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二章、風の花嫁(14)




 かくして漱と無名と桜の珍道中が始まった。
 桜の挙げた護衛が無名だった。橘に嫁入りした際に、雪瀬が自分の側付だったものを桜へ譲り与えたのだ。以来、無名の扱いはいちおう桜に委ねられている。
 
「……やはり、状況は芳しくないようです」

 黒海の哨戒船による砲撃のせいで、都に入る船の運航が中止となり、桜たちも途中の湊で降ろされてしまった。このため、陸路を取って都へ入ったのだが、その間に南海情勢はめまぐるしく変化していたらしい。茶屋で情報を得た漱は、浮かない顔で息をついた。いわく、薫衣たち葛ヶ原兵は一度は龍呼を奪還したが、直後現れた西大陸船が威嚇砲撃を行い、湊が大破し、葛ヶ原兵の消息も未だ不明だという。

「……雪瀬は?」

 大通りから外れた場所にあるので、茶屋の店先にひとはまばらだ。主人が運んできた蕎麦には箸をつけず、桜は漱に問うた。

「南海のあせびさまのもとへ向かう途上のようです。といっても、身辺を守る程度の兵しか持っておられないので、ほとんど行動不能といっていいと思いますけど」
「そう」

 雪瀬の胸中を思えば歯がゆいだろうが、桜は少しだけ安堵した。そのあとで、暗澹たる気持ちになる。薫衣たちが無事かもわからないのに、安堵するだなんて。俯いた桜に気付いたらしい無名が「あいつらなら無事だろう」とそっけなく励ますようなことを言った。

「ひとまず、雪瀬さまに使いを向けて、あせびさまのもとから離れないよう言いましょう」
「何故?」
「状況が動いたとき、有効になるのは、龍呼付近に残してあるあせびさまの水軍です。西大陸船を探るのが都にいるわたしたちの仕事。時期を見はからって、あせびさまに水軍を動かすよう説得するのが雪瀬さまの仕事です。もちろん、わたしたちが探り出せなければ元も子もありませんが」

 苦笑し、漱は暮れ始めた空を仰いだ。
 
「今晩はいったん宿を取りましょう。都に敷いた『網』は動かしていますし、早々に有効な情報が引っかかるといいんですが」
「あみ?」
「わたし独自の情報網のことです。もともと百川のために張ったものなので、詳細は内緒ですけど、都の貴族や領主だけでなく、商人たちの取引事情や表に出てこない市井の噂まで網羅しているので、わりと使えますよ」
「そういうものがあるんだ」

 桜としては漱の用意周到さにひたすら感心してしまう。この一年や二年で張ったものではあるまい。そういえば、都に出るたび漱があちこちへせわしなく飛び回っていたことを思い出す。
 
「瓦町は葛ヶ原とはちがいますから」

 船着き場近くに並んだ宿屋街を歩きながら、漱が呟いた。

「颯音さまのような天才はいない。薫衣さまのような勇敢な武人もいない。いるのは、老いた刀遣いとしらら視とわたしのような平凡極まりない男だけです。だけども、それだってどうにか生き抜かないといけません」
「でも、雪瀬もふつうのひとだよ」
「どうだろう。あの子はわたしよりずっと努力家だからなあ」

 宿に空きがあるか心配だったが、漱がうまく話をつけてきた。桜だけ部屋を分ける案も出たものの、空き部屋がひとつしかなかったことと、護衛のしやすさから、結局二階の一間で雑魚寝になる。
 長旅で身体のほうは疲れていたらしい。横になったとたん強い睡魔に襲われて、夢も見ずに眠った。次に目を覚ましたのは、外の欄干をつつく微かな音が聞こえたためだ。

「扇……?」
「ああ、お疲れ様です。お待ちしてました」

 見慣れた鳥影に桜は眉をひそめたが、漱のほうへ平然として中へ迎え入れる。聞けば、南海にひとを差し向けて、扇を通じて雪瀬へ連絡を取っていたのだという。

「やっぱり砲撃をしたのは、西大陸船ですか」
「雪瀬の見立てでは、背後で月詠が動いている可能性が高いと。その証左が見つけられれば、膠着状態を打開できる。やれるか?」
「それらしい情報は『網』に引っかかっていたと思いますから、明日にでも行ってみますよ。雪瀬さまにはご心配なくと――」

