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五章、乱(1)




 遠方の山から細い煙がたなびいている。
 集めた骸を燃す煙だ。盥を小脇に抱えて若宮御殿の外廊を歩いていた桜は、夕空にかゆらぐ煙をひととき見つめ、目を伏せた。骸を燃やすときに生じる煙は近頃、朝夕を問わずしばしば上がっている。急進的に朱鷺を退位へ追い込んだ丞相・月詠は、反発する官吏を次々粛清していった。伴い、矢継ぎ早に発せられる悪法の数々。朱鷺帝が時間をかけて復興したはずの都は見る間に荒廃した。
 朱鷺派の公家衆は、月の即位が決まるや宮中から一掃された。それはこの若宮御殿とて例外ではなく――。
 人気がなくなった宮中に、雨音が響いている。
 桜は盥を抱え直すと、褪せた板敷の上を歩き出した。

「月殿下」

 仕切られた几帳から中をのぞく。幼い皇子は褥の上に力なく横たわって、胸を上下させていた。かたわらにかがんで額に触れると、まだ熱い。桜は手巾を冷たい水にさらして、額に置き直した。冷たさが心地よかったのか、きつく寄せられていた眉根が少し緩む。
 即位が決まったあとのせわしなさからか、月は少し前から体調を崩すことが増えた。それでもあんまり熱が引かないから、不安になってしまう。ゆえ、御殿医のゆるしを得て、ときどき桜がそばに侍っている。

『機をうかがって宮中から下がれとのことだ』

 朱鷺帝の「御座所移り」があったあと、一度橘の屋敷に戻った際、無名は桜に雪瀬からの言伝をそう告げた。朱鷺の弟妹である皇祇や蝶は、都の郊外に軟禁状態にあった。蝶の側仕えだった桜が若宮御殿に残ってしまったのは、だからまったくの偶然である。朱鷺帝の御座所移りがあったその日、桜は蝶の遣いで湊のほうに出ていた。混乱の中、蝶と合流することができず、結果としてひとり若宮御殿に残ってしまったのだった。
 とはいえ、この状態も時間の問題だろう。雪瀬は朱鷺派の中心ではなかったが、どちらかというと、朱鷺の陣営に立って動くことが多かった。桜が月のそばに侍ることを丞相側の人間はよしとしない。

『これ以上、宮中にいるのは危険だ。わかるだろう』

 状況を理解しつつも、すぐに返事をしなかった桜に無名は言い募った。肩をつかむ男の手の強さが増す。

『雪瀬をあまり心配させるな』
『……うん』

 俯きがちになった桜の頭をぞんざいに撫ぜて、無名はもしものときの連絡方法を伝えた。そのときに聞いたが、この混乱の中で扇や柚葉との連絡もつかなくなっているらしい。そして何故か姫宮御殿にいたはずの真砂とも。

『いいな。折を見て、月皇子に申し出るんだ』

 無名の言葉を思い出して、桜は小さく息をつく。

「ん……」

 寝苦しかったのか、月がきゅうと眉根を寄せた。年相応のあどけなさに、桜は苦笑する。寝衣の合わせに指をかけたとき、少しだけためらった。けれど結局、温めた布で汗を拭き、また夜着をかけ直す。御簾の向こうから染み入るように雨音が響く。

「梅雨が明けたら、もうすぐ夏ですね」

 ひとり呟き、痩せた背中に手を回した。とん、とん、と弾みをつけて叩く。心音と同じくらいの速度。繰り返していると、いつの間にか桜自身もうつらうつらしてしまって浅い夢の瀬に沈む。
 白景。遠い、遠い記憶だ。
 桜は誰か大きなひとのうちに抱かれている。そこはとても暖かくて、絶対の安堵を桜に与えてくれた。雪瀬とおなじ。だけど、もっともっと穏やかで、静かな。さくらがいいな、と遠くで誰かが言った。遠くだけれど、とても近い場所。そのひとが満たされて、深い幸福を感じているのが桜にも伝わってくる。だからとても心が安らいだ。あたたかな、原初の海。――わたしたちの子はね、つき。彼女が、言った。きっと、春のにおいのする可愛いおんなのこだ。あなたの子だからきっと、心のやさしい子になるよ。ねえ、だから、つき――。
 もういない。
 はぐれてしまった。
 あなたたちはいったいどこにいるんだろう。
 
「うー。あー」

 弱い力で肩を揺さぶられ、桜は目を開く。気付くと、かたわらに月が座っていた。前髪越しで表情はよくわからなかったけれど、じっと桜を見つめている。

「お熱は下がりましたか」

 淡い夢の残滓は、手のうちからたやすく滑り落ちる。桜は月の前髪をかき上げて額に触れた。体調が悪いせいか、いつものような激しい抵抗はせず、月は目を瞑ってなされるがままになっている。熱は確かに引いているようだった。

「おなかはすいていませんか。誰かを呼んできましょうか」

 乱れた寝衣を直しながら尋ねる。月は膝元に視線を落としたまま、黙っていた。衿を合わせて上着を取ろうとすると、袖端を小さな手がつかむ。唇は固く結ばれたまま、一言も発せられることがないのに、月が思っていることや感じていることが桜には不思議と察せられた。

