颯音にとって、それからの日々は長くもあり、短くもあった。
幸いにも雪瀬は南海や毬街の働きかけで島流しにはあわず、領主として葛ヶ原へ戻った。盛春の出来事だった。颯音はその場に立ち会うことはなかったが、のちに燕という昔子飼いにしていた男と再会した折、仔細を聞いた。
瓦町から追放された漱は、雪瀬のもとで働くことを決めたらしい。ともしたら、颯音への誠意をあの男なりに示しているのかもしれなかった。
颯音は自分のことを決して口外しないよう漱やあせびに念押しした。誰にも、橘の者にすらである。万一、朝廷の知るところとなれば、彼らに累が及ぶこととなろうし、二度と表に出ることがない人間ならば、死んだも同じだからだ。
アカツキと颯音は名乗り、透一とともに南海を出た。各地の情勢、隣地との関係、領主の才覚、人柄、果ては交易品のたぐいまで。集められた情報は、独自の経路で都の朱鷺皇子に届けられた。朱鷺は相変わらず文樹林という閑職にいたが、その一方で、自分の味方になりえる領主とひそかにやり取りを続けた。こうして数年をかけ地盤は固められた。
転機となったのは、二年前の水無月会議だ。
その半年ほど前から、颯音と透一は都入りし、燕を通じて玉津卿の配下に入り込んでいた。老帝は体調不良が続き、譲位は近いと思われたが、玉津卿が孫である四季皇子を次期帝に立てようとしていることは明らかだった。
朱鷺は玉津派の一掃に乗り出した。
調べてみると、玉津という男は噂通りの野心家で、しかも危うい綱渡りをしている部分が多かった。特に、四季皇子が病を罹患していたのは致命的だ。皇子の命は幾ばくもなかったが、窮地に陥った玉津側が仕掛けた。朱鷺皇子を除いては、唯一の正妃の実子たる皇祇の殺害未遂である。計画を先につかんだ颯音たちは、殺害を企てた護衛隊の市松を討ち、見せしめに衣川へ遺体を流した。玉津はおののいたに違いない。おかげで半年ほど動きを控えてくれたのは僥倖だった。
皇祇はしばらく朱鷺の手の者に保護されていたが、水無月会議が始まると颯音が進言し、雪瀬のもとへ移した。ひとつには、玉津の監視の目が厳しくなり、隠し切れなくなったことが挙げられる。けれど、颯音としては、ここで葛ヶ原領主に手柄を挙げさせる必要があった。
三年前の処罰で、葛ヶ原は莫大な借金を抱えた挙句、持っていた権益の大半を失い、弱体化していた。雪瀬は傾きかけた葛ヶ原を支えようと奔走していたが、限度がある。それに、領主の代替わりから三年。参内禁止を解かれた今こそが、葛ヶ原の名を回復するときだと考えた。
そのあとは、玉津卿の捕縛、殺害まで計画のとおりだ。
逐一、予想外の出来事は入ったものの、颯音はおおかたを手の上で動かし、事態を導いた。雪瀬は颯音が裏で動いていたことなど知らない。橘雪瀬という警戒心の強い領主を思いのままに動かすのはふつうなら困難にちがいないが、颯音にはそれができた。情報が筒抜けの玉津はもちろんのこと、雪瀬が何を考え、何を厭い、どうするか、颯音にはたやすく先読みすることができたのだ。雪瀬の性格なら玉津卿を殺めようとはしないに決まっているから、そのときは颯音が出て、代わりに殺害した。玉津卿に自分と透一のことを語られるのは危険だった。
『あいつは今も、おまえの帰りを信じて待っている』
目を瞑ると、脳裏に従弟の声が蘇る。
二年前、湊で一度再会し、別れたあの。
『こたえてやらないの? ――颯音』
ごめん、まだ。
こたえてやることはできない。
「淡! 海砂!! よく戻った!」
南海の王あせびは相好を崩して、数か月ぶりに屋敷に戻った妻と娘とを抱き締めた。
南海領であっても、颯音が表に出るのははばかられる。再会を喜ぶ親子の声を屋敷の外で聞き届け、板塀から背を離した。
海賊から奪った船は、船子に命じて、針路を南海へ変更させた。かくして負担金の入った櫃と淡たちは南海へ帰還を果たしたのだった。捕えた黒海の役人たち、海賊も同様だ。拷問蔵に移された彼らは、今頃事の次第をあらかた吐かせられているにちがいなかった。
「なんだかずいぶん、あっけなかったですね」
颯音の隣に並んだ透一が呟く。
確かに、と颯音も顎を引いた。
「負担金を奪って、彼らはどうするつもりだったんだろう。見えないね。武力行使に発展すれば、自分たちが負けるのはわかりきっていただろうに」
「都に対する訴えの意味もあったんでしょうか」
