文月。都の玄関口となる霧井湊は炎天の様相だった。
打ち水のされた小路に、さっと果敢ない虹がたつ。すぐに干上がる土の色を船宿の二階から眺めていた桜は、襖の引かれる音に気付くと、視線を戻した。
わずか八畳ほどの部屋である。翡翠の女将・咲(さき)が懇意にしているのだと紹介をくれた宿には今、ひそかに十を超える客が集まっている。桜にわかるだけでも、百川紫陽花と漱、南海の地からひそかに参じたという領主の細君・淡(タン)の姿。さらには五條苑衣(ごじょうそのえ)をはじめとした毬街の自治衆や、粛清を逃れた稲城(いなぎ)などの朱鷺派の公家衆も顔をそろえる。各陣営が入り乱れた室内は、異様な熱気が満ちていた。
「あら、私たちが最後でした?」
銀のおさげをぴょこんと揺らして入ってきた少女が、あたりを見回して首を傾げる。人形屋の空蝉夫妻だ。
「そのようだね」
末席に腰を下ろした沙羅(さら)に対し、中央に座る今日の招集者――雪瀬は落ち着きを払った声で返す。竹が襖を閉めると、それぞれが座に戻ったので、桜も出入り口の近くにちょこんと座った。一同がそろったのを確認すると、雪瀬は窓の外へ視線を向ける。
「扇。外は?」
「誰もいない。大丈夫だ」
混乱のなか、一度は連絡が途絶えていた扇も、雪瀬のもとへ戻ってきていた。雪瀬がうなずくと、白鷺の影はまた窓の向こうへ消える。
「今日集まってもらったのはほかでもない。旧亀澤天領に軟禁中の朱鷺陛下について」
自然と集まった一同の視線を受けて、雪瀬は口を開いた。光の加減か、濃茶の眸が深い金を帯びる。
「来たる月皇子即位の日」
ああ、このひとは。
わたしだけの美しいひとだったこのひとは。
「俺は朱鷺陛下を丞相から奪還する」
嵐に向かって駆け出してしまった。
嘆息の代わりに、桜は膝の上に重ねた己の手をそっと握り締めた。
「そしてこれに関わる作戦では、双方にひとりの血も流さない。犠牲者も出さない。この『乱』は無血で一切を終わらせる。それだけは絶対に譲らない。そのために今日、あなたがたをお呼びしたんです」
雪瀬の言葉に、事前に事情を聞かされていた者は一様に表情を引き締め、他の者は目を見開き、あるいは口をつぐんだ。
「朱鷺帝の正確な居場所はつかんでいるのかい?」
最初に声を上げたのは、毬街自治衆の苑衣だった。
「扇がいますからね。だいたいは。それと今、陛下のそばには暁という昔橘にいた男がいる」
「百川は……驚いてないねえ。了承済かい?」
「まあ、そんなところです」
漱が苦笑まじりに肩をすくめる。雪瀬をちらりとうかがってから、前に進み出て説明を始めた。
「丞相月詠は、今上帝――朱鷺陛下を拉致し、軟禁の上、譲位を迫り、半ば強引に月殿下を次期帝としました。この手順に丞相の意図があったのは明らかですが、朱鷺陛下が丞相の手にある以上、手出しができないのが現状です」
「だから、帝を奪い返そうって腹か」
「はい。ここで重要になってくるのは時機。月皇子に譲位がなされてから朱鷺陛下を取り戻したのでは遅い。あくまでも帝不在の今、月皇子の即位前に、陛下を奪還し、譲位の意志を翻すことにこそ意味があります」
「そのために、今日集まった皆さまの協力を求めているということですね」
おおむねを理解した様子で、淡が聡明そうな目を向けた。
ええ、と雪瀬はうなずく。
「奪還は、監視の兵がもっとも手薄になる即位式当日を狙います。そのための船の調達と輸送を毬街にはお願いしたい。これには蜷(ケン)の頭領も協力できるという約束を取り付けてあります」
