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五章、乱(10)




 遠くで火事を知らせる鐘が鳴っている。薄闇の中、うっすら目を開いた柚葉の耳にもそれは届いた。音が近い。視線をめぐらし、風のにおいを嗅ぐ。
 丞相と対峙したあの晩から、ずいぶん日が経った。意識が戻ったとき、柚葉は屋敷の蔵に放り込まれていた。手足には縄。月詠に対して真っ向から叛意を向けたのだから、殺されなかっただけマシなほうだ。最初の数日はろくに食料も与えられなかったので、このまま寒さと飢えで死ぬかと思った。が、ほどなく縄を解かれ、不格好な握り飯と水が置かれるようになった。ほどこしの主はいつも柚葉が眠っている間にやってくる。ただ、皿のふちにかしこまって留まる蠅が相手の名前を暗に告げていた。

『朱鷺帝は亀澤天領に移されたようだ。暁もそこにいる』

 外の目を盗んで格子から忍び入った扇が、そう状況を教えてくれた。雪瀬としては、すぐにでも柚葉を逃がすつもりでいたようだが、柚葉のほうが否と言った。

『私がこの屋敷から逃げれば、兄さまが丞相に疑われてしまいます。事を起こす前には、絶対に避けるべきです』

 幸いにも、柚葉の処遇はひと月が経つ頃には、屋敷での軟禁に戻っていた。柚葉は雪瀬に対する人質である。ならば、ぎりぎりまで囚われていることにこそ意味がある。そのように考え、即位礼の当日まで柚葉は丞相屋敷の一室にこもり続けた。
 
「柚葉。いるか」

 畳に座して目を瞑っていると、足元から小さな呼び声がした。常ならば警戒するところであろうが、その声に覚えがあって、柚葉はくすりと笑う。

「お忍びですか、空蝉様」
「おうよ。待たせたな。おまえを助けに来た」

 気安い調子で言った空蝉に、「……助けに、ですか?」と柚葉は瞬きをする。扇と接触したのは一回きり。未だ状況がのみこめずにいる柚葉に、空蝉が説明をする。

「雪瀬が仕掛けた。朱鷺は颯音が救出に向かっている。万一のこともある。ここから逃げるぞ」
「兄さまは今?」

 柚葉が丞相屋敷に軟禁されている間に、事態はめまぐるしく動きだしたようだ。一瞬、空蝉を信頼してよいか疑念がよぎったが、彼らが雪瀬の食客をしていることは柚葉も承知していたし、柚葉を丞相邸から逃して彼らの利になるようにも思えなかった。何より空蝉は柚葉の身を本当に案じてくれているように見える。

「内裏だ。玉殿で、即位礼に臨んでいる」
「でしたら……!」
「同じボヤ騒ぎは、まもなく大内裏の門でも起こる。大丈夫だ。うまく逃げるさ」

 空蝉はなんでもないことのように言ったが、雪瀬が危険な賭けに臨んでいることはすぐに察せられた。まったくあの兄は、と舌打ちする。柚葉にひとを差し向ける頭はあるのに、己の足元にはきちんと目を向けているのだろうか。心配になる。

「話はわかりました」

 うなずき、柚葉は壁伝いに立ち上がる。襖を開くと、門兵のいる表門を避けて、裏木戸のほうへ回った。

「沙羅様は?」
「騒ぎを広めている。衣川の下流で合流する予定だ」
「わかりました」

 外では幾人かの兵と医者の朧が待っていた。柚葉の様子を見た朧は「まったくこの一族はこれだから」と頬を歪めて、柚葉を兵に背負わせる。己の足で歩きたかったが、正直、ひとところに閉じ込められていたせいで、思った以上に消耗がひどい。ここは心遣いに甘えることにした。
 
「表の兵が気付かないうちに離れましょう」

 注意深く裏木戸を閉めた兵は、中途ではっと足を止める。行く手をふさぐひとりの少女。肩で切り揃えた短い髪を風に揺らし、柚葉のほうへ冷ややかな紫紺の眸を向けている。月詠の十人衆、白藤である。予想しなかった、とは言わない。されど、やはりか、という思いがこみ上げて、柚葉は唇を噛んだ。

