例年にない日照りが続く中、月の即位礼の準備は、粛々と進められた。式の次第と順序、各場面でのふるまいや装い。桜でもとてもわからなくなってしまいそうなことを、まだ六つの少女は黙々と覚えていった。もともと頭のいい娘なのだろう。
「さ、」
若宮御殿において、官吏や女官の解雇はなかったが、自発的に職を辞して故郷へ逃げ帰った子女はかなりの数にのぼったと聞く。以前と比べてぐっと数を減らした月付の侍女たちに代わり、桜が月のそばに侍ることが自然と増えた。橘方の人間である桜を宮中から下げる話は何度か出たようだが、月の慕いようが珍しかったためか、後任の人事がまとまらないまま、据え置かれてしまっている。
ひととおりの確認が終わると、月は桜の袖を引いた。「さ」というのは、近頃月がする桜の呼び方である。さくら、と最後まで言うのが大変なようで、いつも「さ」だけで終わってしまう。それでも「あー」や「うー」で呼ばれていたときを思えば、大進歩だ。桜は顔を綻ばせた。
「疲れたでしょう。戻ったら水まんじゅうを食べますか?」
「う!」
ほとんどのことに興味を示さない月も、甘味だけは別のようだ。年相応に喜色をみせた少女と手を繋いで渡廊を歩きだす。わずかに弾んで見えた足取りは、けれど角を曲がったところで不意に止まってしまった。
「殿下?」
じっと前方をうかがう月の視線をたどって、桜は瞬きをする。中庭を挟んだ対の屋を歩く影――氷鏡藍とその侍女である。蔓草の描かれた桔梗の打掛を羽織る藍は、こちらに気付いていないらしい。繋いだ手からは、呼びたい、けれど呼べない、という月の懊悩が痛いほど伝わってきて、桜はそっと息を吐いた。
「お母上のところへ行ってみましょうか」
軽く微笑んで提案してみたが、月はふるっと頑なに首を振って、下を向いてしまう。宮中に上がってしばらく経つが、実母である藍と月がともに過ごしている姿はほとんど見かけなかった。どころか、藍はわざと月を自分から遠ざけ、避けているようですらある。
藍にとっては、老帝に無理やり孕まされた子どもだ。子どもを持てない桜には、母親の感情について正確なところはわからなかったが、藍の頑なな態度は徹底していた。ただ、月のほうは未だに藍を慕っているらしい。素直に求めるということを知らないだけで、前髪に隠された少女の目は、いつも母親の影を追っている。
「……あ、」
藍の目が、ふいに月の前で焦点を結ぶ。桜を握る月の手が緊張で強張った。視線の応酬は短かったように思う。藍は不安そうな月の表情を見つめ、次いで半ば桜の腕にすがりついているような我が子の姿をみとめると、きゅっと眉根を寄せた。
「恐れ入るわね」
「……藍」
「おまえの、いちいちひとのものに取り入る節操のなさ。いっそ感心するわ。――だけど、ソレはやめておいたほうがいいわ。祖父と孫がまぐわってできた、ひとのかたちをしているだけの気味の悪い何かよ」
とっさに意味をはかりかねて、桜は口をつぐむ。蒼褪めた唇をぎこちなく上げ、藍は打掛を翻した。藍の背を菜子という侍女が甘い笑い声を響かせて追いかける。くすくす、くすくす。半月に開いた目と口は暗がりそのもののようだ。
――あの侍女は、苦手。
暑気にあてられた気分になって、桜は目を眇めた。
「戻りましょうか」
月はしばらくその場を動こうとしなかった。やがて前髪に隠された眸から、ぽろりと透明な雫がこぼれ落ちる。目を瞠らせた桜の前で、それはとめどなくぽろりぽろりと溢れては散った。頬に手を伸ばそうとしてから、思い直して、小さな身体を引き寄せる。
「わたしは殿下と前よりおはなしができて、うれしいです」
背中を軽く二三度撫でてから少女を促し、若宮御殿へ帰る。今日の予定はもうなかったはずだ。香の焚き染められた部屋は、夏の蒸し暑さのせいで、澱んだ空気がこもっている。疲れたかと尋ねると、月は泣き腫らしたあとのとろんとした顔つきで桜の手に額をくっつけた。
風通しのよいところへ出て、膝の上に小さな頭を横たえる。雪瀬が調子の悪いとき、よくそうするのを思い出したのだ。廂はちょうど日陰になっていて、木々を通して射す夕陽はやわらかい。宵どきのむらさきが月の白い頬を染めていた。蜩の声がどこからか聞こえてくる。
「静かですね」
桜は目を細めた。
「とてもしずか」
即位礼まであと三日。
月は明日から若宮御殿を出て、ひとり禊ぎのために社にこもる。これから嵐のような出来事が起こるとはとても思えなかった。不意に伸びた小さな手が、桜の袖を引く。微笑んで、手と手を繋いだ。月の手は熱く、繋いでいる桜の手もすぐに温まってしまった。
「あのひとがこれからすることは、あなたが必死に守ってきたものを壊してしまうのかもしれない」
まどろんでいる月に向けて訥々と言葉を紡ぐ。聞こえているのかいないのか、桜の手に頬をくっつけた月はぼんやり目を細めている。
