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五章、乱(6)




 亀澤天領には厚い雨雲が垂れ込めていた。
 ぽつ、と褪せた欄干に雨粒が射して、朱鷺は室内から視線を上げる。前栽の葉を弾いた雨はあっという間に大降りになった。煙ったように遠方の山の稜線が霞む。

「降り出してきたのう」

 けだるく脇息にもたれて、朱鷺は呟いた。丞相派による強制的な御座所移りから五か月。かつて亀澤帝の避暑地として建てられた屋敷の一室で朱鷺は毎日を過ごしている。外部との連絡は一切が遮断され、部屋の外には見張りの兵が控えているという徹底ぶりだ。ちょうど交代のために席を外した兵の影を目で追い、朱鷺は嘆息した。

「そなたまでとばっちりを食って悪かったな」
「……いえ」

 火急の報せを届けてくれた暁という青年は、緩やかに首を振った。あの場にいた数少ない護衛は、ともに亀澤天領まで運ばれたものの、別所にまとめて閉じ込められているらしい。世話係と称してこの青年だけがそばに置かれたのは、本人の意志というよりは、戦闘要員に見えない痩躯のせいだろう。
 暁は寡黙なたちらしく、かような場所に連れてこられたことへの不満ひとつ口にしない。前に家族について尋ねたところ、渡し守として生計を立てている独り身なのだと言っていた。

「俺のところへ来たのは、橘柚葉に頼まれたからだったな」

 腰に挿した扇子を開いて話を向けてみると、暁は素直に顎を引いた。

「丞相が戻ったせいで、柚葉さまは自由に動くことができなくなってしまいましたので、私が代わりに」
「『柚葉さま』のう。そなた、出身は? 都の者ではあるまい?」

 いつか訊かれるとは思っていたのだろう。観念した様子で、「葛ヶ原です」と暁は答えた。

「橘と縁のあるものか」
「……もう昔のことです」
「ふうむ。しかし不思議だな。かつての縁のために、何ゆえそなたは今も尽力する? 正直なところ、あやつらはあまり助けたいという気持ちを起こさせぬふてぶてしい奴らではないか」
 
 冗談めかした問いではあったが、朱鷺にとっては重要だった。己の味方となりうるか否か、朱鷺は暁という人間をはかっているのである。こちらの真意が通じたかは知れないが、暁は少し表情を緩めて、「確かに」とうなずいた。

「助ける、などと大仰なことを考えたわけではありません。彼らとの縁も、とうに捨て去ったものだと思っておりました」
「では、何ゆえこの場にとどまる?」
「橘の妹君と約束を交わしたゆえに」

 「命令」でも、「取引」でもない言い方を暁はした。

「約束?」
「いつかあの方を遠い湊へ運ぶという約束です。私は渡し守。望む者は望む場所へ送り届けねばなりますまい。それにあの御気性の激しい方は、私があなたさまのもとへ参らなければ殺してやると、そうのたもうたのです」

 生真面目に語る暁の顔を見て、朱鷺は目を丸くする。そしてやにわに吹きだした。橘柚葉というおなごと直接会ったことはなかったが、その口ぶりやうちに秘めた気性に、自分のよく知る男を思い出さずにはいられなかったのだ。よく似ている。兄と妹のほうは本当によく。

「苦労するのう、お互い」

 思いがけず素直な感想めいたものが口をついて出てしまい、朱鷺は苦笑する。対面に座す暁がふと表情を変えた。きし、きし、と外の廂が弾んだ音を立てる。交代の兵が戻ってきたのかと思ったが、注意して耳をそばだてると、いつもの足音と何かがちがっている。暁が緊張した面持ちで、わずかに腰を浮かせた。

