月皇子のひととせ祝い――生まれて一年目に穢れを人形で流し、今後の健やかな成長を祈る祝いは、宮中にて盛大に催され、臥せきりだった『老帝』もとい桔梗院も珍しく姿を現した。
譲位後であるので、先帝も今は桔梗院を名乗っている。
院が移った住まいが桔梗殿であったため、自然とそう呼ばれるようになったのだ。数百年も昔に殺傷事件があったとされ、長く忌まれてきた殿である。しばらくは側妾の藍が月とともに住んでいたが、今は桔梗院も移り、寝食をともにしていた。そうすると、院が寵愛する家臣なども寄りつくため、桔梗殿は朝となく夕となく異様な賑わいを見せた。
「しまいには桔梗殿から、院宣が出る始末だとか。朱鷺さま……帝も内心は穏やかでないでしょうね」
内裏の渡廊から膨らみ始めた梅の花を見上げて、漱が呟く。さながら氷の上を渡るような、桔梗院と今上帝の関係はしばらくは続きそうだった。
年初の儀にあわせて行われたひととせ祝いに、漱は葛ヶ原領主名代の五條薫衣に付き添って出席していた。もともと雪瀬が出席するはずだったのだが、出立前に子どもがかかるおたふく風邪に大人のくせにかかって、医師の朧が制止をかけたのだ。新年の儀は、必ず領主自身が足を運ぶものではないが、自身の代替わりや、丞相の交代など、大事の時には領主自らまかりこすこともある。
今年に関していえば、先年に帝の譲位があった。馳せ参じた領主家はまずまず多い。一方で、桔梗院と今上帝の争いに巻き込まれることを案じ、静観の構えで領地にこもる者もいた。瓦町や毬街などがそれである。反対に、皇子の南海遠征の時代から懇意にしている網代あせびは、今上帝のもとへいちばんに祝いに参じた。
「女官たちがそこかしこで噂していますよ。あせび殿はたいした男ぶりだって。黒海が少々きな臭いと聞きましたが、ちがったのかな」
「ふん、相変わらず耳が早いな、漱殿」
並んで歩くあせびは広い肩をすくめる。
宮中につとめる叔母に挨拶をした帰り、偶然同様に参内していたあせびに行きあった。あせびは今日は黒の直衣に、南海風の朱色の単をあわせるという粋な出で立ちである。よく日に焼けた大男であるので、歩く姿には貫禄がある。対する――不本意ながら仕えている領主と同じく「地味」と評されることの多い漱は百人いればたちまち紛れるだろう直衣姿だ。漱は苦笑した。
「南海と取引する商人にツテがあるんです。何でも黒海が都への上納金をしぶって湊のひとつを封鎖したらしいと」
「あいつら、今上帝が新たな航路を開いたせいで、自分らの取り分が減ったと騒いでやがる。先年は衣川の氾濫で、例年とは別の徴収もあったしな」
かねてより南海は、漱の出身である瓦町や葛ヶ原に比べ、火種の多い地域ではある。網代あせびが海の民の妻――淡(タン)を娶って、十数年ほど。網代家と海の民との間には五十年以上に渡って戦が続いていたため、禍根は未だに深い。つい六年前にも海の民の一部が反乱を起こして、あせびがこれをおさめた。あのときは確か、朱鷺殿下を筆頭にして都からも援軍が出されたはずだった。
厄介な領地をまとめる手腕を買われ、あせびは都の警備を司る検察使の職にも就いている。
「まあ、問題はねえ。今は『しかるべき御方』に事に当たってもらっている」
「しかるべき?」
「さる風の名のな」
あせびのいわんとするところを察した漱は「それは心強い」と微笑んだ。
「漱殿は、しばらく都に滞在されるのか?」
「いいえ、明後日の船で戻ります。春には雪瀬様のご結婚がありますしね」
「それはめでたい。あの小さいお嬢ちゃんだろ?」
得意げに言ったあせびに、漱はおやという顔つきになる。
「桜さんに会ったことが?」