何が各人にとってのしあわせなのかは、桜にはわからなかった。確かに、少女の身で性別を偽り、帝位につくことは普通ではないだろう。けれど、それがこの皇女にとっての不幸かはこの皇女にしか知り得ないことだ。孤独に押し潰されそうになりながら、月が必死に何を守っているのかも。そして月にとっての「日常」は、即位礼をもって終わりを告げる。
すべて無事、成功してほしい。
あのひとが命がけで向かっていった嵐の先には、青空が広がっていてほしい。だけど、すべてが終わったとき、月詠は、藍は、月はどうなるのだろう。この手とまた手を繋ぐことは、できるのだろうか。そう考えるとき、桜の胸には明暗が判別としない感情がうずまく。月詠や十人衆と対峙するときと同じだった。……くるしい。なくなってよいものなんて、本当はひとつもないのに。
「さ、」
ぽつんと罅割れた大地に射す雨のように、その声は桜を呼んだ。おもむろに身を起こすと、月は袖をたくし上げ、細腕に巻き付けていた布切れをほどく。小首を傾げた桜に、月はそれを押し付けてきた。
「……わたしにくださるんですか?」
「うー」
長く結んでいたせいで、ぼろぼろになっている布切れは、けれど深緑の微かな染料を残していた。そういえば、雪瀬にこのはなしは結局聞かずじまいだったなと思い出す。だが、この切れ端を誰がこの子に結んだかなど、もはや取るに足らない些事のようにも思えた。
「さ、」
こくりとうなずくと、月は桜の手首に同じように布切れを結ぶ。くたびれて色褪せた切れ端は、しかし桜の白い手首に鮮やかに映えた。ふわりと凪いだ緋色の眸が前髪越しに見えた気がして、凝った胸に別の感情が湧く。月にとって深い意味はなかったのかもしれない。思案げな桜の気配を敏感に感じ取って、慰めようとしてくれただけなのかも。けれど桜は。もしもこの先、どんな運命が月に降りかかったとしても、手を繋いでいようと思った。この子からささやかな日常を奪う代わりに。
「じゃあ、わたしもいちばん大事なものを殿下にお貸しします」
髪に挿していた銀簪を抜いて、鋭い先端に裂いた布を巻くと、月の手に握らせる。決して布をほどいてはいけませんよ、と念押しして。桜花を透かし彫りしたそれは、求婚のときに雪瀬から贈られた簪だった。唯一といっていいあのひとからの贈り物。手の上で淡く輝いた銀簪を月は見つめる。やがて幼子のように相好を崩した少女に、桜は額をくっつけた。
「次お会いするとき、また交換こしましょう。やくそく、です」
――その簪こそが恐ろしい運命を引き寄せるなど。
このときの桜にも、月にもわかるわけがなかった。
内裏の玉殿に朱の旛が立つ。
盛夏、快晴。
即位礼の朝は、かくのごとくやってきた。
「葛ヶ原領主殿」
早朝なれど、すでに苛烈な日射しに目を眇めた雪瀬は、門前に控える衛士に呼ばれて足を止めた。
「これより先は佩刀は不可です。刀をこちらへ」
もとより愛太刀の「白雨」は橘邸に置いてきていた。衛士が言ったのは懐刀のほうだ。橘紋の刻まれた鞘を取り、掲げられた黒檀の箱の上に置く。衛士が道を開けたので、玉殿へ通じる門をくぐった。一面に敷き詰められた玉砂利とその先にたたずむ玉殿、千の朱旛が一斉にたなびくさまは壮観だ。今日ばかりは公家衆も各地の領主も、紋や形に多少の違いはあれど、皆正装をしている。また、原則としてこの場に武器の持ち込みは認められていない。四方をめぐる塀の前には、佩刀した衛士が並んでいた。
「今日はくだんの引きこもりもおでましになるそうですよ」
案内された場所に向かうと、後ろからひそりと漱が耳打ちした。丞相のことだろう。正面の玉殿に月詠らしき人影はまだ見えなかったが、新帝の後見たる丞相に加え、母親である藍も、まもなくあの場所にのぼるにちがいなかった。
『屍の山を築きなさい。橘雪瀬』
がらんどうの目で空虚な笑い声を立てた女の横顔を思い出す。ひととき腕のうちにおさまった華奢な身体や、病的に白い頬、冷たい体温も。
あれから幾年が流れた。女の予言どおり、雪瀬は数えきれない屍の山を積み上げたし、そのなかには自らの手で斬り捨てたものも多くある。後悔はしていない。ただ、どうにもならないと、どうにもならないことなのだと、冷たい諦念が少しずつ積もるのを感じる反面、――それを苦しいと、思うことはある。彼女はどうだろう。むかえにきて、と冷たくわらったあのときの彼女のままなのだろうか。
繰り返すしかないのか。
凪と同じことをまた繰り返すしか。
短い懊悩の末、雪瀬はこぶしを握る。
――繰り返さない。
もうぜったいに。
にわかに衛士たちがざわめき出した。先触れの儀官が現れて、笙を鳴らす。一同が額づいた。玉殿に月皇子と丞相月詠、藍とが現れる。御座へと向かう小さな足音を雪瀬は張りつめた緊張のなかで聞いた。
盛夏、快晴。
澄み渡る蒼天の下、即位礼が始まった。