「失礼いたしまーす」

 几帳を蹴り飛ばすようにして、ふたりぶんの膳を小脇に抱えた男が現れる。普段よりはいささか手荒だが、使用人のひとりで相違ないようだとその面を見上げ、朱鷺は絶句した。

「なっ、そなた――」
「はいはーい、軟禁中の朱鷺陛下にさもしい夕餉をお届けにあがりましたヨー」

 朱鷺の声を中途で遮って、杖をついた青年は乱暴に膳を床板に下ろす。暁の顔がみるみる蒼褪める。それには一瞥をやっただけで、蝶姫つきの護衛である青年――真砂は朱鷺の許しを待たず、その場に腰を下ろした。左膝から義足の脚では難しかろうに、そういうものを絶対にひとに悟らせないのが真砂という人間である。

「お久しゅう、陛下。ご機嫌は麗しく?」
「そなた何故ここに……」
「やだなあ。おりましたよ最初から。あなたさまが輿に乗せられるとき、松明を掲げていたのは俺でございますのに?」

 飄々とたいそうなことを真砂はのたもうた。

「何故。救援は間に合わなかったはずでは」
「兵はね。――あの晩、俺がどこにいたかご存知で、陛下」
「さて、蝶のおる姫宮御殿であったか……」
「その蝶の命で、俺は丞相・月詠を見張っていたんよ」

 再び朱鷺は沈黙する。よもや自分の妹がそのようなものにまで気を回しているとは思わなかった。

「赤の殿から夜半、急に月詠が出かけるようだったから、こっそり後をつけたんだ。結局行き先は丞相屋敷で、肩透かしを喰らってたところに、暁と別れた白鷺が飛び出してきた。で、話を聞いた俺もすぐに琵琶邸へ向かったというわけ」

 暁とのわずかな時間差のせいで、琵琶邸にたどりついたときには、周囲を丞相方の兵がぐるりと囲み、真砂は中へ入ることはおろか、近付くこともできなかったのだという。ゆえ、兵のひとりに「ちょっと眠ってもらって」装束と具足を拝借したと真砂は事の次第を明かした。丞相方の兵は、いくつかの陣営の寄せ集めだった。ゆえにこそ、できた芸当だろう。

「そなたというのはほんに……」

 自ら運んできた豆粥をかきこむ青年を見やり、朱鷺は呆れた顔をする。こと正攻法によらない状況において、この青年は真価を発揮するようだ。普通の人間は、朱鷺をさらう兵にとりあえず紛れてみよう、などという発想はしない。

「あいにくだけど、外の兵が思った以上に多い。蝶の頼みだから叶えてあげたいけど、ここから単身あなたさまを助け出すのはたぶん無理」
「……だろうな」
「ただ、外と連絡を取ることはできた」

 ふたりぶんの豆粥を空にした真砂は、すばやく周囲に視線を走らせた。まだひとがいないことを確かめて声をひそめる。

「『決行は十日後』」

 普段は愉悦の光を乗せている濃茶の眸が不穏に揺らめく。おそらくこのことを伝えにやってきたのだと朱鷺にも察せられた。小さく畳んだ紙片を朱鷺に押し付け、真砂は膳を持って立ち上がった。

「すべて読み終えたら食え。それか、そこの痩せ犬にでも食わせろ」

 暁にちらりと視線を向けると、薄く口端を上げる。それで話は終わったらしい。入ってきたときに倒した几帳を跨ぐ青年の背中に向けて、朱鷺は微笑んだ。

「そなた、意外にまめまめしく働くのう」
「もちろん、見返りを期待してのことですよ。もしここから無傷で脱出できたら。蝶は俺にちょうだい、『おにいさま』?」

 肩越しに不敵な一笑を寄越すと、たん、と軽やかに杖をつく。弾んだ足音が徐々に遠のくのを耳で追って、「高い見返りをつけられたものだ」と朱鷺は咽喉を鳴らした。
 開いた文には、朱鷺の奪還に関する仔細が記されている。すべてに目を通したのち、紙は部屋の灯りにくべられ、跡形もなく消え去った。




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