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四章、炎天(12)





「柚葉さま。いらっしゃいますか。柚葉さま!」

 声を落とした囁きが連子窓の向こうから聞こえ、柚葉は炭壺を締めていた手を止めた。夜の厨は足元に明かりをひとつ置いただけで、柚葉のほかにひとはいない。肩にかかった羽織を引き寄せると、少し背伸びをして格子に手をかける。そして目を見開いた。

「暁!? おまえ、何故……」

 丞相屋敷は、一介の渡し守が夜更けに訪ねてよい場所ではない。胡乱な眼差しを向けた柚葉に、「この屋敷はどうなっているんですか」と暁が忌々しげにごちる。

「この大きさの屋敷に対して、門衛はひとりきり。曲者が入り込み放題ではないですか」
「ご親切な忠告をどうも。お望みどおり、『曲者どの』には今すぐ引き取っていただきましょうか?」

 窓越しに印を組んだ手を掲げると、「それどころではありません!」と言い返される。暁のくせに生意気な。釈然としないものを感じたが、結局柚葉は印を解いた。青年の横顔に、切迫したものを感じ取ったからでもある。

「それで。いったい何があったというのです」
「ビワ邸に、心当たりは?」
「ビワ? 琵琶師さまのお屋敷のことでしょうか」
「わかりません。ですが、『あれ』は尋常ではなかった。今晩、必ず何かが起こります。あなたの御身にもし何かあれば……」
「私の身? おまえまさか、そのためにここまで来たのですか?」
「それは――」

 言いさして、暁はそこではじめて何かに気付いたような、妙な顔つきをした。ばつが悪そうに俯いた暁をよそに、「琵琶師さまのお屋敷」と柚葉は独語する。丞相屋敷に囲われてからも、柚葉は扇を使って都のさまざまな情報を集めていた。その中のひとつに、琵琶師邸の名が挙がっていたはずだ。

「朱鷺帝の逗留先……」

 はっと瞬きをひとつして、柚葉は暁に向き直る。

「尋常ではなかった、と言いましたね? 何を見ました? 『何』が琵琶師さまの屋敷に向かっていたと?」
「明かりを落としていたので顔はよく……。ですが、蠅を操る少女が」
「白藤」

 月詠の十人衆のひとりだ。その名を口にしたとたん、それまで点在していたさまざまな事象がひとつの形を描いて立ち上がり、柚葉は戦慄した。

「……そんな。まさか。でも、」
「柚葉さま?」

 黙して考え込んでしまった柚葉へ格子越しに暁が手を伸ばす。 
 からからから、と微かな車輪の音が夜陰に響いたのはそのときである。からからから、からから、から……。やがて丞相屋敷の前で止まった牛車の音に、柚葉は頬を歪める。

「こんなときに……。扇。いますか、扇!」

 鋭く呼びかけると、ひらりと上空から現れた白鷺が窓の桟に留まった。

「なんだ、柚。こんな夜更けに」
「火急の用事です。兄さまに――、いいえ、兄さまでは間に合わない。蝶姫付の橘真砂に取り次いで、至急、琵琶師邸にひとを向かわせてください。帝が――」

 中途で柚葉は言葉を切った。背後に立つひとの気配を感じたためだ。

「帝がどうした?」
「……月詠」

 ひゅん、と唸りを上げて投擲された小刀が扇の翼を射抜く。低い呻き声を上げて、白い肢体が窓の外へ落下した。悲鳴を上げそうになるのを柚葉はかろうじてこらえた。外にはまだ……暁がいる。この暗がりでは、月詠は気付いていないはずだ。そして、柚葉が己に注意を引けば。暁を逃すことができる。

「おまえしかいないんですよ」

 独白めいた呟きを漏らし、柚葉は窓を背にして月詠に向き直った。

「次裏切ったら、ころしてやる」

 さっと何かが離れる気配を柚葉は壁越しに感じた。呼吸を整え、印をすばやく切る。もうこの男と夫婦ごっこを続ける必要はなかった。だが、月詠の動きがわずかに速い。足元に生じた風が立ち上がる前に、薙いだ刀の鞘で腹を殴られた。三和土に転ばされる。なおも印を組もうとした柚葉の右手に、月詠は鞘ごと刀を叩きつけた。骨が砕ける音がして、悲鳴がほとばしる。

