不意に柔らかな風が頬を撫ぜた気がして、颯音(さおと)は顔を上げた。睦月の南海の陽射しは早くも春の様相を帯びている。熊菱船の甲板から外を臨むと、なまぬるい潮のにおいをたっぷり含んだ風が押し寄せた。嗅ぎ慣れた南海の風のにおいだ。
船は黒海の波田泊(はだどまり)へと向かっている。黒海領にある砂泊を出たのが半刻前。今の風向きだと、波田泊まではまだ一刻以上かかるだろう。舐めた指先をかざして風の動きを追っていると、「おい、新入り!」と頭上から怒声が降った。
「ぼさっとしてねえで、そこの荷を中へ運べ!」
はあ、と覇気のない返事をした颯音に対して、日によく焼けた大男は荒っぽく縄を投げて寄越す。かなりの重量になる縄を担ぎ直し、颯音は船内に続く板戸を開いた。梯子を使って、揺れる船内を降りていく。以前は颯音も船上が不得手だったが、しばらく南海で暮らすうちに慣れた。髪や膚も日に焼けて、言葉のちょっとした音や使い方もその土地に合わせる術を学んだため、今や颯音が東の者であるとすぐに見分けられる者はそうはいない。
「アカツキ」
颯音を見つけた船子がすれちがいざまに呼び止めた。
「外の様子はどうだ?」
「追い風ですね。予定どおり波田泊に着くと思います」
もともと大きい船ではない上、今は物資が通常の積載を超えて積み込まれているため、船内は狭い。颯音は船子が角を曲がったのを肩越しに確認すると、並んだ樽を動かして、隠されていた扉を押した。暗がりに向けて、手燭をかざす。埃と黴のにおいが鼻腔をくすぐり、奥のほうからくすん、くすん、としゃくりあげる子どもの泣き声が聞こえた。蜘蛛の巣が張った階段を注意深く降りる。数多の積み荷に囲まれて、ふたつの影が見えた。妙齢の女性と少女がひとり。どちらも後ろ手に麻縄で縛られている。
誘拐船であった。
女の名前は、淡(タン)。少女は海砂(ミシャ)。
南海の王網代あせびの細君と娘である。
時間は少々遡る。
網代あせびが新年の儀にあわせて都へのぼっていた折、南海の関所では、背の高い砦を挟んで、南海と黒海、両者の睨み合いが続いていた。もう十日になる。南海に従っていた三海のうちのひとつ、黒海の地方役人が、都への負担金とあせびの細君の淡、そして娘の海砂を誘拐して逃走したためである。すぐさま南海は地方役人の拘束を求めたが、黒海は証拠が見当たらないと言って、これを拒んだ。
南の地は、黒海、白海、青海に、これらをまとめ上げる南海を合わせて、南海連合と呼ばれ、かつて南海の王が三海を平定した頃から、その関係は続いていた。とはいえ、気性が荒い海の男たちの集まりである。これまでも、三海の一部が南海に牙を剥くことはあった。こたびも同様。もともと、今上帝と個人的な縁で覚えめでたい網代あせびと、それを快く思わない黒海は内に火種を抱えていたが、昨夏の洪水で今上帝が地方にも一律に負担を課すと、黒海の一部の不満が爆発した。
負担金は、南海連合の長であるあせびが集めて、都に運ぶ。これに目をつけた黒海の役人が海賊と手を組んで湊近くの蔵を襲撃し、おさめられていた負担金を奪った。このとき、近くの施設を訪問していた淡と海砂も巻き添えを食らってしまった。偶然か、計画の上かはまだわからない。しかし、近くふたりを餌に何がしかの要求があることは想像がつく。
『正直、なんとか丸くおさめてえところではある』
一年ほど都に潜伏していた颯音は、ちょうどそのとき都の網代邸にいた。淡と海砂の誘拐と負担金の強奪の報を受けたあせびは、南海の兵を領地境の湊に向かわせると同時に、内密に颯音を呼んだ。思ったよりもあせびは落ち着いていたが、その横顔には疲労の色が浮かんでいる。
『今上帝が即位なされてほどない。この時期に南海が内輪ごとで揉めるっていうのは外聞がよくねえ』
『淡様と海砂様の行方は?』
『南海の兵が後続の補給船だけは落とした。肝心の本船は見失っちまったが……。おそらく一度、補給のために湊に寄るはずだ。あのあたりだと、黒海領の砂泊だな』
あせびは海図入りの地図を颯音に示して言った。負担金の強奪から半日。おおかたの情報はつかんでいるらしい。先ほどあせびは、丸くおさめたい、と言った。黒海の海賊程度ならば、本気でかかればやすやす抑えられるというあせびなりの自信だ。しかし黒海の協力が得られない中で多数の兵を動かせば、近隣領地に南海の騒乱を伝えることにもなってしまう。それは南海の王の支配力が弱まっている印象を内外に与える。あせびが案じているのはその点だった。
『馬を二頭お借りできますか。できれば、足が速くて、体力があるものを。それと腕利きの者を五名ほど』
あせびの説明をひととおり聞き終えると、颯音は言った。いささか驚いた様子であせびは眉を開いたが、すぐにそれを苦笑に変える。
『話が早くて助かる。颯音殿』
『それから、連絡用にあせび様ご自慢の鷹をお借りしてもよろしいですか』
『すぐに寄越そう』
うなずき、颯音は席を立った。近くに控えていた小姓の少年がさっと襖を開く。
