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二章、風の花嫁(8)




 今上帝の密書を携えた文使いが葛ヶ原に到着したのは、三海による湊の占拠から十日後のことだった。

「医者を用意せよ、だって?」

 開いた書状を眺め、雪瀬は腕を組んだ。
 文を運んできた少年は、ねぎらいの言葉をかけたのち、別室に案内してある。普段評議などに使われる大間には今、領主である雪瀬や柚葉のほか、家令をはじめとした各職務の長が集まっていた。朱鷺のものらしい流麗な水茎は、至急葛ヶ原と毬街の医者を集められるだけ集め、都に輸送する旨を伝えている。

「この時期の使いゆえ、よもや派兵命令かと思われましたが……」

 息を詰めてうかがっていた家令が、安堵した風に肩の力を抜いた。しかし、雪瀬は眉根を寄せたまま、朱鷺の水茎を睨んでいる。長い黙考の末、いや、と首を振り、畳んだ文書を文箱に戻した。

「派兵命令だ」

 膝を詰めた者たちの一部にどよめきが走る。

「阿呆らしい。医者が兵になるっていうのか?」

 冷やかし交じりに声を上げたのは、濡れ縁に少女とともに座るわら人形である。橘の食客を自称する彼らは、ふらりと訪れては雪瀬にごちそうと旅費をせびってまた出ていくことを繰り返しているのだが、こたびは文使いの護衛を帝から内々に請け負って、葛ヶ原まで無事送り届けた。
 
「医者というのは隠れ蓑。帝の真の狙いはそれではありますまい」

 隣に座した柚葉が慎重に口を開く。
 もとより、今上帝は葛ヶ原からの派兵など期待していない。何しろ、葛ヶ原と南海では地理的にも東の端と西南の端ほど離れている上、現状都に近い南海の湊は三海に占拠された状態にあり、兵を大量に積んだ船を出せば、たちまち沈められるだろう。反対に陸路を使っては、時間がかかりすぎる。ゆえにこそ、今上帝の狙いは――。

「今年都の守護役にあたっている葛ヶ原兵ですね」

 軽く顎を引いたのは漱だった。
 都の守護役は、一年ごとに各領主が持ち回りで兵を出す。今年その任にあたった葛ヶ原では、年の初めに薫衣が五條の郎党を率いて、都へ駐留していた。

「三海に占拠された湊では、南海の湊司とその兵が役所の一角に籠もり、抵抗を続けているとのこと。ただ、網代さまの向かわせた船団は、三海にはばまれて沖で足止めされてるようですね」
「南海の周辺領地では、三海と網代あせびさま、双方の顔色をうかがって、出兵を渋っている領主が多いのだとか」
「ゆえ、遠方でかつ都に兵を置いている葛ヶ原に目を付けたのでしょうか。それとも、よもや帝はあらかじめ予期して、葛ヶ原に兵を出させていたのか」
「難しいお立場ですね」

 意見を言い合う者たちの声を聞きながら考え込む雪瀬に対し、漱が呟いた。言外の意味を察した様子で、家令の塩賀がうなずく。

「五年前の雪瀬さまの助命嘆願には、三海と網代殿が名を連ねていた。どちらに対しても大恩があるという点では、周辺領地と変わりませんな。なまじ兵など出せば、恩知らずのそしりを受けるのでは」
「だからこその『医者』だ」

 雪瀬は組んでいた腕を解いた。

「あくまで医者の貸し出しなら、三海に対してもひとまずの言い訳が立つ。少なくとも俺が都へ向かう理由としては」
 
 並んだ者たちが顔を引き締めてうなずく。方向は決まった。雪瀬は円座から立ち上がって、「竹」と外で控えていた小姓を呼びつける。

「毬街の自治衆に連絡を取りたい。文の用意を。それから蕪木。至急案文を作成、長老たちに領内から1名ずつ医者を出させるように。塩賀はいつものように船の手配と航路の計画、加えて準備と調達全般。ほかはそれぞれの補佐に」

 そこまで組み上げると、指名されたおのおのは御意にとうなずき、散会した。柚葉も、文使いの少年を一度見てくると言って席を立つ。以前から客人のもてなしは柚葉に任せているのだが、近頃柚葉を呼ぶと、たいてい後ろから桜がついてきて、今日も所在なさげな少年の手を取って奥のほうへ連れて行った。雪瀬は特段望んでないが、桜はそういう役目を進んでこなそうとする。