「ひとの周辺を嗅ぎ回るなら、もっとうまくやるんだな。橘柚葉」

 乱れた濃茶の髪を引き上げて、月詠は言った。口内に鉄錆めいた血の味が広がる。切れた唇を噛んで、柚葉は月詠を睨み据えた。苦痛に歪む顔を見せるのは屈辱だった。視線でひとを射殺せるなら今すぐそうしてやりたいと怒りに震えながら思う。

「琵琶師邸には今、杜姫の墓参りのために、朱鷺帝が滞在している」
「さあ、どうだったかな」
「あなたは何を企てているのです、月詠」

 気付いて、しまった。黒鳥居の密談。調査のために、南海の地へ発つ検察使。都の兵は、野盗騒ぎで霧井湊と蕨野に向かった。この都に――。今、朱鷺が動かせる兵はとても少ない。

「おまえは聡いな。橘柚葉。さまざま見えすぎてしまう」

 髪を離された代わりに、頬にあてがわれたのは男の痩せた手のひらだった。細い指先が蒼褪めた膚を少し擦る。ときどき不思議なくらいいとおしむような仕草を月詠はする。奪っていくのに。暴力でもって、柚葉を跪かせるのに。それと反対の仕草を、月詠は戯れに見せるのだ。

「俺が何故おまえを所望したか、わかるか」
「にいさまへの、ひとじち」
「風の加護が欲しかったからだ」

 それはたぶん嘘だろう。
 柚葉は喉奥で低く嗤う。そんなあやふやなものに、この男は流されない。そのような幻想など持ち合わせてはいない。だけど時折、確かな感情めいたものをこの男に見出すことがあったから。眸の奥に淡くかゆらぐ何かを感じることがあったから。――それすらもすべて、まがいごとであるから。
 自由が利く左手で背後を探り、腰を上げようとした月詠に炭壺を投げつける。陶器が割れる乾いた音がした。散らばった炭のせいで衣の裾がわずかに焦げ、月詠は眉根を寄せる。

「行かせませんよ、まだ」

 折れた指で無理やり印を組む。燻る煙を巻き上げて、風が吹きすさんだ。





 蔀戸を揺らす不穏な風音に、朱鷺は目を覚ました。
 夜具から半身を起こして、乱れた前髪をかき上げる。あたりはまだ暗く、一番鶏の気配もない。妙な時刻に起きてしまった、と苦笑し、再び横になろうとしたが、頭は冴えきっていた。

「……まあ、よいか」

 首をすくめて、薄い羽織だけをかけ、外に出る。「どうかなさいましたか」と夜番の少年が腰を浮かせたが、それを手で制して、朱鷺は欄干の前に立った。白い息を吐きながら、星の輝く夜天を見上げる。築地塀の向こうに、ゆらりとうごめく光源を見つけたのはそのときだ。

「陛下!」

 間をおかず、別の侍従が切羽詰まった顔で外廊を駆けてくる。そこには数名の守兵のほか、朱鷺にとっては見知らぬ青年――暁の姿もあった。
 柚葉が月詠と対峙した隙に、丞相屋敷を逃れた暁と扇は、行動を別にしていた。扇は姫宮御殿で宿直をしているはずの真砂への連絡。暁は直接、この危機を報せに琵琶師邸へ向かった。だが、屋敷の守兵に捕えられ、事情を説明している短い時間に、琵琶師邸を無数の明かりが取り囲んだ。

「何があった。あれらは何の騒ぎじゃ」
「おそらく月詠の手の者です」

 答えたのは青年、暁だった。

「そなたは?」
「暁、と申します。都で渡し守をしておりますが、ゆえあって、今は橘柚葉さまの命でここへ」
「ふうむ、橘のか」

 アカツキ、という名には聞き覚えがあった。確か颯音が隠密で行動をするときにそう名乗っていたはずだ。正確なところを察することはできなかったが、奇妙な符号の一致に、橘と関わりがある者なのはまことらしい、と朱鷺は察する。それに、暁の表情は真剣そのもので、とても嘘を吐いているようにも見えなかったのだ。

