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五章、乱(3)




 数日間の船旅を経て、都の玄関口である霧井湊へ降り立った雪瀬は、すぐに南海調査の報告のために都へ向かった。一時、病がちで朝廷を離れていた丞相は近頃は再び赤の殿に戻って政務にいそしんでいるらしい。結果として出された悪法の数々により、都の大路は在りし日の賑わいが見る影もなかったが。

「ずいぶん長い旅だったようだな」

 御簾越しに額づいた雪瀬へ、月詠はそのように皮肉った。おそらく、網代一族と内々に接触をはかっていたことなど、この男にはお見通しなのだろう。

「ええ、有意義な旅でした」

 だから雪瀬はあくまで平然としたそぶりでこたえた。ゆるしを得て顔を上げ、あたりを見渡す。几帳や屏風で仕切られた部屋では、影になった場所にひとり十人衆らしき男が控えている。
 
「こちらのほうは何やら事件が絶えない様子で」
「そのようだな。先だっても、いくつか処分をしたさ」

 月詠が挙げた名前は雪瀬にも聞き覚えがあった。朱鷺の古くからの支援者や、月皇子の擁立に伴い、月詠陣営から離れた者たちだ。おそらく見せしめなのだろう。

「それから百川諸家」

 思わぬ名前が飛び出て、雪瀬は眉をひそめる。隣り合う領地なれば、百川と橘の親交は深い。それを知らぬ月詠ではないだろう。たっぷり間をとってから、雪瀬は口を開いた。

「理由をうかがっても?」
「百川漱は朱鷺帝即位の折にもずいぶん尽力したそうではないか。亀澤領に移られた朱鷺殿下とも、ひそかに連絡を取っているらしいという情報がある。今、一ノ家の刀斎(とうさい)を都察院にて検めているところだ」
「御年七十過ぎのご老体ですよ」
「孫は出さんと言い張るのだから、仕方あるまい」

 刀斎は漱と紫陽花の祖父にあたる。ふたりの楯になるかたちであの老人が出たのだということは察せられた。顔をしかめた雪瀬に、月詠は薄く嗤った。「それで?」と訊く。

「南海の件はどうであった?」

 調査、というのは実に厄介だ。
 雪瀬がここで、網代あせびの身の潔白を訴えたとする。真実には相違ないが、下手をすれば、それを言いがかりに雪瀬もまた、朝廷に叛意ありと疑われかねない。どこか愉快がるような気配すら漂わせて、月詠は雪瀬の返答を待っている。――こいつはいつもそうだ。すべて見通したうえで、こちらが次にどんな手を返すかを楽しんでいる。嫌味な男だった。いつも、そうだ。
 ふ、と息をついて、雪瀬は顔を上げた。丞相の眼差しを受けて、小さく肩をすくめる。

「あいにくお話はうかがえませんでした」
「ほう?」
「網代あせびさまはご病気にて療養中との由。何度か訪ねましたが、医者に言わせるとたちの悪い熱病に罹っているとか。これ以上お待ちしても話をうかがえそうになかったので、一度ご報告にと参じた次第です」
「つまり、仔細はわからぬままだと?」
「はい」

 ぬけぬけと言い放った雪瀬に、月詠は脇息に置いた腕を上げて顎をさすった。御簾越しには黒衣の人影が見えるだけで、月詠の細かな表情まではわからない。澄んだ花の香が焚かれていた。曇天から射す弱い光が雪瀬の背から、床に射している。

「まったくふてぶてしくなったものだ」
 
 独白めいた呟きを漏らすと、月詠はつと香炉を引き寄せた。

「ご命令とあらば、今一度南海に赴きましょうか」
「必要ない。即位礼が近いゆえ、おまえにはしばし都にとどまり、この地を守ってもらおう」
「御意に」
「それと、月殿下が即位したあとのことだが」

 うなずいた雪瀬に、おもむろに月詠が言った。

「葛ヶ原は天領とする。おまえにはまた別の領地をあてがうゆえ、心しておくように」
「――……な、」

 さすがにこれは予想外だった。しばし呆気にとられ、雪瀬は御簾越しに座する丞相に向き直る。

「二百年間、橘が守ってきた土地を取り上げると?」
「たかが二百年だろう。もとはクズの地だったものをおまえたちの先祖に帝が預けただけ。それを返せと言っているのだ」
「承服できない。葛ヶ原は――」

 先代が。兄が、ずっと守ってきた。
 それを雪瀬の代で差し出すなどできるわけがない。唇を噛んで口をつぐむと、ぎしりと床板が軋みを上げた。月詠が腰を上げたのだとわかった。