「だが、実際の奪還には誰をあたらせる気だい?」
雪瀬の言にも、老齢の苑衣は動じず、猜疑のこもる目を光らせている。
「即位礼当日の奪還はいい。だが、領主のあんたも、百川や他の者たちも当然、即位礼には参加しているわけだろ。いったい誰が兵を率いて、朱鷺帝を奪還するっていうんだ」
「適任の者にあたらせます」
「出し惜しみか。その適任の名を聞きたいねえ。こちらだって勝機のない賭けには乗れない」
苑衣は挑発をするように口端に引っ掛けた煙管をぶらぶらと揺らす。細くくゆった煙を見やり、雪瀬は息をついた。アカツキ、と呟く。それだけで苑衣がはっと目を瞠ったのがわかった。
「南海とごく一部の自治衆はその名をご存じでしょう。彼が動く」
「従ったのか、あいつがおまえに?」
「事情を話して、助力をお願いしたんです」
「お願い、ねえ」
一笑した苑衣が、かん、と高い音を立てて煙管を盆に置いた。末席に座した透一を視界端にとどめて、「まあ、いいさ」と首をすくめる。
「アレの名代が来て、何も言わないっていうなら、それでも。ちょうど丞相の横行には飽き飽きしてたんだ。船と輸送くらいなら受け持ってやらんことはない」
苑衣が話に乗ると、場の空気がにわかに変わった。これが峠だったことは、輪の外で聞いているだけの桜にも知れた。具体的な日程と必要物資、船の輸送路の検討を始めた一同を桜は遠巻きに見守る。では南海の役割は――。それについてはもしものときのために――。薫衣たち葛ヶ原の面々も地図を開いて議論に加わっている。
「あんたも面倒な旦那を持ったもんだねえ」
目を上げると、煙管をふかしに来たらしい苑衣が隣であぐらをかいた。大筋を決めると、あとは連れてきた年少の自治衆にすべて任せたらしい。一座を見つめて、苑衣は口端に皮肉げな笑みを浮かべた。
「十年前はいやってほど血が流れたからね。同じことを繰り返したくないんだろう」
悔恨か自嘲か。言葉の向こうに滲んだ感情を判じられず、桜は黙したまま苑衣を見上げる。十年前は。最長老をはじめとしたたくさんのひとびとが死んだ。雪瀬もまたあのとき深く傷ついた。
「だが、時代の節目に血が流れるのは必至」
眇めた眸の奥に宿るのが、やるせない祈りのようなものであることに、桜は気付いた。気付いて、しまった。桜たちの何倍もの時間を生き抜いた苑衣には、また別の未来が見えているのかもしれなかった。
「いったいどこまで抗えるかねえ……」
苦笑すると、これまでの独白などなかったかのように苑衣は息をついて、煙管を回しながら一座へ戻っていった。
即位礼で桜がするべき役割は、月皇子の保護だった。
万一の時、混乱に乗じて月を亡き者にする輩が現れるかもしれない。また丞相の手のうちに切り札を残さないためにも、月はこちら側で匿う必要があった。たぶんそういう話になるだろうとは思っていたけれど、今の胸中は少し複雑だ。できればあの子は争いからは遠ざけてやりたいと思う。月はまだ数えで六つ。あの子自身には、何の悪意も思惑もないのだ。
そのようなことをひとり考えながら、桜は膝元で規則的に立つ寝息に耳を傾けた。夜半に会合は解散し、おのおのが夜陰に紛れて、在所に戻った。夜明け方に屋敷に戻ってくると、雪瀬はうとうとと舟を漕ぎ、そのうち引き寄せた桜の膝に頭を横たえて眠ってしまった。よっぽど疲れていたらしい。深く寝入っているので、動かすこともできず、所在なく短い髪に触れる。柔らかな毛先が指に絡んだ。さっきまでは遠いひとのように思えたのに、今は子どもみたいに無防備な表情をしている。小さく笑んで、桜は目を伏せた。