「それで、橘の妹姫はなんと?」
「話しているさなかに丞相・月詠が現れてしまったので……。ただ、琵琶師邸に至急兵を向かわせるようにと柚葉さまは仰っていました。今、扇という白鷺が宮中にそれを伝えています」
「なるほど」

 腕を組み、朱鷺は一度思案にふけるべくその場にあぐらをかいた。開門の問答を重ねていた正門の守兵から報告が入り、相手はやはり月詠の十人衆を名乗り、火急の件にて帝の御座所をよそへ移したい、と申し出たという。

「屋敷をぐるりと兵で囲んで、御座所移し、のう」

 言葉こそ忠臣を装っているが、実際は武力による脅しに近い。逃れられない数の兵で包囲しておきながら、しかしすぐに矢を射てこないのは、さすが狡猾なあの男らしい。先んじて攻撃を仕掛ける愚は犯さない。とはいえ、こちらが応戦すれば、「帝の御座所移りを阻んだ」として守兵のほうが殺されかねない。
 朱鷺は手入れの行き届いた庭を見渡した。

「井戸は」

 と尋ねる。短い言葉から察した侍従がすぐに兵を動かした。高位の貴族の屋敷となれば、たいてい有事のために外への逃げ道を確保してある。そういうものは井戸や祠を模していることが多い。兵にそれを探させるかたわら、朱鷺は「移り先はどこであるか」と外の兵に尋ねてくるよう命じた。

「遠いところは嫌じゃ。あと腰痛のせいで、うまく歩けない」
「と伝えるのですか」
「と伝えるのだ」

 すっくと立ちながら朱鷺は平然とそう抜かした。もしも暁の言うとおり、宮中にすでに連絡が入っているのだとすれば、しばし時間を稼ぐ必要がある。外の兵へ朱鷺の言葉を伝えた兵がまた戻ってきた。

「さあれば、輿の用意があると」
「輿は酔うゆえ、嫌じゃ」
「と伝えるのですね」

 心得た様子で兵が正門へ戻っていく。それと入れ違いに「井戸」を探していた兵が悲壮な顔をして膝をついた。

「ありましたが……、すでに埋められております!」
「なんだと?」
「屋敷のばばに聞いたところ、古井戸ゆえ、琵琶師の姫君が一年前に埋めてしまったと……」
「なんと『手入れ好きな』姫君よ」

 生前のまま整えられた美しい庭を見渡し、朱鷺は息をついた。正門で悲鳴が上がったのは直後である。屋敷内に動揺が走る。何事じゃ、と尋ねれば、先ほど自分の言葉を伝えに行かせた兵が斬られたという。

「『火急の用と申したはず。そなたは帝の御身を危険にさらすつもりか』」

 外の兵が投げ放ったらしい言葉を伝えられ、朱鷺は顔をしかめた。これはもう、門を破られるのも時間の問題だ。血のついた衣をまくってひれ伏す兵を眺め、油断をしていた、と舌打ちする。黒鳥居の密談の真偽に気を取られ、これはあせびを葬り去るための月詠の画策だろうと、その調査を優先させてしまった。私的な墓参りゆえ、最低限の兵しか連れてこなかったのもまずかった。

「それとも、よもやすべてあやつの筋書きであったか……?」

 皇太子という身の上ゆえ、これまで命の危機には何度もあった。暗殺未遂、毒殺未遂も数知れず。それでもぎりぎり、運のよさで切り抜けてきたが――。いまだ静かな夜天を睨み、朱鷺はひとつ息を吐き出した。上着を持ってくるよう小姓に頼み、きざはしを下りる。

「開門せよ」
 
 命じると、侍従の顔が強張った。

「しかし」
「無為に血が流れるのは見たくない。手詰まりじゃ。……いったんな。開門せよ」

 かくして宮中からの兵を待たず、琵琶師邸の正門は開かれた。




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