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二章、風の花嫁(15)




 桜の仕事はここからが肝要だった。
 やってきたとき、月詠は十人衆を連れていないようだったが、近くにそれらしい者がいれば、見つけて無名に教えなくてはいけない。月詠自ら手をくださない場合、十人衆が動く可能性が高いためだ。
 降りしきる雨を見つめ、どうか誰も来ないでほしい、と桜は祈った。嵯峨も、伊南も、菊塵も、白藤も。誰も現れないでほしかった。斬り合いになるのは嫌だった。無名が彼らを斬るのも、彼らが無名や漱を斬るのも、どちらも桜には同じくらい恐ろしいのだ。どうしてだろう、と不思議に思う。桜は雪瀬を選んだ。他のものはみんな都へ置いていったはずなのに。十人衆を見張ると言いながら、一方でどうか来ないでほしいと必死に願っている。そういうじぶんがとてもずるく思えて、桜はきつく眉根を寄せた。

「……長いな」

 ぽつりと無名が呟く。
 知らず肩を跳ね上げて、桜は我に返った。

「漱は大丈夫かな」
「風鈴は落ちてねえから、問題ないだろ」

 それでももしかしたら、と心配になってしまう。桜が見落とした隙に十人衆が船宿に入り込み、今この瞬間にも漱を襲っているんじゃないか。来ないでほしいだなんて、未練がましく願っていたから、桜は見るべきものを見逃してしまったんじゃ。蒼白になって二階を仰いだ桜に、「落ち着け」と無名が言った。

「血が流れれば、さすがにわかる。におう」
「……うん」
「第一あいつ、毒とかいろいろ持ってんだろ。何かあったらまず自分でどうにかするはずだ」
「うん」
 
 うなずきつつも、視線は所在なくあたりをさまよう。不意に無名が背に緊張をみなぎらせた。屋号の入った角行燈に照らされた藍染暖簾が翻る。先に出てきたのは、くだんの異国商人だった。桜と無名には気を留めた風もなく、見る間に雑踏に紛れていく。月詠は出てこない。

「まずいな」

 部屋にはおそらく月詠と、近くに漱が残っているだけということになる。桜は障子の締め切られた窓を振り仰いだ。風鈴は落ちない。

「無名。やっぱり」
「まだだ。月詠と鉢合わせする危険がある」
「でも」
「まだだ。信じろ」

 そのとき、軽い音を立てて墨染の傘が開いた。からりと回した柄を肩にかけると、月詠は濡れた石畳を歩き出す。その背が見えなくなるまで待って、無名が息をついた。

「入るぞ」
「うん」

 五つ、と言っていた無名の動きは早かった。無名に続いて船宿に入ろうとした桜は、ふと背後に視線を感じて振り返る。そして大きく眸を瞠らせた。

「……サクラ」

 道の対面に幽鬼のごとくたたずむ少女がいた。こんな雨の中、傘も差さないせいで、肩上で切り揃えたおかっぱは濡れそぼり、白い頬に張り付いている。

「白藤」

 無名は先に行ってしまったらしい。だから桜はひとり、十人衆の少女と対峙した。瞬きをしたのち、「やっぱり、サクラだ」と白藤は繰り返す。精緻な人形めいた横顔がほんのり和らいだ。

「ずっといないから、いなくなったと思ってた」
「白藤は……、どうしてここにいるの?」
「月詠さまがここにいろと言った。月詠さまがおはなしをしている間、船宿に入る人間がいないか見ていろって」
「船宿に入るひとがいたら?」
「いたら、邪魔をする前に始末しないといけない」

 月詠が船宿から出たので、ひとまず命令の効力はなくなったのだろう。無名が止めてくれてよかった、と桜は思った。桜たちも船宿に出入りする人間をうかがっていたが、白藤も別所から同様の監視をしていたのだ。話しながら白藤がふるっと身を震わせたので、桜は持っていた傘を差し出して白藤の肩にかけた。