 そこで漱は隣にちょこんと座っている桜を振り返り、空咳をした。

「あと桜さんが一緒にいることは、絶対に、言わないでください」
「……何故?」
「そりゃあ、わたしと無名さんがまとめてクビにされるからですよ」

 桜は首を傾げたが、「だろうな」と扇のほうは心得た様子で笑い、身を翻した。あっという間に空に霞んでいく白鷺を見送り、ああ、と今さら別のことを思いついて苦笑する。一言だけでも雪瀬に言伝を頼めばよかった。
 
「桜さんも少しお眠りなさい。明日は早いので」

 扇が去ったあとも、しばらく漱は窓に背を預けて手元の紙をめくっていたが、半身を起こしたままの桜に気付くと、手を振った。無名は戸口に近い柱に背をもたせて目を瞑っている。何かあれば、即座に刀を抜けるようにしているのだろう。うん、とうなずき、桜は箱枕を引き寄せる。けれど一度眠ってしまったせいか、なかなか二度目の睡魔はやってこなかった。

「……漱?」
「なんです」

 声がすぐ返ってきたことに安堵しつつも、複雑な気分になる。漱は今晩眠るつもりがないのかもしれない。『網』と呼ばれるものが桜にはよくわからないが、それは無名だって同じなので、西大陸船にかかる捜索は漱がほぼひとりでやっているといっていい。

「漱はどうしてそんなに、一生懸命雪瀬のためにするの?」
「一生懸命といいますか。まあ、お仕事ですし」
「雪瀬がすきなの?」

 尋ねると、漱は異国の言葉でも聞いた顔をして、瞬きをした。お仕事、と言うが、漱はもとは瓦町の人間である。領地の追放というやむを得ない事情があったにせよ、五年も雪瀬に仕えていることは確かだし、今回は危険を冒して都までのぼってきた。そういう漱のある種の真剣さを感じ取って、桜は無名を貸したのだろうとも思う。
 漱はしばらく考え込むように遠方を見つめていたが、やがてふっと肩の力が抜けた様子で笑った。

「ええ。大好きですよ」
「そう」
「最初はまったく仕方ないなあという感じでしたけど。ひとから頼まれたことでもありましたし。あのひとは危なっかしくて、なんだか放っておけなかったですしね。まあでも、そんなことをしているうちになりゆきで」
「なりゆきで」
「なりゆきで、情はわきますよ。仕方ないですよ、人間ですから。適当に三年くらい暇つぶしして瓦町に戻るつもりだったのに、なんだかんだで気付けば五年です」

 身も蓋もない言い方だったが、確かにそうかもしれない、という気がしてきて、桜もわらった。

「私もたぶん、なりゆきだとおもう」
「桜さんのは運命っていうんですよ。恋だから」

 眦を緩め、漱は手元の紙をまためくった。それきり会話は途切れてしまったが、たぶん漱は明け方まで調べ物をしていたのだろうと思う。





 翌日は日もまだ暗いうちから動いた。
 『網』に引っかかった情報のうち、クレツ関連のものに絞って当たるのだという。漱は漁船が出せなくなってたむろする漁師たちに話を聞き、異国の商人が集まる遊戯場に出向き、船子が出入りする夜鷹宿の裏戸に入った。正直、往路で早々に音をあげていた漱の働きぶりがいかほどのものか、桜には想像もつかなかったけれど、不安は早々に払拭された。朝から歩き通して、午後を過ぎた頃である。

「つかみました」

 あっさりと漱が言ってのけたのだった。
 桜と無名は顔を見合わせた。漁師たちのたむろする船着場、遊戯場に夜鷹宿。特段、めざましい何かが起こったようには思えなかったのだが。

