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五章、乱(2)




「きみっていつもこうなの?」

 蒼白な顔で脇息に突っ伏した雪瀬に向けて、透一は呆れた声をかけた。都へ戻る途上の船内である。案の定というのか、雪瀬の船酔いはひどくなるばかりで片時も盥を手離せない。
 数日前、雪瀬たち葛ヶ原一行は調査に訪れていた南海を発ち、都行きの船に乗った。南海領主・網代あせびにかかった「黒鳥居の密談」の疑いについて、朝廷に報告をするためだ。雪瀬にこれを命じた朱鷺帝は旧亀澤天領に御座所移りをしていたが、命令が解かれていない以上、検察史としての職務は果たさなくてはならない。

「陸路をさあ……」
「はあい?」
「いい加減、整備してもらえないもんかなって思う」
「はいはい。わかりましたよ、領主さま。湊についたら起こすから」

 団扇で適当に雪瀬を扇いで、透一は立ち上がった。雪瀬が吐き気で身動きできなくなるほどの船内でも、透一はまったくいつもと変わった風もなく過ごしている。どうしてなのかと訊くと、そりゃあ慣れたもの、と苦笑される。いったいどれくらい船に乗ったら「慣れた」という域に達するのか、雪瀬には想像もつかない。

「お水を飲まれますか」

 うなずくと、千鳥が竹筒と酔い止め薬の入った三角包を一緒に渡してくれる。きりきりと痛むこめかみを押して、薬と水とを飲んだ。

「あせびさまの件、よろしかったのですか」

 ひと息ついたのを見はからって、千鳥が尋ねた。ううん、とこたえる雪瀬の返事は曖昧だ。ふた月ほど前。南海側へ約束を取り付けて、降り立った湊にかつての活気はなかった。葛ヶ原領主であることは伏せての来港であったので、迎えの者もいない。下船の手続きを待つ間、ざらざらと鈴鳴る肉厚な緑葉の下でこちらをうかがう男に気付き、雪瀬は目を細めた。

『橘雪瀬さまでございますね』

 男は何気ないそぶりで隣に立ち、こちらだけに聞こえる声で囁いた。顎を引くと、『こちらです』と船から降りた商人たちに気を配しながら歩き出す。千鳥がはっとした風に目を瞠り、そのまま沈黙する。ふたりの様子に焦れてしまって、雪瀬は代わりに口を開いた。

『あなたは名乗らないの。燕(つばめ)』
『……覚えておいででしたか』

 くっと咽喉を鳴らして肩をすくめた男に、雪瀬は苦笑まじりの視線をやった。兄の颯音が諜報などに使っていた男、東野燕。薫衣の伯父にあたるこの男と雪瀬が最後に顔を合わせたのは、十年以上前のことになる。燕は千鳥の父親でもある。役目をわきまえているのか、千鳥は声を上げなかったが、一心に燕を見ていることは気配で感じ取れた。

『行方知らずと聞いていたけど、こんなところにいたのか』
『今は別行動を取っているもんでね』

 口調を崩して、燕は笑う。「誰と」別行動を取っているのかまでは明かさなかったが、燕のいわんとすることを察して、そう、と雪瀬はうなずく。この中ではおそらく唯一繋がりを持っていただろう透一はさして会話に加わらず、燕とも目配せひとつしない。
 透一の真意は、未だに雪瀬にも読み取れないところがあった。橘颯音は生きている。そう告げたものの、ならばどこで何をしているのか、これまで何をしていたのか、透一は雪瀬に語ろうとしない。尋ねようとすると、いつも曖昧に微笑に紛らわせて会話をそらしてしまうのだ。
 ――おまえは丞相月詠を、討てるか。
 透一の口を借りた颯音の問いかけにも、雪瀬はだから、未だ答えていない。颯音がこちらに接触をはかるかは、おそらくその返答次第だと直感している。慎重に考える必要があった。
 しばらく人気のない小道を歩き、燕は赤瓦の屋根を持つ建物の前で立ち止まった。表に揚桃染めの黄色い暖簾がかかっている。南海における茶屋のようだった。

『あせびさまは?』
『中の離れの部屋だ。時間はきっかり半刻。終わったら迎えにくる』

 そう言うと、燕は雪瀬を中へ通した。しかし、続こうとした千鳥のほうは阻まれる。

『ここから先は、俺たちは行けねえよ』
『罠、という可能性があります』
『南海の王がみみっちい暗殺を仕掛けるとでも?』
『雪瀬さまをお守りするのが私のいただいたお役目ですので』
『まったく、クソ真面目に育ったなあ千鳥』
『文句がありますか』

 千鳥と燕が睨み合う。以前なら、こういう局面ですぐに取り成しをしてくれた透一は、遠巻きに肩をすくめるばかりだ。雪瀬は息を吐いて、腰に佩いていた刀を取った。鞘ごと千鳥のほうへ投げる。思わず受け取ってしまった千鳥が眉根を寄せた。

『外で皆と持ってて』
『危険です』
『まずい、と思ったら呼ぶから』

 軽く笑うと、暖簾をくぐった。迎えた女将は仔細を問わずに、心得た様子で奥の離れへ通してくれる。人気の茶屋らしく、ひとはそこそこいた。千鳥はああ言ったが、雪瀬のほうは、まあ大丈夫だろう、と読んでいる。現況、私怨以外で雪瀬を害することに意義を見出す人間はいないと思うし、少なくとも日中の茶屋は指定しないだろう。それでもひそかに懐刀だけを忍ばせているのは、鬱金の事件の教訓ともいえた。雪瀬はあれからずいぶん注意深くなったのである。