「ここを出て行くの、ユズハ」
「残念ですが、そうなりますね」
「出てはダメ。月詠様がそう言った」
「私を阻みますか?」
「ユズハが出て行くなら、そうする」

 思ったとおり、白藤は譲らない。柚葉は嘆息した。朧の差し出した腕を支えに何とか立つ。この状態では、柚葉にできる勝負は一度きり。その一度にすべてを賭ける必要があった。
 すべてを。
 息を吸いこんで、静かに吐く。
 大丈夫。そういう勝負には慣れている。

「仕方がありません。では、力づくでも」

 袖を翻し、すばやく印を切る。旋風が巻き起こり、白藤の背後の大木が爆ぜた。落下する無数の木片に白藤の注意が向かった隙に、続けざまに風を放つ。白藤の小さな身体が塀まで吹っ飛ばされた。

「捕えて!」

 兵たちに命じるが、直後、ひゅん、と空を切って数本の針が飛んでくる。柚葉は兵のひとりから引き抜いた刀でそれを叩き落した。が、そのわずかな間に白藤は体勢を立て直したらしい。肩を庇って荒く息をつく少女の手には、投擲用の針が数本握られていた。

「月詠様が言った。ユズハを逃がすわけにはいかない」
「そうですか」

 傷ついた肩ではうまく狙いを定められないのだろう、白藤は針を構えたまま動かない。柚葉も同様だ。息が上がる。眩暈がする。もう、風は出せない。暫時、白藤と柚葉の間で視線の応酬があった。どちらも一歩も引かない。唇を噛んだ柚葉は、そろりと白藤の背後へ視線を向けた。
 よぎったのは悔しさ。
 されど、認めなければならない。
 勝負の行方をほかの女に託す悔しさをのみこまなくてはならない。柚葉は目を伏せた。それを合図に、白藤のほうへ伸びた手が、とん、と痩せた背を押す。まるで風に倒れる花茎のようなやわさで、白藤の身体がくずおれた。地面に倒れる前に、差し出された腕が白藤を抱く。百川紫陽花と柊であった。

「この娘……。どうやら『人形』であったようじゃの」

 元人形師の女は薄くわらうと、肩をすくめる。

「どこぞの人形師が作ったものが丞相のもとへと流れたか。しかし、無事でよかった、橘の妹君」
「おかげさまで、助かりました。あなたは傍観に徹するものかと思っていましたが」
「そりゃあ、荒事は苦手であるもの」

 紫陽花は沙羅とともに東地区の扇動にあたっていたが、合流の遅い柚葉に気付いて、丞相屋敷まで戻ってきたらしい。状況を説明したあと、「それで、この娘はどうする?」と紫陽花は柊に縛らせた白藤へと一瞥をやった。

「十人衆であることを考えれば、息の根を止めておくべきかのう」

 白藤を縛ったのは呪のほどこされた特殊な縄である。彼女の周囲にいつも飛んでいた蠅が消え失せている。「そうですね……、」とうなずこうとした柚葉の前で、一度は閉ざされた紫紺の眸がふわりと開いた。自分を取り囲む紫陽花たちを見て、状況を理解したのだろう。白藤は大きく眸を瞠って、それからきゅっと眉根を寄せた。丸腰の十人衆だ。息を止めるべきか、と判断する。判断してから、少し笑う。自分にしては珍しい衝動が沸き上がったためだった。

「仕方ありませんね」

 苦笑して、柚葉は白藤のほうへ手を伸ばした。眼前に迫った手のひらに、白藤の身体がびくっと大きく震える。

「この『人形』は私がもらい受けます」

 己の放った言葉にいちばん驚いたのは、もしかしたら柚葉自身であったのかもしれない。このように敵方の娘に肩入れなどして、まるで兄のようだ。そういう兄を守るために、柚葉は決してなにものにも心を動かさないと決めたのに。
 呆けた顔をしてこちらを仰いだ白藤に、柚葉は薄くわらった。
 けれど、この一度きりだ。白藤は柚葉に握り飯と水を与えたから。そしてその白藤に最初に握り飯を与えたのは、たぶん桜であったから。柚葉が愛するあのしろくて尊いものだから。一度だけ、手折らず、残してみたいと思う。

「私ではありません、これは『姉さま』の温情ですよ」

 まったく甘いことじゃ、と腕を組んだ紫陽花には、だから肩をすくめておいた。




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