「さて」
うなずきながらも、直感めいたもので、颯音は今回の件に奇妙な因縁を感じていた。だから、早馬で一報がもたらされたとき、驚いたというよりは、ああ、そう来たか、とひとり唸ることになった。
黒海のみならず、青海、白海の集団離反。
事件は、負担金の強奪にあせび側の注意がそれているときに起きた。南海にある主要な湊のひとつが三海の一斉の襲撃を受けて落とされたのである。
これを端緒に始まる一連の騒乱を、南海事変とのちに呼ぶ。
幼子の泣く声がして、藍はまどろみから目を覚ました。
月(つき)だ。もうじき一年、数えで二歳を迎える皇子は、未だ立つこともままならず、乳母の腕に抱かれて、ふいん、ふいん、と弱々しく泣く。藍はそれが煩わしい。世を嘆くようなその声が、尖った神経を逆撫でする。
藍がろくに母親らしいことをしないので、乳母の鬱金は「月さま、月さま」と始終猫撫で声を出して、月を可愛がっている。鬱金は葛ヶ原によって殺害された玉津史の奥方である。前に、何故そのように我が子でもないものを可愛がるのかと尋ねたら、だって月さまは史殿に少し目元が似ているのですもの、と笑った。そのとき、ああこの女も少し頭がおかしくなったのだなと藍は悟った。
数か月前、葛ヶ原では橘雪瀬が夜伽の娘と祝言を挙げた。
多くの奇異の眼や嘲笑に混じって、美しい花嫁の話は下働きの娘たちの間で少しだけ羨望交じりに語られた。二百年前、夜伽の娘を正妃とした光明帝を持ち出して、橘雪瀬を讃える声も少なからずあった。天才風術師橘颯音の弟である雪瀬は結局のところ、兄に引き続いて民衆に好かれているのだ。五年に渡る執政で、特段大きな飢饉や失策を出していないことも大きい。
それを聞いた鬱金もまた、乙女のように楽しげだった。うふふ。うふふ。そう。美しい花嫁だったのね。橘雪瀬の花嫁は。うふふふふふ。焦点の合わない眸を弓なりに細めて、可憐にわらう。鬱金が席を立ったあと、庭に咲いていた薔薇は皆首ごと落とされ、茎だけの姿になっていた。
「ねえ、菜子(なこ)。おかしいと思わない?」
藍のかたわらで、かつて鬱姫姫の侍女をしていた菜子は、心地よさそうに日向ぼっこをしている。柔らかな髪を撫でてやると、あー、と頬を緩めてわらった。
「心を手放してしまったあなたと、狂ってしまった鬱金さま。ねえ、でも私はあなたのほうがしあわせに見えるわ」
「あー。うー」
「心を失くせば、しあわせになれるのかしら」
額にかかった髪を梳くと、くすくすくす、と心地よさげに菜子が咽喉を鳴らす。鬱金が連れて行ったのだろう。徐々に月の泣き声は小さくなった。
「姫や、姫」
代わりに起き出したのは、惰眠を貪っていたはずの老帝である。今は桔梗院を名乗るこの老人は、もうしばらく藍を藍の名で呼んでない。膝に抱き上げた藍のあわせに手を入れながらも、まったく別の妹姫の名などを呼んでいる。ほとんど義務といってよい反応を返しながら、しねばいいのに、と藍は思う。こんな醜くて、うす汚い生き物なんか、しねばいいのに。こんな醜くて汚い生き物に何度も精を注ぎ込まれたわたしも醜くて汚いからしねばいい。それで生まれた子どもも醜くて汚いから、皆しねばいい。
『咲き乱れる花の中を嫁いだのですって』
『しろい練り絹のそれはうつくしい花嫁姿で――』
声を上げながら、遠くのどこでもない場所を見つめていると、不意に悲しくて、心細くてたまらない気分になった。こぼれ落ちそうになった涙を、目を固く瞑ってこらえる。泣いたら、藍に残った最後の理性がたぶん砕ける。いっそ粉々に砕けてしまったら、菜子のように心穏やかに過ごせるのかもしれないけれど。
「百姫様に似ておりますか、わたしは」
息を殺し、藍は囁くように尋ねる。百姫というのは、老帝の血の繋がった妹姫であり、のちに北の地に嫁ぎ、月詠と鵺を生み落した母でもある。
「似ておる、とても。うりふたつじゃ」
そう言って乳房を吸う老爺の染みだらけの頭を、藍は冷ややかに見つめた。
このとき、桔梗院から離れた帝の御座所には、ひとつの報がもたらされていた。
南海網代あせびからの援軍要請。報をたずさえてきたのは、あせびの妻、淡。南海風の黒の単にきりりと真紅の帯を締めた淡は、帝の御前に額づくと、三海の離反と援軍の必要を訴えた。これに対して朱鷺が上げた名は、淡のみならず、その場にいた一堂の目を瞠らせた。