『失礼します』

 襖を開くと、すでに相手が待っていた。
 ただし、思っていた男とは違う。細くたおやかな肢体を南海らしい黒の衣にきりりと包み、鮮やかに映える濃紅の帯を締めている。まだ十代の少女のようだった。さすがに警戒して、雪瀬は襖を後ろ手に握った。

『橘雪瀬さまですか』
『ええ。あなたは?』
『網代妃(キサ)と申します。今日は父あせびの名代で参りました』

 少女は紫の眸をひたとこちらへ向け、あせびがよく首にかけていた玉の連なりを掲げ見せた。父、というからにはあせびの娘のうちのひとりなのだろう。雪瀬が知っているのは海砂(ミシャ)という幼い少女だったが、年齢的には妃が姉なのだろう。障子戸から射す陽を頬に受けた妃は確かに、奥方の淡(タン)とどことなく顔立ちが似ている。

『あせびさまは?』
『南海の屋敷のほうに。近頃、監視の目も厳しく、ままならぬことが多いのです。雪瀬様には申し訳ないと詫びておりました』
『妃さまはどのようにしてここへ?』
『私は、祖父の墓参りを許されておりますので。まだ小娘の身なれば、監視も緩いのでしょう』

 歳はまだ十五、六といったところだが、いかにも聡明そうな娘である。雪瀬はようやく襖の前から離れた。そう広くない室内に、ほかにひとはいないようだ。この娘を信じるか否か。一拍のちに、信じてみるか、と腹をくくって、娘の前に腰を落ち着ける。

『それでは、あなたをあせびさまと思って話しても?』
『構いません』
『単刀直入に言います。来たる七の月。月殿下の即位礼が終わるまで、あせびさまにはご病気になっていただきたい』
『病気、ですか』

 雪瀬の言葉に妃は一瞬いぶかしげな顔をしたが、すぐに表情を引き締めた。

『つまり、即位礼にも参るなと?』
『察しがよろしくていらっしゃる。都の世情はご存知でしょう。『黒鳥居の密談』以降、お父上への風当たりは厳しい。下手をすれば、お命の危険も』
『……驚きました』

 雪瀬を見つめて、妃はぽつりと呟いた。

『てっきり、あなたは『黒鳥居の密談』の真偽について問い質しに来られたのかと』
『仕事はきっちり果たします。明日、あせびさまには公的な会見を申し入れるつもりです。ただ、今日はそこで話せないことを話しに来たのですから』
『その言いぶりですと、父は『黒鳥居の密談』に参加してないと、あなたは考えられているのですか?』
『はい。だってぜんぜん、あせびさまらしくない』

 あえて茶化す言い方を雪瀬はした。強張っていた妃の表情が少し緩む。それを見取って続けた。

『あれは俺を都から遠ざけ、速やかに御座所移りを行うための月詠の方策だったのでしょう。今となっては確かめようもありませんが。ただこちらにはこちらの情報網があります。万葉山で実際にあせびさまを見た人間がいないことくらいは調べがつきました』

 どころか「黒鳥居の密談」自体が意図的に流された噂の可能性があると、情報源である人形屋夫婦は推論を述べた。月詠方の十人衆には諜報を得意とする者もいるらしいと聞き及ぶ。御座所移りから退位までの異様に早い動きから察するに、月詠は最初からこの筋書きを思い描いていたのではあるまいか。
 
『屋敷の扉を閉め、一切外との連絡を断つこと。あとは俺がうまくやります』
『うまく……できるのですか?』
『やります。信用ならないかもしれませんが』

 さりげなく妃の顔をうかがいながら、さてどうしよう、とひとり思案する。無論雪瀬としてはこの件を説き伏せに来たのだが、あせびなら膝を詰めて話をすれば、わかってもらえるだろうという楽観があった。だが、妃はどうだろう。この娘は雪瀬を知らない。そうやすやす信じてくれるだろうか。
 脇息に腕を置いたまま考え込んでいると、ふと小さく息をつかれる気配があった。

『――……事変後、南海地方で起きた争いは小規模なものも含めて数十』

 雪瀬は瞬きをした。

『ですが、死者は極端に少ない。すべて何かが起こる前に検察使が止めてくださったから。雪瀬さま。『うまくやっていただいて』ありがとうございます。かようなよその土地。ただ鎮圧を重ねるよりも、よほどご苦労があったことでしょう。南海領主・網代あせびは、あなたに深く感謝をしております。そしていつか……必ずやあなたのために力になろうと』

 妃が静かに背を折る。そのまま額づきそうな勢いの少女に雪瀬は慌てて手を出した。いくら雪瀬といえど、少女にかしづかせるのはよい気持ちがしない。

『あなたはこれからどうされるおつもりですか、雪瀬さま』
『いくつかの調査を終えたら、都へ戻ります。こちらへ立ち寄ったことは伏せるつもりなのでご心配なく』
『そうですか……』

 妃は素直に顎を引き、それから気遣わしげに雪瀬を見た。すでに話は終わったものとして腰を上げていた雪瀬は、少女の視線に気づいて動きを止める。

『……何か?』
『いえ、ただ……。暗雲が視えましたので』

 妃の親譲りの目には力がある。それで何か、常人には見えないものを視たのかもしれなかった。雪瀬はわらった。

『嵐になりそう?』
『ええ』

 妃は今度ははっきりとうなずいた。

『避けられない嵐となるでしょう』




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