天地への感謝の祈りから始まった即位礼は、中盤に差しかかろうとしていた。日はちょうど中天を射し、立ち並ぶ者たちの顔にも汗が滲む。黄の袍を纏った月皇子の姿は雪瀬の立ち位置からはよく見えなかったが、初代からの帝の系譜を読み上げる官吏の声は途切れることなく続いている。雪瀬は灼熱の日輪からそむけるように、目を伏せた。――颯音は滞りなく朱鷺を奪還できただろうか。沙羅と空蝉は。柚葉は。ほかの皆は。
合図は、まだ来ない。
うだるような熱気のなか、焦燥だけが募っていく。雪瀬は臆病なたちである。楽観的な思考もできないし、すべてをひとに任せて泰然としていられるだけの器もない。だからこそ、念入りな下準備は欠かさなかったけれど、それでもいざ事に及ぶときには、今にも逃げ出したいような気持ちに駆られる。案の定、じくじくと痛みを訴えている腹のあたりを押さえて、雪瀬は息を吐いた。
にわかに衛兵が騒ぎ始めたのは、日が中天から傾き始めた頃だ。伝令のうちのひとりが走ってきて、月詠に何かを耳打ちする。
来た。
声は聞こえなかったが、雪瀬は確信した。月詠と周りの公卿が短く言葉を交わして、首を振る。系譜を読み上げる声も止まったので、出席していた官吏や領主の間にもどよめきが広がり始めた。漱がちらりと視線を寄越す。
――大内裏北の方角で放火があったとの由!
衛兵が月詠に報告したのはこのような内容だろう。
そう長くない話し合いの末、兵が下がり、一隊を連れて玉殿から離れる。すぐに避難の命が出されると踏んでいた雪瀬は、月詠が何がしかを考え込むように下方へ視線を落としたのを見て、眸を眇めた。
雪瀬は朱鷺の救出にあわせて、官吏街のある玉津卿の廃屋敷で「火事」を起こし、かつ、大内裏でも同様の「放火」があったと流言を流した。廃屋敷はすぐに消火をさせているし、大内裏自体には火をかけてすらいない。ただ、どこともしれない場所で放火があったと報告があれば、確認のためにいったん即位礼を取りやめざるを得ない。放火犯が見つからなければなおのこと――そう踏んでいた。だが。
「検察史」
未だ慣れない役職名のほうで呼ばれて、雪瀬は顔を上げた。伝令がかがんで促し、月詠のもとへ参じるように言う。雪瀬の背に冷たい汗が伝った。……何故、この局面で「俺」を呼ぶのか。思考をめぐらせながら、表向きは困惑気味の表情を繕って、きざはしをのぼる。
殿上では幾人かの公卿と月詠が待っていた。左右異なる双眸は、雪瀬が膝をつくと、感情の薄い一瞥を送った。
「大内裏北で放火があったらしい。いまだ位置は把握できていないようだが、おまえはどのように見る?」
国の治安を守るのが検察史の職である。月詠が雪瀬に言葉をかけたのはそれにのっとると、何ら不自然なことではない。不自然ではないが――……。本当にそれだけだろうか。
ひやりとした疑念が走って、雪瀬は口を閉ざした。
「……わたしの考えは」
雪瀬にすれば、即位礼の中止を進言したい。だが、仮に月詠が雪瀬に対して何らかの疑惑を抱いているのだとしたら、その答えこそが確信に至らせるのでは。考えると、重苦しい塊が咽喉を塞いだ。ここで失敗は、できない。できない、どうしても。それは自分だけでなく、自分に協力したすべての人間の身の破滅を意味するからだ。
一時黙り込んだ雪瀬に、周囲の者が不審げな視線をやる。膠着状態を破ったのはしかし、思わぬ声だった。
「火が館に燃え移ったぞ!!!」
一同に緊張が走る。熱気で揺らぐ青天。そこを過ぎ去る鳥影を見たとき、あるべきところにすっと思考が収まった。直後、雪瀬は一歩前に進み出る。
「判断はつきかねます」
そう述べてから、「ただし」と慎重に続ける。
「この状態では、即位礼の継続は困難かと」
一時、月詠と視線がかち合う。底をのぞきこむような昏い眸に、雪瀬は唇を引き結んだ。冷ややかな目を、たぶんお互いしていたはずだ。軽い吐息とともに、視線が外される。月詠は腹を決めたようだった。
「即位礼は一時中断する。門衛、中の者を外へ避難させろ」
「御意に」
月詠の声はそう大きくないが、不思議とよく通る。突然の騒ぎに慌てふためいていた兵が一様に表情を正し、北の状況確認と避難誘導にひとを振った。
「わたしも北門のほうへ参りましょう」
それとなく言って、雪瀬は身を翻した。これは作戦時に決めていた役割でもある。検察史の職から考えても自然であるし、何より、誘導する側よりも自由に動ける。雪瀬は御簾のかかった殿内へ肩越しに視線をやって、今まさに月皇子のもとに向かっているだろう娘に想いを馳せる。彼女にこういった役割を与えることは、雪瀬の本意ではなかったが、月に近付ける人間はほかにいない。