「話はまだ終わってない」
「天領にすると言った。二言はない」

 冷たく言い捨て、月詠は衣を裁いてきびすを返した。





 都の百川屋敷には、不穏な気配が立ち込めていた。
 表向き、門を守る兵の数は変わっていない。けれど、閉じられた門の先にはただならぬ緊張がみなぎっており、雪瀬は目を眇めた。

「漱さまはいらっしゃいますか」

 門兵に尋ねると、気付いたらしいひとりが「雪瀬さま!」と声をかける。確か柊、といったか。幾分憔悴した顔で、それでも慎ましやかに頭を下げた。

「刀斎さまのことを聞いた。漱か紫陽花には会える?」
「こちらへ。先ほどちょうどお戻りになったところです」

 通用口のほうを開いて、柊は雪瀬を中へ招き入れる。武装した兵が数名待機しているところを見ても、ものものしい。案内された客間に柊が明かりを入れていると、ほどなく漱が現れた。雪瀬の顔を見るや、懐かしげに眦を緩める。

「お久しぶりですね。あなたとはすれ違いが多くてなかなかお会いできなかったから……」
「紫陽花は?」
「都察院へ向かいましたよ。刀斎さまを早急に解放するようにと。焼け石に水でも申し入れは続けなければいけませんし」
「話は聞いた」

 柊が戸を閉めたのを見取って、雪瀬は改めて漱と向き合った。柊同様、やはり横顔に疲れが見えたが、この男らしく落ち着きは払っているようだ。漱は都で帝に近侍していたと聞く。つまり、朱鷺帝の御座所移りも間近で見ていたはずだ。

「この数か月の間に何があったんだ?」

 仔細を話すように求めると、漱は嘆息をした。

「一言でいうなら、暴政ですよ」
「朱鷺帝の側に立っていた者が次々粛清されていると聞いた」
「ええ。ただ度を越しています。もはや丞相がとち狂ったとしか思えない。このままいけば、この国は荒れ果て、民びとは皆、国外へ逃げ出しますよ」
 
 官吏の一斉解雇により政治機構にはすでに滞りが生じていると聞く。亡き桔梗院――老帝や朱鷺帝不在の今、丞相を止める者もまたいない。そこまでを語って、漱は肩をすくめた。

「不可解なのは、これだけの暴政を敷きながら、あのひとはまだ正気みたいなんですよ。……たぶん。正気のまま、悪法を次々打っている。まるで自ら王朝を斃そうとしているみたいだ」

 漱の感想は奇しくも、雪瀬の疑念にひとつの解を与えた。確かに。月詠は自ら破滅の道に突き進んでいるように、雪瀬には見える。
 ゆえにこそ、颯音は、あの風読みの天才は言ったのかもしれない。
 丞相月詠を――、
 おまえは討てるか?と。
 
「思い悩んでおられますね」

 いつの間にか思案に沈んでいた雪瀬を見つめて、漱が言った。

「答えが決まっていることで悩むのは時間の無駄じゃあありません?」
「……決まっているのかな」
「少なくともわたしにはそう見えますよ」

 颯音のあとを継ぎ、領主になってからの数年間。苦悩の多かったあの時期、近くで雪瀬を支え続けた男は苦笑まじりに紅鳶の眸を細めた。

「だって、きみはいつも結局、明るいほうをめざすひとだから」

 ふいに手元の炎が揺れる。
 金色のそれは、円く穏やかに室内を照らしている。不穏な外の気配が嘘のように。
 
「臆せず理想を掲げなさい、雪瀬さま」

 漱は言った。

「それで背負い過ぎたぶんは、皆で分け合いましょう。きみもわたしも、ひとりではできないことばかりですが、案外、大勢が集まれば、どうにかなったりするもんですよ」





 雪瀬が都に着いたという話は、気を利かせた竹が文を出してくれたおかげで桜にも時間を置かずに伝わった。なので、その日は都の橘屋敷のほうへ久しぶりに帰路につく。沙羅の咲き始めた屋敷は常とは異なる賑わいを取り戻していた。

「桜さま! 御無事で……!!」

 門をくぐると、気付いた竹がぱっと顔を明るくして、駆け寄ってくる。別に戦場をくぐり抜けたわけでもないのにと苦笑し、「雪瀬は?」と桜は尋ねた。

「少し前にお戻りですよ。いつものお部屋にいらっしゃいます」
「そっか。こちらに来るって知らせてくれて、ありがとう」
「そりゃあ私はいつでも桜さまを想っていますから。気が利く小姓だって雪瀬さまに褒めておいてください」

