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二章、風の花嫁(9)



 
 数日後、雪瀬は毬街湊から商船を使って都へ出発した。各長老の出した医師のほかに、毬街からも数名医師が参加し、中には馴染の瀬々木の姿もあった。

「それで、俺たちは南海で何をさせられることになるんだ?」

 やはりいつものとおり船上でひどい船酔いにかかっていると、煎じた薬を渡しながら瀬々木が問うた。夏の蒸し暑い船上などは、雪瀬にとって地獄でしかない。蒼白な顔をして薬包を受け取り、竹筒の水で飲み下す。

「瀬々木たちが南海へ向かうことはないと思う。都では今本当に医者が足りてないんだ。南海の騒乱の影響で、荒れているらしい。医者の数が減って、疫病がはやっているって薫ちゃんから聞いた」
「ふん。医者が消えたら世も末だなあ」

 肩をすくめた瀬々木に、雪瀬も苦くわらう。
 いちおう領主である雪瀬には、船内に一室が与えられている。ひとごこちついて脇息から身を起こし、汗ばんだ単をくつろげ、風を入れた。

「苑衣どのが快く協力してくださって感謝してる」
「ここぞと恩を売っておこうって腹だよ、あのばあさんは。医者なら外聞もいいしな」
「かわいい孫娘が都にいることもあったんじゃない?」
「薫衣か。あのひとに血の情があるかどうか。そういや、柚葉は?」
「置いてきた。ふたりいっぺんに葛ヶ原を離れるわけにはいかないし」

 雪瀬が葛ヶ原から離れるときは、たいてい柚葉が残って留守役をつとめるのが常である。そうすると、長老たちが安心するし、何かあったときも柚葉なら万事滞りなく処するだろう。桜も一緒に葛ヶ原に残っているのだと話すと、それは心配するだろうなあ、と瀬々木は意地悪く笑った。

「噂によれば、南海には美女がたくさんいるらしいから」
「そういう心配はしないんじゃないかな」

 けれど、懸命に笑顔をつくって送り出す彼女を見ているのはさすがにこたえた。
 ――だいじょうぶだよ。もう泣かないよ。かつて、わらって、と乞うた雪瀬にした約束を、未だに彼女が守ってくれている気がして。
 雪瀬が腕の中に閉じ込めていても、桜はもうめったなことじゃ泣かない。固く目を閉じて、息をひそめるようにしているだけだ。まだ柔らかな殻の内側に息づいているのだろう彼女のくるおしい感情をときどき雪瀬はこじ開けてやりたい衝動に駆られる。けれどそれと同じくらい、彼女に育ちつつある自我や誇りのようなものがいじらしくて、いとおしくて、大事にそれごとくるんでやりたい気持ちにもなる。ふたつの異なる衝動はそのときどきでどちらにも傾いて、ひどくやさしい触れ方をすることも、情動に陥る触れ方をすることもあった。

「まもなく霧井湊に近付くようです」

 千鳥の声を聞いて、雪瀬は立ち上がった。瀬々木の薬が効いたのか、だいぶ以前よりは調子がいい。船子のせわしなく動き回る甲板に出ると、毬街の廻船問屋の屋号が書かれた帆が風を受けて大きくはためていた。遠方に数艘の船を見つけて、「あれですね」と千鳥が耳打ちする。

「三海の?」
「はい。あたりを哨戒していると聞きます。一度追い払われたようですが、また」

 都に入る不審船がないか、見張っているということらしい。商船の屋号を掲げている以上、まさか問答無用で撃ってくることはないと思うけれど、と考えながら、雪瀬は海原を隔てた遥か先にじっとたたずむ船影を見つめた。雪瀬たちの乗る毬街の商船がゆっくり哨戒船の前を過ぎていく。哨戒船の横腹の砲門が黒光りしたことに気付き、背筋に冷たいものが走った。撃たない、と雪瀬はしかし思う。
 撃たない。
 まだ、撃たない。
 ここで撃たれることは、ない。
 潮風が吹いて、雪瀬の短い濃茶の髪を揺らす。あちらの船主との間に本当に無言のやり取りがあったのかは知れないが、砲門から弾が飛ばされることはなかった。息を吐く。まさか撃つ気なんじゃないかと一瞬思いました、と隣で千鳥がほっとした様子で呟いた。


