夕刻に上がった雨で、外はぬるい湿気に満ちている。庭の紫陽花の前で、空を仰ぐ青年を見つけて、雪瀬は濡れ縁から下りた。吹き抜けた風が着流した衣の裾を翻す。
「透一」
雪瀬の呼びかけに、透一は瞬きをして軽く組んでいた腕を解いた。
「はい、何でしょう」
「頼みがある」
そう持ちかけると、「そろそろ言うんじゃないかと思ってた」とこの幼馴染はすべてを見通す目つきをして笑った。
指定の時刻。雪瀬は濃緑の上着を小袖のうえに引っ掛けて、東地区の水茶屋に向かっていた。遠くの空で、雷鳴が轟いている。時折稲妻が走る空をひととき見上げ、雪瀬は何かに弾かれたように視線を戻した。
「来た」
なまこ壁に囲まれた狭い道に、一本の傘が開いている。木々がざわりと揺れ、不穏な風が頬をなぶった。相手はひとりだった。雪瀬さま、とうかがいを立てた千鳥に離れているよう言って、雪瀬は近づいてくる男のほうへと向かう。傘を閉じた。霧雨がやわく肩に降りかかる。
「――……」
しばらくのあいだ、雪瀬は現れた男から目を離せなかった。
くしゃりと顔を歪める。律しなければ、すぐにでも駆け寄って名前を呼んでしまいそうだった。
「連絡をありがとう。葛ヶ原領主」
相手はそのように言って、少しだけ傘を傾けた。暗がりの中にあった顔が曇天の薄明かりにあらわになる。
「蕪木透一の伝言は聞いた?」
橘颯音だった。
葛ヶ原の謀反から実に十年。短いとは言えない月日が流れていたが、目の前の男は懐かしい面影を残したままでいる。目を細めて静かに微笑うところも、その内側に爆ぜそうな激情を抱えているところも、身に纏う風のにおいも。どこも変わらない。兄だった。思いのほか動揺してしまって、雪瀬はこぶしを握り込む。視線を落とさないだけで精一杯だった。
「……聞いた」
「結論は?」
颯音の言葉は端的だった。
「おまえの答えは? 雪瀬」
――おまえに、丞相月詠は討てるか。
真実、それを聞くためだけにここにやってきたのだとわかる。
回りくどい挨拶も口上もないのが颯音らしいといえば、らしかった。……正直に言って、雪瀬のほうはどこかで甘えがあった。颯音は雪瀬の兄だったから、物心ついたときにはろくでもなくなっていた父親に代わって雪瀬を育ててくれたのはこのひとであったから。もう一度、ただの兄弟に戻れるのではないかと。
けれど、雪瀬が葛ヶ原領主の肩書で颯音を呼び出した以上、そして颯音が応じた以上、それは叶わないことなんだろう。「橘颯音」は公的には十年も前に死んでいるのだ。
「葛ヶ原を召し上げると言われたのでしょう。あれは丞相なりの宣戦布告だ。答えは決まっているように思うけれど」
「……俺は」
「丞相月詠を討て」
突きつけられた言葉に、雪瀬は口をつぐんだ。
「誰かがやらなくちゃいけない。そして今のおまえにはその力がある」
「――……」
「それでもやらない、できないと言うなら」
自分を見つめる濃茶の眸が不意にまろんだ。
ともしたら、やさしい、とそう思わせる仕草で肩に手が触れる。
「俺が代わりにやろうか」
その手のひらから伝わるぬくもりに肩が震える。決して揺らぐまいと思っていた胸中がひどく乱れていることに気付いた。代わり。そうだった。この十年あまり。雪瀬は颯音の代わりをしてきた。月詠にこうべを垂れて領主を継いだのも、従わない長老たちに苦心し、あるいは月詠や朱鷺帝が突きつける命令に翻弄され、葛ヶ原を守るために奔走した日々も。すべては颯音のためだった。いつか帰ってくる兄に領主の座を返すためだった。だから、ほかの誰にも渡さなかったのだ。だってこの場所は、橘颯音のためにこそあるものだから。
けれど――。
雪瀬は目を瞑った。
『理想を』
と漱は言った。
『臆せず理想を掲げなさい』と。
それはつまり、何を願うのかという問い。
何を捨て。何を失い。何を選んで、何を望み、何を願うのか。自分が愛する者たちのために。自分を愛してくれたひとたちのために。
『おまえ』は何を望むんだ?
答えなら、だからそう、最初からここにある。
誰にも譲れない。譲ることなど、できるはずがない。だってこれは、投げ出したり、ときに逃げ出しそうになりながら、それでも自分が歩いてきた道だ。ひとに比すれば、みっともないし、情けないかもしれないけれど、それでも俺の。
「断る」
雪瀬は淡くわらった。
胸をかき乱す懊悩が消え去ると、不思議と凪いだ気持ちだけが残った。男の前へ手を差し出す。開いた手のひらを雨粒が叩き、ざわざわと蠢いていた木々に一瞬の静寂が訪れた。
「断る。代わりに、俺に協力をしてほしい。『颯音』」
「こういう切り返しは、さすがのおまえも予想していなかったか?」
ひとりその場に残った颯音は、背後の廃屋からだしぬけに響いた声で足を止めた。破れた腰障子にうっすら人影が映っている。雪瀬は気付かなかったようだが、颯音はずっと彼女の気配を感じていた。道理だ。彼女がずっと冷ややかな殺意を向けていたのは颯音のみであって、もしも颯音が腰に佩いた刀に手を伸ばせば、たちまち背後から斬られていたにちがいない。
「もうかくれんぼはいいんじゃないの。薫衣さん」
颯音は薄くわらって、廃屋の軒下に入った。傘を閉じて、薄い障子に背を預ける。たやすく刀が届く位置だ。背中越しに沈黙が返り、薫衣もまた障子に背を預けたのがわかった。
「昔、燕が伝えてくれたことがある」
「……伯父上が?」
「“俺に風の恩恵はない”」
ないんだ。
強さも、ひとを守る力も、ひとをいとおしむ力さえ、何ひとつ。だけど、そういう俺を今日まであなたは育て生かしてくれたから。歩いてゆける。きっと、歩ききる。だから――。
「懐かしいね」
「おまえ、本気で代わりをするつもりだったのか」
薫衣の声は、ぬるくも冷たくもない水のようだ。颯音は瞑っていた目を開いて、泥濘に描かれる波紋を見つめる。こうして、一枚の障子越しに背を合わせているのに、まるで温度を感じないのは不思議だった。
「きみはどうする?」
薫衣の問いとは別のことを颯音は訊いた。
雨で湿った障子戸は触れると、あたたかだ。表面に指を滑らせたのち、こぶしを固める。障子の向こうでたぶん薫衣も同じ仕草をしたとわかった。
「私は雪瀬についていくよ」
「そう」
「誓ったから。守ると誓ったから。それ以外の道も私にはないから。だから、あなたとはお別れだ。颯音」
静寂を雨音が埋めていく。
それにどこか心地よさすら感じて、颯音は薄くわらった。
「きみはそれでいい。五條薫衣」
そうして一瞬の沈黙のあと、ふたりの男女は同時に背を離す。