「ああ。いつだったっけな。そう、海砂(ミシャ)がまだ乳飲み子だった頃だ。あのお嬢ちゃんに確か餅を焼いて食わせたんだよ。子どもみたいに泣いている子だったが、橘殿の妻か。わかんねえなあ」
「わたしもこの速さは予想しませんでしたよ」
「ふん、淡が喜んでたぜ」
淡とは、あせびの年の離れた細君である。こちらも桜とは親交があるようで、あせびは人懐こい顔をくしゃりとさせて、闊達に笑った。
この婚姻、何かと色めいた噂ばかりが先んじたが、その実、領主たちがうかがっていたのは一点だろうと漱は考えている。つまり、葛ヶ原領主が表向きは波風を立てず、長老たちに婚姻を認めさせたことである。言いかえれば、それは内側の勢力を雪瀬がおおかた掌握しつつある葛ヶ原情勢を示している。前年に、雪瀬が蜷の頭領アランガと対話を持ったことからも見て取れた。葛ヶ原領主たる橘雪瀬は、内から外へと目を向け始めている。
思えば君もずいぶん遠くまで来てしまったもんですね弟くん、と漱は胸中で呟いた。墓石の前でたたずんでいるしかなかった少年と対峙したのは、もはや五年も前のことだ。
『都に、のぼりたいの?』
『のぼるよ』
尋ねた漱に、当時丞相補だった月詠を見つめて雪瀬は言った。
まだ領主として立ったばかりの十六の頃だった。
『――あの男に奪われたモン、ぜんぶ取り返しに』
あのときの痩せた子どもの背中に問うてみたい。
あなたは「奪われたモン」をいくつ取り返せましたかと。
「月よ。月。こちらにおいで」
うららかな冬の陽射しにふと猫なで声が響いた。桔梗殿の透垣越しに、まだ立つこともままならぬ幼子を大事そうに抱え上げる桔梗院の姿が見えた。いくつも重ねた衣で幼子を抱き込むと、まるくいとけない頬に頬擦りをする。
「ふふ……月は可愛いのう。百姫にそっくりじゃ」
桔梗院の死んだ妹姫は、母方の血筋が白雨で、その縁もあって白雨一族に降嫁したのだという。もう三十年以上前の話だ。月皇子が桔梗院の子どもである以上、妹姫に似ているというのも道理であるが――、背筋にひやりと冷たいものが伝った気がして、漱は眉根を寄せた。うかがうと、あせびもまた、苦虫を噛み潰したような顔をしている。
ひととせ祝いは近年稀に見る盛大なものだった。
桔梗院の皇子への溺愛が、漱には空恐ろしく感じられる。
そして確かに、その予感は的中していたのだった。
衣紋掛けにかかった花嫁衣装を桜は見上げた。
葛ヶ原の織女がいちばんの絹糸で織り上げた白打掛は、さやかな光を内に湛えている。少し開いた障子戸からはらはらと薄紅の花びらが舞い降りて、陽のあたった畳の上や、白糸で花鳥の刺繍が細やかにほどこされた打掛の肩に落ちる。触れるのもためらってしまうくらいに美しくて、桜は畳に座り込んだまま息を詰め、打掛を仰いでいた。
「桜さま」
どれくらいそのようにしていただろう。ためらいがちに呼びかける声に気付いて、桜は視線を解いた。襖を開いた五條の妹君は桜と打掛とを見比べ、苦笑する。
「ご準備の時間ですよ」
四月のはじめのことだった。
満開の花が咲き乱れる葛ヶ原に、嫁入り行列が立った。生家の代わりに、鎮守の森への送迎をつとめた五條家からの出立だった。森の社での七日のおこもりを終えた花嫁は、禊ぎののち、白無垢に身を包んだ。
その日は、雲ひとつない晴天で、傘もちの少年が掲げる朱色の傘が花のそよめく空によく映えた。その下を、花嫁は歩く。歩を踏むたびに、胸から提げた懐刀袋の守り鈴がちりりと澄んだ音を立て、ましろの綿帽子には花影が落つる。
どんなものかと見物に訪れた者たちも、このときばかりは息をひそめて、美しい花嫁にぼうと魅入った。さながら咲き初めの花そのもののような花嫁だった、とのちにひとびとは語った。