「俺はどうしたらいい?」

 障子戸を開け放った雪瀬の肩に、ひらりと白鷺が舞い降りた。待ちきれない様子で役目をねだる白鷺にわらい、「扇は都の『薫衣さん』に今のことを伝えてもらえる?」と咽喉のあたりを撫ぜながら言った。
 
「わかった。また船酔いだな、雪瀬?」
「しばらくないと思っていたのに。迷惑なことだよ」
「かわいい嫁さんを置いていくことになるしな」
「帝には月替わりの餡蜜を送ってもらおうか」

 かわいい嫁さん、の好物を挙げると、「落雁もつけてもらえ」とうなずき、扇は羽を広げた。蒼天に吸い込まれていく白い鳥影を見送り、雪瀬は息をつく。

「船は商船にしておいたほうがいいと思いますよ」

 よいしょとひとりのんびり腰を上げ、漱が言った。いつの間にか部屋には、漱と雪瀬しか残っていない。

「それだけで三海の目を欺けますから。商船の行き来は変わりなくなされているようですし、中にいるのも医者ですから、万が一あらためられてもかわせるでしょう」
「……ああ」

 相変わらず、細やかなところまで知恵のよく回る男だった。
 雪瀬は扇の鳥影が消えた空を仰いだ。ぬるい風が吹き抜け、蝉時雨の音がふいに大きくなる。
 季節は夏。葛ヶ原の暑さは峠を越したが、南海は晩夏もあとを引くだろう。雪瀬はかつて宮中で対面した朱鷺皇子のことを考えた。朱鷺によって葛ヶ原の権益を回復し、薫衣を放免にしてもらったときに、こういうことはいつか起こるだろうと思っていた。問題は、文ではうかがい知れぬ朱鷺帝の心である。

「陛下は俺に何をさせたいのだろう」
「話し相手になってほしいと言われたのでしょう? 朱鷺帝は老帝とちがって、南海や北方の遠方領主の支持を受けて即位しました。都近郊の領主や古い官僚は、未だに老帝――もとい桔梗院を仰ぐ者が多いんです。あちらには丞相月詠がいますしね。陛下としては少しでも、自分の味方を増やしたい」
「葛ヶ原も?」
「きみは、かの天才風術師の弟君ですから。それだけで価値はある」

 皮肉げに呟き、漱は言葉を一度止めた。

「雪瀬さま」
「うん?」
「わたしのお勤めですけれど、この南海で最後になりそうです」

 雪瀬は数歩後ろに立つ男を振り返る。冗談のたぐいではないらしいと理解して、そうかと顎を引く。漱は肩をすくめた。

「さっぱり驚かれない。わりにわたしはいつ打ち明けるべきか、しばらく悩んでいたんですよ」
「だって、瓦町からの追放はもう解かれているんでしょ」
「ええ、二年前に。弟たちに内政を任せてまいりましたが、刀斎さまも御歳を召された。あのご気性なので、もうしばし雪瀬さまにお仕えせよとの命でしたが、そろそろ頃合いでしょう」

 漱は苦笑気味に眉を開いた。

「口うるさく言う男を追い払えそうで、せいせいしていらっしゃる?」
「そちらこそ、やっと出来の悪い領主の御守りから解放されるってほっとしたんじゃないの?」
「安心はしてますよ。きみはさ、大きくなりましたね、弟くん」

 空は西のほうから薄紅に染まり始めている。南海の騒乱など嘘のように、穏やかな夕焼けだった。

「出会ったばかりの頃、きみは虜囚の身で、今にも泣き出しそうな顔ばかりをしてたから。この子を葛ヶ原領主に立てることが本当にできるんだろうかって、わたしは不安で胸がいっぱいでした」
「……蓮さまは変わりなく?」

 自分を助けた医者の名を挙げると、「ええ。相変わらず荒っぽい治療をしておいでです」と漱は笑った。隣に並んだ男を見上げたとき、不意にもし兄が生きていたら、と雪瀬は珍しく夢想した。背は追いついたんだろうか。皇祇のように。追い越すことはあったろうか。それから、手の大きさは。あの雪瀬よりずっと大きかった手。

「きみの成長をもう少しそばで見ていたかった気もするけれど。その役割はまあ、他へ譲りましょう」

 軽く嘆息して、漱は雪瀬に向き直った。

「南海にゆかれるんでしょう、雪瀬さま。となれば、あなたは『彼』と出会う可能性が高くなる。いいえ。いずれ必ず、出会うでしょう。ゆえ、わたしから先にお話ししておきます。あなたの兄、橘颯音について」
「兄について?」
「ええ。颯音さまは生きておられます。蕪木透一も同様に」