「だいじょうぶですよ」

 微笑んで、袖端を握っていた手と手を繋ぐ。

「ここにいますから」

 ともに過ごすにつれ、はっきりわかったことがある。けもの、とたとえられるこの皇子にはされど、きちんとひとの心がある。すぐには見えづらいけれど、奥のほうに確かに息づく心が。
 ……こまって、しまった。桜は宮中を辞すつもりで、そのゆるしを得るために、月のもとへ足を運んだのに。皇子を放り出すことが、まだできそうにない。ほんとうに、こまってしまった。微苦笑をこぼすと、自分を見上げる緋色の眸がぱたぱたと瞬きをして、それから内側から光が透け出すかのように淡くまろんだ。月下でまどろむ梔子のように。





 月を寝かしつける頃には、日はすっかり落ちていた。
 桜はぽつぽつと釣燈籠の灯った渡廊を歩く。降り続ける長雨はいまだやみそうにない。湿った板敷を鳴らす、わずかにこもった足音に気付いて、桜は顔を上げた。一瞬目を瞠らせたあと、それをすっと眇める。

「……月詠」

 夏に向かう季節であるのに、常と変わらぬ黒衣を纏った男が差し向かいに立っていた。こちらには先に気付いていたのだろうか、向けられた視線に温度はなく、胸のうちを読み取ることはできない。この先にあるのは月の居室である。月詠の目的がそちらにあろうことは容易に察せられた。

「殿下は眠っているよ」

 だから放っておいてあげてほしい、という思いをこめて言うと、月詠は「そうか」とだけうなずいた。引き返す気配はない。所在なくたたずむ桜の横を月詠が通り過ぎる。そのままあまりにもあっけなく、過ぎ去ってしまおうとする。

「あなたはどこへ向かっているの、月詠」

 耐え切れず、桜は言った。それでも月詠は立ち止まらなかったが、代わりに桜が振り返った。翻った黒衣の袖端をつかむ。月詠は左右異なる眼差しを冷ややかに桜に向けた。

「月に用があるだけだ。おまえに許しを得る必要があったか?」
「そういう話をしているんじゃない。あなたは……」

 日ごと発せられる悪法に、官吏の大量解雇、市と湊の封鎖。宮中にいてなお、桜の耳にも丞相・月詠の悪評は届いた。傾いた国をさながら壊そうとしているみたいだと。
 まとまらない言葉を飲み下し、桜は月詠に向き合った。

「老帝のもとでできなかったことを、月殿下のもとでやり遂げようとしているの?」
「――あれの性別に気付いたのはよくやった。が、いかんせん、機を逸したな」

 桜が尋ねたのとまったく別の話を月詠はした。
 月殿下は皇女ではないか――。柚葉に打ち明けた疑惑を、桜は先ほど確かめた。月の身体の汗を拭う際に。良くも悪くも、この混乱のさなか、月付の侍女が外すことが増えたために確かめられたのだった。だが、すでに機を逸したと月詠は言う。

「殿下のこと、みとめるんだね」
「だが、糾弾するべき公家衆も領主もすでにいない。東の領主がひとり騒いだくらい、些細なこと。即位礼はつつがなく行われる」
「……そのあとは?」

 尋ねた桜に、つと月詠は互い違いの眸を眇める。

「そのあと、あなたはどうするの?」

 久方ぶりに向き合った男は、桜がともに暮らしていたときよりもさらに痩せ細っていた。蒼白を通り越してどこか透明ですらある膚色は、羽化したての蝉の翅にも似て。どうしてだろう。月詠は。どんどんと希薄になっていく。つかんでいなければ、今にも消えてしまいそうだった。
 予感が、する。この男はもうすぐ桜の前から消える。えいえんに、消える。そういう予感が振り払えないのだ。張りつめた表情で唇を噛んだ桜に、月詠は低く咽喉を鳴らして嗤った。

「聞いてどうする」

 伸ばされた手が桜の首筋に触れる。艶めいたというよりは、獣が牙を触れさせるような、そういう触れ方だった。

「ともに来るのか?」

 言葉のわりに、それは無垢な問いのかたちをもって呟かれた。首筋をなぞった指先が骨のくぼみのあたりに触れて、離れた。月詠に触れられるとき、桜は心が固く閉じ入っていくのを感じる。決して境界をおかされないように、ぬくもりを感じることのないように。心が自然と固く強張るのだ。たぶんこのまま口付けられても、桜はちらとも心を揺らさないし、決してこの男を選ぶことはないのだろう。

「葛ヶ原へ早く戻れ」

 直後、するりとつかんでいた袖端を振りほどかれた。そうしてこちらに背を向けて歩き出した黒衣を、空のこぶしを握って静かに見つめる。たぶんもう、と冷ややかな予感が胸に満ちるのを桜は感じていた。たぶんもう、このひととの道は交わらないのだ。決して。交わらせてもならない。それがわかってしまったから、桜は空のこぶしを反対の手のひらで包んで、やがて目を伏せた。




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