 胸を張って笑顔を見せた竹に、そうだね、と笑い返す。
 外で足を洗ってから、私室のほうへ向かう。宵に近い時間で、澄んだ群青が雨上がりの空に広がっていた。半開きの障子から中をのぞいて、眦を緩める。文机に突っ伏すようにうたた寝をしている青年に気付いたからだ。障子を閉めると、落ちていた羽織を拾ってきて、時折上下する背中にかけた。文机を背にして座り、投げ出されていた手のひらを手で包む。冷たいことを予感していた手のひらは思ったより熱くて、汗ばんでいた。

「また船がだめだった?」

 船を使ったあと、雪瀬はたいてい体調を崩す。そのまま子どもみたいに寝込んでしまうこともしょっちゅうだった。手を握ってそのように問いかけると、やっぱり起きていたらしいそのひとが黙したまま、指先で手の甲に触れてきた。やけに遠慮がちに触れてから、離れてしまいそうになったので、桜は反対にその手を強く握ってやった。うっすらと開いた目と目が合う。

「――……おかえり」

 久しぶりであるのに、いつもと変わらない言い方を雪瀬はした。ただいま、と桜も微笑む。強く腕を引かれ、桜はたやすく雪瀬の腕のうちにおさまった。抱きすくめられる。本当に大事そうに抱きしめられたので、きっと雪瀬は何も言わないけど、でも桜を心配してくれていたのだろうなと思った。
 雪瀬の腕と体温は、桜にいつも苦しくて溺れそうになるくらいの安堵とぬくもりを与えてくれる。へいきだった、と尋ねられたので、桜は小さく顎を引いた。

「早く宮中から下がれって言ったのに、こっちの文、無視したでしょう」
「そういうつもりはなかったのだけど、でもいろいろ、あって」
「……昔は俺の言うこと、素直に聞いてくれたのに」

 年々扱いが難しくなる、と嘆息まじりに呟くので、おかしくなった。銀簪を抜き取った手がやさしく髪を梳く。それが心地よくて目を細めた。時折風が吹いて、沙羅の葉影の落ちた障子戸が細く震える。しずかだ、と思った。まるで外界から帳を下ろされたように、ここはとてもしずか。
 そろりと腕の中から顔を上げる。
 雪瀬は半分あいた障子から深まりつつある宵の空を眺めていたので、桜はなんだか不意に、切なくなった。こんな横顔をよく見た。雪瀬はいつもそうだ。ときどき、遠いところを見ている。どこかにいなくなってしまいそうな、顔をしている。大きな、群青を濃くしたみたいな空は、いつも雪瀬を連れ去ってしまいそうな色をしている。
 かなしい。
 かなしいときが、ある。

「考えごとをしているの?」

 きゅ、と袖をわずかに引くと、気付いた様子でこちらへ視線を戻してくれる。なにも、と雪瀬は言った。

「たいしたことじゃない。ただ、昔のことを思い返してただけ」
「むかし」
「桜を拾ったときのこと」

 雪瀬は苦笑した。

「道に女の子が落ちていたから、びっくりした」
「でも、雪瀬はすぐに手を差し伸べてくれた」
「周りにほかに誰もいなかったし……、放っておくと今にも死んでしまいそうに見えたから。――後悔をしてない?」
「なにを?」
「……俺で、よかった?」

 ちいさな声がそう尋ねた。
 雲の向こうにかゆらぐ月で、身体に添えられた手のひらはほのかにひかって見える。右の手には大きな傷跡があって、未だに少し不自由している。大きいとは言えない手のひらだ。きれいだとも。もっと大きくて、力強く桜を導いてくれる手のひらはたぶん、ほかにもあっただろう。眉尻を下げて、桜はすこしわらった。どうして気付けないのか、不思議だった。気付けないなら、そのままにしておきたいような、そんな気もした。わたしだけのそれはずっと美しい手のひらだった。

「もしあの日を繰り返すなら」

 その手を引き寄せて、桜は言った。

「何度でも、雪瀬を待つよ。……何度でも。あなたが見つけてくれるまで、ずっとずっと、わたしは待っている」

 目を細めて、雪瀬はそれを聞いていた。風。風の音がしている。初夏の雨があがるときのような、さやかな風が吹こうとしている。そう、と呟いた雪瀬が息をつく。そう。そっか。……そう。落ちた吐息に、やわらかな苦笑がこもる。緩やかに滑った手が桜の手を取り上げた。ふわりと指先に唇が触れる。何かの約束のように触れた口付けを、桜はただまぶしいものを仰ぐかのように見つめた。

「連れていっていい?」

 尋ねられた言葉は一言。

「――……おわりまで」

 簡素で、ありきたりの、けれどずっとずっと、桜が願っていたもの。ほろほろと笑みが溶けだして、溢れる涙を秘するように桜はそっと目を閉じた。




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