『……すまねえな』
その声は背後からぽつりと落ちた。
振り返ると、明かりのそばでいつもより深く背を折ったあせびの姿が見えた。
『あなたは弟殿の祝言にすら出られないっていうのに』
似合わぬ感傷を滲ませた海の王に、颯音は肩をすくめて苦笑する。
『もう兄が必要な歳でもありませんよ』
手早く荷造りを済ませると、颯音はその晩透一とともに砂泊に発った。休むことなく馬を走らせて、明け方湊にたどりつく。そこで黒海に散っていた南海方の間諜と落ち合った。過去の代に何度か裏切りに遭ってきたあせびは抜け目なく、三海には常に南海方の間諜を置いて目を光らせている。負担金の強奪と淡と海砂の誘拐は、あせびが今上帝の即位礼に気を取られていた隙に起きた事件だった。
颯音が尋ねると、間諜は泊に停泊している船のひとつを指した。あの中に負担金と淡たちがいるのだという。ただ、忍び込もうにも、男たちが隙なくうかがっているせいで、一筋縄ではいかなそうだ。加えて、三海分の負担金ともなれば、櫃が数十にも及ぶ。仮に中へ入り込めたとしても、持ち出しているうちに気付かれるに違いない。
そこで、船を動かす船子のほうに目を付けた。近くの酒場で飲んだくれた海賊らに話を振ると、常時人員不足であるのも相まって、簡単に颯音たちを雇った。颯音は諸国を回る際、時に船子として雇われ働くこともあったから、扱いは慣れたものである。翌朝、颯音たちを乗せた船は砂泊を発ち、今、波田泊へ向かっている。
「……もしかして、雪瀬さま?」
赤く目を腫らして泣いていた少女がこちらを見上げて瞬きをした。
しかしその目はすぐに別の恐怖を映して見開かれる。
「何をしている」
先ほど縄を投げて寄越した海賊だった。震え始めた海砂と不安げな淡を背にやって、颯音は床に置いた縄を降りてきた男のほうへ示す。
「すいません。荷を運んでいたら、迷ってしまって」
「はあ? どこをどう歩いたらこんなところにたどりつくんだ。まさかおまえ――」
そのあとの颯音の動きはすばやかった。腰に佩いていた短刀の柄頭で男のみぞおちを打ち、男が煩悶して膝を崩す間に背後へ回って手刀を入れる。まるで造作もなく、男は昏倒してくずおれた。転倒音が響かないよう男の腕を取って支え、持っていた縄で縛り上げる。あまりの手際のよさに淡と海砂はぽかんとして見上げるばかりだ。
「颯音様……ですか?」
「ええ。御無事ですか、淡様?」
縛った男を空の櫃に投げ入れ、鍵をかける。持っていた短刀で妻子の麻縄を切ると、淡は気丈に胸を張り、「大丈夫です」とうなずいた。確かに、縛られた手首以外に痣や暴行の痕はない。
「私は別所に向かいます。淡様はここから決して動かないように。そう時間はかからないと思います」
「わかりました」
「……雪瀬さまじゃあないの?」
淡に立たせられた海砂が不思議そうな顔をして颯音を仰いだ。こら、と淡が慌てて諌める。颯音は少しおかしくなって海砂の前にかがんだ。
「雪瀬を知ってるの?」
「うん。前に都に行ったとき、海砂が遊んであげたり、お手洗いに連れて行ってあげたりしたの。雪瀬さまは他の大人たちとちがって、海砂のおはなしをたくさん聞いてくれたのよ。おにいさんは雪瀬さまと似ているけれど、ちがうのね。すこし、こわいのね」
「海砂!」
あけすけな物言いに、淡が今度こそ口を塞ぐ。海砂はどうして怒られたのかわからない様子で瞬きをしている。そのかむりにそっと手のひらを置いた。
「じゃあ、また会ったら俺の代わりに雪瀬と遊んであげて?」
「うん!」
顔を綻ばせた海砂をもう一度撫ぜると、颯音はたくし上げていた袖をほどいた。
ともに忍び込んだ南海の間諜たちと落ち合い、奥の船室に向かう。中では海賊たちが酒盛りをして騒いでいた。しばらく外で待っていると、次第に声が途切れ途切れになり、何も聞こえなくなった。酒に入れた眠り薬が効いたのだろう。ふやけた顔で倒れ伏す男たちを見下ろし、颯音はやれやれと息をつく。
「だ、誰だ!?」
酒の量のせいか、まだ眠っていない者がいたらしい。重そうな瞼を押し上げて誰何する男に、「当ててみますか」と颯音は口端を上げ、短刀を抜いた。男の目に怯えが走る。
「な、南海の手の者か……?」
「いいや」
「では朝廷の……」
「とんでもない」
肩をすくめ、颯音は男の首筋に短刀を押し当てた。
「抵抗はしないほうがいい。南海の王は温厚だけど、冷酷な面もあわせもっている。おまえたちは彼の逆鱗に触れたんだ」
「お、俺たちをどうする気だ?」
「南海へ運ぶ。続きはあちらの拷問吏がたっぷり時間をかけて聞くでしょう」
男の顔が悲壮に歪む。その首を打ち昏倒させると、颯音はあたりを見渡し、意識のある者が残っていないことを確認する。颯音さん、とそこへ柔和な顔立ちをした青年が姿を現した。
「ゆきくん。終わった?」
別室で同様に役人たちを捕縛し終えたのだろう青年は思いきり顔をしかめると、「なんだかここ酒くさいですよ」と口元を覆った。