「もう?」
「都に入るまでに、ふるいはかけていましたし。きのう、クレツの商船だということもわかったので、あとは絞り切るだけで済んだのが幸いでした。昨晩、雪瀬さまにも伝えたでしょう。心配しなくてよいと。――今晩、青水楼です」

 立ち並ぶ船宿のひとつを指して漱が言う。

「月詠とクレツ商人による密談。内容は威嚇船の撤退時期といったところでしょうか」
「どうするつもりだ?」
「心配ありません。ここからはむしろ、わたしの大得意分野ですから」
 
 紅鳶の眸に不敵な色を乗せて、漱は指を立てた。


 宵どきから、船宿の並ぶ青楼街の表には火が灯り始める。
 軒には屋号ごとに手製の風鈴が下げられ、風が吹くたび、一斉に音を立てるさまは壮観だ。漱は『網』の情報からつかんだ青水楼にひとり入った。無名と桜は、ひと目のつかない宿の外だ。漱曰く、素人の桜はもちろんのこと、手練れの無名がいると、逆に月詠に勘付かれるとのことで、外で見張りに立っているほうが都合がよいらしい。心配なのは漱にまるで武術の心得がないことだが、クレツの商人がいる前では、月詠といえど、漱に手出しはすまい。

『ほんとうに、これは死ぬ!と思ったら、風鈴を落とすので、急いで助けに来てください。死ぬ気で逃げますので』
『五つのうちにたどりつくから、安心しろ』

 悲壮な顔をして頼んだ漱に、無名は力強く請け負った。いったいどんな手を使えば、五つで船宿をかけのぼって二階にたどりつけるのか、桜には想像もつかないが、無名がうなずいたからにはやるのだろう。万一のときは壁でも伝うんだろう。確かに伝えそうだと、無名の隆々としたたくましい背中を眺め、桜は深々とうなずいた。
 日が落ちると、霧雨が降り始めた。
 桜は開いた傘を無名のほうへ差し出す。いつでも刀が抜けるよう無名は手をあけているので、傘は桜が持ってやった。木戸のそばに伸びる沙羅の葉から雫がとめどなく落ちている。雨に濡れた石畳の上を案内提灯を持ったひとびとが行き交うため、けぶった視界はぼんやりと明るい。
 月詠は本当に来るのだろうかと少し心配になる。漱の言を疑ったわけではないが、月詠にはいつも何を考えているのかわからない恐ろしさがある。

 ――ぬえ。

 不意にやさしい、あまりにもやさしい声が耳奥に蘇り、桜は瞬きをした。あの、冷たいけれど、とてもとても冷たいけれど、淡い体温を持った手のひら。都での別れ際に見せた、果敢ない表情。つき、と桜は呼んでやりたいのをこらえた。抱き締めたくなるのをこらえた。あのとき桜は。……目の前の男をあいしそうになるのを、こらえた。
 選べるのはたったひとりだけなのだと、知っていたから。
 そしてそのたったひとりは、もっとずっと前に選んでいたから。
 運命、という言葉を桜は考えた。
 確かに、雪瀬は桜の運命なのかもしれない。
 ほかのものは何ひとつ選ぶことを許さない点で、運命だった。雪瀬はとてもうつくしいひと。少なくとも、桜にとってはそうだった。そして自分にとってのかけがえのなさをそこに見出したときから、桜はこのひとを愛すのだと、さいごまで愛し抜くのだと決めた。
 桜は目を開いた。
 降りしきる雨の中を歩いている男が見える。まるで隠れる様子もなく、いつもの黒衣で、墨染の傘を差して歩く。桜はさりげなく無名の袖を引いた。無名もすでに心得ていたらしく、息をひそめて動かない。傘と雑踏に隠されて、月詠から桜と無名の姿は見えないはずだった。そのくせ、確かに男と目が合った気が、桜にはした。
 暖簾をくぐるとき、女将に月詠が何かを告げたのが見えた。
 それからほどなく異国人だとわかる男がやってきて同じように中へ入る。ふたりの男と漱をのみこんだ船宿をけぶる雨越しに仰ぎ、桜はきゅっと傘の柄を握り締めた。




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