「ああ、失礼。桜さんですか」
かたん、と微かな音がして振り返ると、漱だった。もうすぐ空が白む時間なので、室内に明かりは入れてない。遅れて膝の上の雪瀬のほうにも気付いて、「……お邪魔しました」と若干居心地が悪そうに、漱は肩をすくめる。
「こちらのほうへ残っていたの」
「ええ。実はわたしはまだ、都には入ってないことにしてあるんですよ。だから数日はこちらに」
声をひそめて尋ねた桜に囁き声を返して、漱は半開きになった障子の横に立った。桜が話を続けたがっていることを暗に察してくれたらしい。
「これから大きな戦になるの?」
雪瀬に比べて漱は桜にもわかりやすい言葉で説明をしてくれるので、葛ヶ原にいた頃から、こういったことはたいてい漱のほうへ尋ねていた。そのときの癖が抜け切らずにいる桜に、「そうですね」と漱は嫌がる風でもなくうなずく。
「うまくいけば、たぶん、桜さんが思っているよりずっとあっさり終わりますよ。朱鷺陛下が自分こそが帝だと宣言するだけの話なので」
「もし、うまくいかなかったら……?」
「我々は、丞相……ひいては次期帝である月殿下に背いていますので。朱鷺陛下の大義が得られなければ、朝廷に叛意ありと捉えられてしまいます」
謀反は大罪だ。明るみになれば、首謀者は十年前の橘颯音と同じ極刑に処せられよう。そして、今の「首謀者」は、桜の膝の上で寝入っているこのひとだった。月皇子の即位礼と同日に事を起こすということは、雪瀬は内裏のただなかで、丞相の目の前で、賭けに出るのである。もしも朱鷺の奪還に失敗したら。情報が先に漏れたら。決して逃げられないその場所で。
「きみらの領主さまは無謀ですよね」
桜の胸中を察したのか、漱は苦笑した。
「数多ある道から、いちばん面倒くさいのをあえて選ぶんですから。でも、まあ、大丈夫ですよ」
「ほんとうに?」
「ええ。雪瀬さまはとても用心深いし、わたしも僭越ながらお力になりますから。成功しますよ。……ただわたしはそのあとのほうが少し気がかりで……」
「うーん……」
途中まで言いかけたところで、漱がはっとしたように口を閉ざした。桜の膝に頭を載せていた雪瀬が身じろぎをする。
「……なんで漱がいんの」
「別にご夫婦に水を差す気はありませんよ」
胡乱げな目で雪瀬が見たので、漱は心外といった風に障子戸から手を離した。
「少しは説明をしないと。奥方さまが不安がるじゃあないですか」
おやすみなさい、と桜にだけ目配せを送り、漱は足を返す。言葉をきちんと聞いていたのかどうか、身体を起こした雪瀬はけだるそうにあくびをしている。
「途中で、起きていたでしょう」
尋ねた桜に、雪瀬は答えなかった。ただ肩から落ちかかっていた羽織を引き上げて、おいで、と仕草で言う。そのかいなに招かれると、心地よい闇に視界を塞がれた。このまま、この腕の中でえいえんにねむってしまえたらいいのに。とみに刹那的な衝動に駆られて、桜はくっつけた胸に頬を擦った。
「ぎゅ、ってしていい?」
「今日はおうかがいをたてるの?」
わらう声がじかに胸から伝わって目を細める。返事の代わりに、大きな腕が桜を抱き締めた。あたたかい。ほっとして桜は男の背中に腕を回す。あたたかい、とても。
「……このまま。わたしが眠るまでここにいて」
「うん」
「先にねむってしまわないで」
囁くように乞うと、髪に手を差しいれながら、穏やかな声が、わかった、とこたえる。あおい闇が徐々に薄らぐなか、やがてこめかみにそっと唇が降りてきた。