黒鳥居の密談の件いまだ解決にいたらず、帝の御身に危険ありとの由。
朱鷺帝の「御座所移り」は、かような命をもって丞相の手によりなされた。当時、朱鷺が連れていた兵は、護衛のための数十。琵琶師邸を囲まれてしまえば、わけもなかった。
朱鷺が移ったのは、都からいくつかの山を隔てた亀澤帝領だった。かつて遷都を唱えた亀澤帝がその場所に選んだ地で、天領でこそあったが、三方を山に囲まれた悪所である。残る一方は、丞相の側近である嵯峨の兵が塞いだ。御座所移りとは名ばかりの軟禁である。
当面空座となった御座に代わりについたのは、まだ幼い皇太子・月だった。その月の命をもって、十日後。朱鷺帝の退位が決まる。次の帝として立てられたのは無論、皇太子の月である。すべては「御座所移り」した朱鷺を差し置き、決せられた。
新帝に月の即位が決まったその日、御座に幼い皇子を置いた月詠は、遥かなる高みから額づく百官を眺めていた。――月を次の帝に。死の間際、先の老帝に約したことを月詠はそのとおり果たしたのである。そして、あとひとつ。
月がこの忌まわしきすめらの最後の帝になる。
それもまもなく叶おう。
『あいしているよ、月』
固く俯いて震えている皇子から離れ、月詠は平らかに広がる世界を見渡した。鄙びた島国の、ここが高み。
この地のもっとも高き場所。果て。
『たとえあなたがどんな姿になっても』
目を伏せて、月詠は薄く口端を上げる。
思ったとおりだった。
思ったとおりだった、と笑い出したくなる。
なにも、なかった。
なにも。
なにひとつ。
実に空虚で色彩のない世界がそこに広がるばかりであった。
このとき丞相月詠、三十八歳。
すべての権勢を手にし、頂へとのぼりつめた男は目を閉じる。滅びの予兆めいた、それはどこかやわいわらい方だった。
退位の決まった朱鷺帝に代わって、月皇子の名において最初に出された命令は、朱鷺派の粛清。多くの者が投獄者に名を連ね、そこには幾人かの地方領主も含まれた。さらに上級官吏の大量解雇。市と湊の封鎖。老帝の時代すら凌駕する悪令が次々発せられた。
混乱が広がり始めていた。
南海へ向かっていた雪瀬のもとへその報せが届いたのは、三月のはじめ。帝の御座所移りと退位、皇太子である月皇子の即位の決定。一連の出来事は、雪瀬が都を離れたたった十日のうちに始まり、終わった。
「月皇子の即位は、四か月後に行われるそうです。蝶姫は大内裏の外、万葉山麓の別邸に軟禁。桜さまはまだ姫宮御殿に残っておられるようですが……」
「……そう」
南海にほど近い湊の宿から、荒れた海を眺めながら雪瀬は息をつく。
蝶姫の側仕えとして宮中に上がっている以上、桜の任もいつ解けるかわからない状態だ。宮中から下がるように使いを送っておいたが、この混乱のなか、果たして彼女に届いただろうか。こういうときに頼りになる扇と交信が取れないのも気にかかっていた。柚葉についてもしかりだ。
「一度都に戻られますか」
「どうしたもんかな」
呟きつつ、雪瀬は都の丞相宛に南海での調査を続けるべきかをおもねる書状を準備させる。状況はめまぐるしく動いており、今はそれを見極める時間が欲しかった。
「雪瀬さま!」
思案をしていた雪瀬の前で、すぱんと障子が開かれた。危うく滑って転びかけた竹は、その勢いのまま雪瀬の前へとまろび出る。
「竹。まだ話が途中――」
「蕪木透一と名乗っています」
軽く目を瞠った雪瀬に、竹はさらに言葉を続ける。
「僕もお顔を拝見しました。透一さまです。透一さまが戻られたんですよ、雪瀬さま!!」
その客人は、いくつかの所定の確認を受けたあと、雪瀬の部屋へと通された。額づいた青年を雪瀬は静かに見つめる。十年だ。颯音を失ったあの日から、十年に及ぶ年月が経とうとしていた。
「お久しぶりです、『雪瀬さま』」
「――前に一度会っただろう」
雪瀬はぽつりと口にする。
目を合わせると、青年の顔には十年分の歳月が感じ取れた。昔は童顔と呼べる顔立ちだったのが、今は顎も尖って、涼しげな印象の青年へ転じている。愛嬌のある灰色の眸だけが変わらなかった。ごめんね、とこの声に詫びられたことがある。雪瀬、ごめんねと。
「玉津卿の屋敷で。あれはゆきでしょう」
「よく覚えておいでで。あの場所には、僕と颯音さんがいた」
さらりと重いことを透一は口にした。人払いはしていたが、護衛は少し残してある。透一は颯音の生存を葛ヶ原領主に明言したのだ。以前漱からそのことについては聞いていたが、やっぱり動揺は隠せなかった。
「……兄は、いま、どこに?」
「その前にあなたにおはなししたいことがある。丞相月詠が起こした一連の事件については、当然聞き及びですね」
「月皇子の即位が決まったと聞いた」
「月詠はこれまで朱鷺帝に肩入れしてきた者に対する制裁を決めたようです。今はまだ名前が挙がっていないようだけど、場合によってはあなたの御身にも」
自分へ向けられた冷ややかな灰色の眼差しに気付いたとき、雪瀬は透一がいわんとすることを予感した。幼い頃から付き合った、年の近い兄とも呼べる存在に対する予感かもしれなかった。かたわらに控えていた千鳥が腰を浮かせる。透一がさらに一歩前へ進み出たためだ。雪瀬は手ぶりひとつで、千鳥を制止する。
「僕は颯音さんからの伝言をきみに届けに来た。『雪瀬』」
片方の窓障子が開けられた部屋へ、ふいに外から風が吹き抜けた。髪をかき乱し、それは雪瀬の身体をさらっていく。
「時は来た」
その声は、別の人間の響きをもって耳に届く。
「葛ヶ原領主、橘雪瀬。おまえに、丞相月詠は討てるか?」
黙して、雪瀬は眸を眇めた。
――のちに炎天の乱と呼ぶ。
夏の盛りに起こった乱の、その端緒が開かれようとしていた。
【四章、了】