 柚葉が外を気にするそぶりをしたので、文使いの少年は自分が世話をするから大丈夫だと、桜は伝えた。柚葉は一瞬驚いた顔をしたあと、ではお願いしてよろしいですか、姉さま、と微笑む。
 帝の密書を携えた少年が、沙羅たちと葛ヶ原にたどりついたのが数刻前。そのあと、屋敷のうちがにわかに騒がしくなった。言葉の端々で、都へ向けて医者を送るのだとか、船を手配するのだとか、兵が、と声が聞こえたが、仔細はわからない。同じく不安そうに周囲を見回している少年には、だから少なからず同調してしまって、木陰が涼しい客間に案内すると、千鳥にお願いしてお茶と冷やし飴を出してもらった。少年は礼儀正しく正座し、静かに冷やし飴を食べている。

「おいしい」
「でしょう」
「おねえさんは、領主殿の奥方さまですか?」
「う、うん。そうです」

 つい一緒になって冷やし飴をおいしく食べていたので、我に返り、正座をし直してみたのだが、文使いの少年は何故かくすくすと笑い出した。

「もっと恐ろしい方を想像していました。傾国の君のような。わたしの周りでは皆そのように……」

 呟いてから失言だと気付いたらしく、あっ、という顔をする。桜は苦笑した。帝から丞相、丞相から葛ヶ原領主に渡った夜伽の娘をそのようにたとえるひともいるらしい。

「帰りの船はとっている、ますか」
「はい。明日の船で戻るつもりです。鳩を飛ばしたので、陛下にはもう伝わっているでしょうが……」

 まだ十歳くらいの少年だが、頬を染めてはきはきとこたえる。敬語すらままならない桜は素直に感心するばかりだ。
 冷やし飴を食べ終えた頃に、千鳥が寝所の用意が済んだと言った。ひとの世話をするのは丞相邸に数年いたおかげで慣れてしまった。せわしない屋敷のうちをそっと立ち回り、少年に夕餉を取らせて休ませたあと、自分も寝所に戻った。
 雪瀬はやはり帰ってきていない。
 行燈に火を入れるのをやめて、桜は月明かりの落つる濡れ縁にひとり座った。抱えた膝を引き寄せ、しろじろと蒼みを帯びる足指を無為にいじる。
 途中、千鳥から密命により都へ送る医者を集めているのだという話は教えてもらった。先日紫陽花が言っていた、南海での騒乱が関係しているらしい。詳しいことはわからないけれど、南海では網代あせびと三海の間で武力を用いた抗争にまで発展しているという。雪瀬も行くんだろうか。行かないんだろうか。考えると、不安になってしまって、桜は抱えた膝に顔をうずめた。
 雪瀬が帰ってきたのは、結局明け方近くになってからだった。
 音を立てず襖が閉められたあと、隣の褥にひとが沈みこむ気配があった。手のひらが桜の髪に触れる。目を開くと、起こした?、と頭を撫でていたひとは呟いた。起こしたというよりは起きていたのだけども、桜は曖昧にうなずいただけだった。

「……どこか行ってたの?」
「毬街」

 こういうときの雪瀬の返事は端的だ。それ以上は説明する必要がないので、しない。まさか毬街に遊びにいっているわけがないので、自治衆の苑衣さまか瀬々木のところかな、と桜はなんとなくあたりをつけた。
 帰ってくるひとのために一度灯した行燈はいつの間にか消えてしまって、夜明け前の薄暗がりにうっすら雪瀬が見える。いとおしげな眼差しを青い薄闇の向こうに感じて、桜はむしょうに切なくなった。しばらく髪をいじっていた手はしまいには覆いをつくるように、そっと桜の目の上に置かれた。桜は目を瞑る。雪瀬の意図を察してすぐそのようにふるまってしまうのは、昔から変わらない、桜の悪い癖だった。

「しばらく留守をおねがい」

 桜が眠ったと思ったのか、眠ったふりをしたと理解したからか、雪瀬は言った。

「南海へ行く。でもすぐに帰るから。たぶん梨にも間に合う」

 柔らかな声を、桜は雪瀬の手の下で固く目を瞑って聞いていた。心臓がどくどくと激しく打ち鳴り、指先が冷たくなっていくのがわかる。いかないで。と、つれていって。という言葉がふたつ同時に浮かんで、くるおしく胸をかき乱したけれど、必死に口を引き結んで耐えた。あまりに子どもじみた駄々だとじぶんでもよくわかったから。手のひらが外され、瞼の上にふわりと唇が触れた。はずみにこぼれ落ちた涙は吸われてしまって、頬を濡らすことはないまま。




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