丞相月詠の存在を忘れておられる。あるいは、気にかけても、軽視しておられる』
『つまり、月詠が今回の騒乱で三海に手を貸すとでも?』
『いいえ。表立ってはあのひともそのような愚は犯さないでしょう。ですが、月詠は六年前、当時の朱鷺殿下を南海へ送り、廃嫡にした張本人です。彼は殿下の聡明さに気付いていた。だから早いうちに、中央政権から外そうと考えた。当然、今の状況は月詠のよしとするところではない』
柚葉の隣に桜はさりげなく座ったが、漱はさして気にするそぶりを見せなかった。柚葉も追い出しはしなかったので、じゃあ構わないのだと前向きに解釈して、漱の話に耳を傾ける。こういうとき、柚葉は感情の見えない、相手をはかるような目つきをしている。銀朱の袖をさらりと揺らして、柚葉は折った指の背を頤に添えた。
『月詠は、病を理由に長く公に姿を現していないようですが』
『では彼が屋敷にこもっているという保証はどこに?』
『それは……』
口ごもった柚葉に、漱はぴしゃりと言った。
『月詠は恐ろしく計算高い男です。あの男を甘く見ないほうがいい。おととしの玉津卿の一件、直接動いたのは今上帝である朱鷺殿下、そしてわたしたちのあるじである雪瀬さま。ですが、労せず得をしたのは、月詠です。考えてもごらんなさい、桔梗院の寵愛を一心に受けているのが今誰であるのか』
藍が産んだ皇子を院が溺愛しているという噂は、遠く離れたこの葛ヶ原の地まで伝わってきていた。そして、藍の後見である月詠もまた院の寵愛を独り占めしていると。
二年前の乞巧奠から始まる一連の事件で、月詠は何もしなかった。ただ、病を理由に、公務から遠のいただけである。その絶妙な揺らぎの中で、朱鷺は玉津卿を討ち、即位に至った。いったいどこまで月詠は読んでいたのだろう。骨の浮き出た、病人のような蒼白い肩を思い出し、桜は目を伏せた。
『では、漱さまは月詠が何を企んでいると?』
『わかりません』
漱は肩をすくめた。
『あのひとが考えていることは昔からさっぱりなんです、わたし。何がしたくて、何のために動いているのかまるで読めない。ただ。万一、不測の事態が起きたときに向けて備えることならできます』
『困りましたね……』
苦笑気味に、柚葉は眉尻を下げる。
『兄さまからあなたさまは私の補佐にと言われているのですが。ただでさえ、人手不足の状況にあるのに、あなたさまの腕ですと、護衛も要りますものね?』
『……でも』
ぽつんと呟いた桜に、漱と柚葉が目を向ける。こういう話をしているときに、桜が横から口を挟むことはまずなかった。桜だってそれくらいはわきまえている。漱たちだけではなく、集まった人間からも思わぬ注目を受けてしまい、『な、なんでもない』と桜は慌てて首を振った。
『『でも』、なんです? 姉さま』
しかし桜の予想に反して、柚葉の声は穏やかだった。しばらくためらった末、柚葉が本当に言葉を待ってくれているらしいことを悟って、桜は口を開いた。
『護衛が足りないなら、わたしの護衛を、貸します』
『桜さまの?』
『漱の言っていることは、まちがっていないように聞こえる。都には、雪瀬も、薫衣もいなくなってしまうから、何かあったときは心配』
『確かに空白地帯にはなりますね』
柚葉は、薫衣と三百の兵が潮泊に、雪瀬があせびのもとへ合流したあとの都を指した。
『それと、都へは私も行く』
『は?』
今度こそ、柚葉は大きな声を出した。漱の声もそこに一緒に重なったため、やっぱり大それたことを言ったのだと桜は身をすくめる。けれど、これは言わなければならないことだった。漱の言が確かで、月詠の身辺を探るというなら余計に。ふたりをひたと見据えて、桜は口を開いた。
『私なら、月詠の十人衆の顔をみんな知ってる。知ってるなら、見つかる前に隠れることもできる』