「こんなに濡れて。風邪をひくでしょう」

 苦笑気味に呟きながら蒼白い頬に手巾を押し当てるが、少しも拭いてあげられないうちに手を止める。そのとき、胸中によぎったことを実行に移すには、しばしの時を要した。

「サクラ?」

 硝子玉めいた紺青の眸に顔をのぞきこまれ、びくりと肩を震わせる。白藤は表情を変えず、じっと桜をうかがっている。心配を、しているらしかった。

「おなかへった?」
「……だいじょうぶ。白藤」

 こぶしを握り込むと、桜は微かに笑んだ。記憶の中のじぶんの表情を必死に呼び起こしながら。

「今日ここで私に会ったことは月詠には言わないで」
「いいけど、どうして?」
「どうしても」
「……サクラ。またごはん、作ってくれる?」
「ごはん?」

 尋ね返した桜に、こくんと白藤は顎を引く。

「伊南も、嵯峨も、菊塵も、月詠さまも。みんな何も言わないけれど、ずっとおなか減ってる。サクラがいなくなってからずっと。また白藤たちに、ごはん作ってくれる?」

 期待と不安をこめて見つめてくる少女の頬に触れ、桜はこたえた。

「つくるよ」

 雨が降っている。
 重たげに枝を垂らした沙羅を雨雫が叩いている。
 白藤と別れた桜は、そろそろとその場にくずおれるようにしゃがみこんだ。嗚咽がこみ上げてきたので、奥歯を噛んでこらえる。泣くのはずるい。悲しむのもあまりにもずるかった。ひどい。嘘がばれたら。ばれたら白藤は、きっと罰せられるのに。もう彼らにごはんを作ってあげることだってないのに。嘘を吐く。別の何かを守るために。
 桜は迷わない。
 雪瀬が大事だから、ふたつもみっつも選べないのはわかっているから、ほかのものを切り捨てることも、見捨てることも、厭わない。それなのに悲しくてたまらなくて、苦しくてたまらなくて、そんなじぶんが厭わしくてたまらなくて、何度も何度も震える嗚咽を止めることができなかった。
 やがて、無事だったらしい漱を連れて戻ってきた無名が、どうしたのだと驚いた風に尋ねる。腫らした目を無理にこすって、傘をなくした、とだけ桜はこたえた。

「西大陸船の撤退は二十日後」

 漱は今しがたつかんだらしい情報を合流した扇に話す。
 
「ですが、三日と雪瀬さまには伝えてください。三日後の夕刻、西大陸船は龍呼から去ります。これに乗じて、あせびさまは一気に南海の水軍を動かすように。説得はお任せします、と」

 了解、とうなずき、扇は飛び立つ。
 ――三日後。
 西大陸船は、龍呼沖から姿を消した。
 本国から王の危篤の報せが入ったのだという。いったいどうやったんだと呆れた顔をする無名に、どこの派閥に属する商人かわかれば、対抗する別の商人がいますから、と漱は飄然とわらった。





 漱からの報せを受け、雪瀬もまた動いた。
 漱が三日と断言するからには、三日で異国船は引くのだろう。あとはいくつかの証左を上乗せして、あせびに龍呼付近に待機させていた水軍を動かすよう頼んだ。あせびは雪瀬の言だけを信じて動く男ではないが、やはり独自の情報網で西大陸船の撤退の兆しをつかんだらしい。水軍を一気に集め、龍呼沖から西大陸船が離れると同時に接岸した。
 薫衣たちは黒海兵に包囲されながらも、籠城を続けていた。
 もともと黒海兵が占拠した城には、食料や武具が豊富に蓄えてある。薫衣たち葛ヶ原兵と南海兵はあせびの水軍がたどりつくまで、城の際で黒海兵を数度に渡って撃退し、もちこたえた。上陸した南海水軍は城を包囲する黒海兵の後背をついた形だ。城の内と外で挟撃された黒海兵は散り散りになり、多くが刃に斃れ、あるいは捕えられた。累々と積み上がった屍はしばらくの間、龍呼の波打ち際を赤く染めたという。

 龍呼攻略と前後して、あせびの率いる南海軍は、青海と白海の連合軍と激突した。膠着中の裏工作が効いたらしい。一日も立たないうちに青海側の一部が敗走、一部が寝返り、全軍は総崩れとなった。青海領主はその場であせびが捕縛した。白海領主は身辺を守る護衛とともに山中を落ち延びたが、関所付近でこれもまたあっさりと捕縛された。張っていたのは葛ヶ原領主橘雪瀬とごく少数の兵である。
 そして残る黒海、その領主屋敷では。

「やめ……やめろ!!!」

 黒海領主、丹李は腰を抜かしたまま、眼前に迫った影に怯えた目を向けた。青海、白海連合軍の敗走。両領主の捕縛。龍呼の奪還と、黒海軍の潰走。これらの出来事は一日を待たず、次々と起きた。そして、手薄となっていた黒海屋敷そのものを兵が囲んだのも、同日。丹李には、逃げる暇すら与えられなかった。兵は南海の旗を掲げてこそいたが、流れ者の寄せ集めで、そのくせめっぽう強い。留守居ですっかり呆けていた黒海兵は瞬く間に蹴散らされた。

「黒海領主、丹李どのであらせられる?」

 床に広がる生温かな血を踏み、涼しげな目元をした男が丹李の前に立った。最後まで自分を守った近臣たちは、すでに変わり果てた姿で床に斃れている。歯の根が合わず、そうだ、とも、ちがう、ともうなずけない。ただ、近臣たちの血を吸った刀が己の鼻先に向けられるのを見上げるばかりだ。男の冷ややかな目は、自刃すらできなかった己を微かに憐れんでいるようにすら見えた。

「こ、こんな、こんなはずでは、」

 南海攻略は成功するはずだった。
 いくら網代あせびといえど、黒海と白海、青海の三海が協力して不意をつけば、訳ないと思われた。それに、あの御方は。黒衣の御方は。ゆくゆく桔梗院に奏上して、南海連合の長を黒海の丹李に替えると。あれは泡沫の夢に過ぎなかったのだろうか。

「ど、どうか……」

 かすれた咽喉から吐き出されたのは、南海の支配権を夢見た男にしては、まこと凡庸な願いだった。

「妻と、むす、娘だけは……」
「お助けしましょう」

 目を伏せ、橘颯音は刀を振り下ろした。
 刎ねた首がごろりと床に転がる。死に顔は心なしか穏やかだった。
 黒海屋敷は、同日炎上。
 領主丹李のみならず、主だった家臣、妻子はすべて殺害された。




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