 都の城門をくぐると、その足ですぐに雪瀬は朝廷に向かった。日取りについては、先に話を入れてあったため、そう時間をかけずに中へ通される。御簾越しに雪瀬を迎えた今上帝は、「医者の輸送大義であった」と満足そうに扇を鳴らした。

「こちらも思ったより荒廃していないようで、安心しました」
「すぐに斃れるようでは困る。して、今後のそなたについてだが」

 朱鷺の切り替えは早かった。こういうとき、無駄な前置きをしないのはこの帝の美点だと雪瀬は思う。どうせその話をしに来たのだ。

「稲城」
「はい」

 朱鷺に視線で促された稲城が進み出て、説明を始める。

「おとといのことになりますが、青海と白海が山側の境を越えて南海に侵入しました。地境の守りについていた網代あせびどののお義父上――淡どのの父君がこれを迎え撃ち、あせびどのも兵を率いて向かっております」
「しかし、そうなると龍呼(リュウコ)の湊を占拠した黒海への兵が手薄になる。そこで、密命じゃ。都の警護に回している葛ヶ原兵三百を龍呼の南海軍へ遣わせよ」
「龍呼へ」

 おおかた予想していた下知であったので、雪瀬はさほど驚かなかった。そのとおりのことを想定し、薫衣も三百の兵に支度をさせている。
 三海の一斉攻撃を受けて落とされた龍呼の湊城には、今黒海の兵が入り、もともと城にいた南海の湊司は役所のほうに立てこもって抗戦を続けている。あせびの兵は本来、湊へ向かっていたのだが、白海と青海の侵攻を受けて大部分が引き返した。

「この戦は南海と朝廷の勝利で片付く」

 昼下がりではあるが、御簾内には明かりが入れられ、清らな香が焚かれている。それでも、風と草原の地に住まう雪瀬には、息がつまるばかりの場所だったが。
 朱鷺は開いた扇を明かりのほうへかざして、何かを吟味するようにゆったりと振った。

「我々の勝利は揺るぎない。わかっていないのは三海だけで、俺もそなたも、周辺の領主たちも同じく思うておるはず。問題は、時間じゃ橘。この程度の騒乱に時間をかけることそのものが、朝廷の威信を損ねる。つまりは俺の敗北だ。わかるか」
「陛下は、何月でおさめるおつもりで?」
「二十日じゃ。青海、白海までもが南海の境を犯した以上、もはや容赦はせぬ。あやつらも言い逃れはできまい。動くぞ」

 ぱたん、と扇を閉じる。衣擦れの音をさせて朱鷺は立ち、御簾を挟んで雪瀬の前に片膝をついた。閉じた扇が額にあたりそうなほど、そば近くに差し出される。

「そなたはこれより十日で龍呼の湊を取り戻せ、橘」

 炎のように輝く翠の眸を雪瀬は見つめる。
 十日。雪瀬の見立てでは、ひと月だった。それを十日。

「できるか」
「考えます」
「できぬのか?」
「考えてから、難しければ、またおもねります」

 慎重な答えに、「つまらん男じゃ」と帝はくすくすと笑った。扇を帯に戻した帝の端正な横顔をうかがい、あの少しぼんやりした皇子の面影はもうどこにもないと雪瀬は悟った。どちらが真で、どちらが偽であったのだろう。それすらも、雪瀬には判じえないことだった。

「丞相月詠はこのことについて?」

 思いついて別のことを尋ねてみる。しかし朱鷺の返答は思いのほかすげなかった。

「わからぬ。あやつ、この頃参内自体をしておらぬのだ。病だというが、嘘か真か。続くようなら後任を考えなければならんが」
「……さようですか」

 雪瀬が忠言するまでもなかろうが、月詠の不在は不穏だ。何か別の企みをしていなければよいのだが。

「仔細は、網代の者に聞け。稲城がすでに取り計らっている」
「御意に」

 胸のうちにわだかまりを残しながらも早々に話を済ませ、雪瀬は外に出た。大仰なことが苦手な雪瀬は、少ない護衛だけを連れて大路を自分で歩く。門の外に待たせておいた千鳥を従え歩き出した雪瀬は、さっそく扇を呼んで、葛ヶ原の柚葉に言伝を送った。腕を組みながら頭の中では次に打つ手を考えている。だから――。だから、気付かなかった。
 
「あ」

 そう呟いてすれ違った女が、澱んだ目を雪瀬の背にじっと向けていたことに。その女が死んだ玉津卿の奥方であったことに、このときの雪瀬が気付くわけがなかった。




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