誘導の人波に流れる漱に目配せだけを返して、雪瀬は玉殿の外へ出た。待ちわびたかのように腕に扇が止まる。ひらりと翼を畳んだ白鷺に、「さっきはありがと」と雪瀬は微笑んだ。
「火が館に移ったってやつ、抜群の頃合いだった」
「任せておけ。ずっといつ言おうかうかがっていたんだ」
胸を張る扇はしたり顔だ。
扇の声だとわかったからこそ、雪瀬もまた、すぐに中止を申し入れることができた。正直、月詠の前では答えあぐねていたから、扇の一声が入らなければ危うかったとも思う。
「柚葉は?」
「無事だ。今沙羅たちと逃げている。兄さまは馬鹿ですかってさんざん言っていたぞ」
「元気そうでなによりだ」
朱鷺の救出についてははなから心配をしていない。あとは速やかな離脱と、月皇子の件さえうまくいけば、計画は成功だ。
「桜に……あの子に賭けるんだな」
「――大丈夫」
心配そうに首をめぐらせた扇に、雪瀬はそっとわらった。
「うちの奥さんは俺よりもずっと肝が据わっているから。うまくやる」
そして遠目に見えてきた北門を仰いだ。
「あいにくと」
嵯峨に対峙した颯音は、軽やかに肩をすくめる。
「葛ヶ原領主はそこまで甘くない」
「何を、」
眉をひそめた嵯峨は、直後、物見櫓で鳴らされる鐘音を聞いた。鳴らしているのは義足の青年――真砂だ。
「月はまだ即位をしとらん。つまり俺もまだ、譲位を翻すことができる」
颯音の後ろから現れた朱鷺はゆるりと笑んだ。軟禁状態にあったときとは異なり、その姿には威厳すら漂っている。のまれそうになって、嵯峨は眉間に皺を寄せた。
「帝は俺ぞ、嵯峨卿。家臣であるなら、早々に兵を引け。それとも、俺に刃を向けて逆臣となるか」
「そのような戯言……!」
「ならば、こちらも兵を動かすまで。絵島の兵は千と言ったな? 今、亀澤天領の外には、南海領主・網代あせびの私兵が二千控えておる。この鐘は俺の命令を意味するぞ、嵯峨卿。あせびを動かし、逆臣を討ち取る」
病身のため、床を離れられぬと伝えていた南海領主、網代あせび。雪瀬たちが目を付けたのがこの南海兵だった。無論、朱鷺の命令がなければ、あせびは絵島を相手に交戦することができない。颯音たちが無事朱鷺を救出したその上での最後の切り札であった。死者をほとんど出さず、南海各所を守った葛ヶ原領主に恩義を感じている者は多い。士気を上げた兵たちを連れて、今頃あせびは喜々として矢をつがえているにちがいなかった。
「時間を差し上げましょう、嵯峨卿」
怒りのためか青黒く顔を染めた男へ、颯音は静かに言った。
「降伏するか否か。どうか賢明な御判断を」
くそ、と引き結んだ唇から罵りの言葉が漏れる。男をあざ笑うかのように鐘音は亀澤天領にいつまでも響き続けていた。
「月殿下!」
放火騒ぎで逃げ惑う女官たちの間をすり抜けた桜は、いち早く月のもとへとたどりついた。月は御座のそばに侍女たちとともに所在なくたたずんでいた。桜に気付くと、「さ、」と呟いて袖を引く。ひとまず無事だったことに安堵して、桜は息をついた。
「ここはあぶないです。出ましょう」
未だ状況がわかっていない月と月付の侍女に大内裏の北で起きたらしい火事のことを説明し、六歳になっても羽根のように軽い身体を抱き上げる。桜の首筋にきゅっと月の腕が回る。だいじょうぶ、と伝えるように背をさすって、桜は女官が入り乱れる廊下を歩き出した。玉殿を抜けて、ひとの流れとは反対の方向へ向かう。ここに至り、付き従う侍女にも、にわかに不審がよぎったらしい。
「待ちなさい。いったいどちらに向かわれているのです、桜さま」
鋭い視線を向けられたが、それには答えず、桜は人気の絶えた場所で抱いていた少女を下ろした。黄の袍はこの痩身の少女にはひどく重たげだ。おぼつかない仕草で立った月は、不思議そうに桜を見上げた。その前髪をそろりとかきあげる。緋色の眸がまぶしそうに細まった。
「殿下」
呼びかけてから、ひとときためらう。これからすることは、たぶん、しなくてもいいことだ。でも。だけど。
真摯に自分を見上げる幼い眸を見つめると、覚悟が決まった。この子はずっと「もの」として扱われてきた。けれど、桜は「ひと」として月と向き合いたい。かつて桜をここから逃がしてくれたひとたちのように。
「お伝えしなければならないことがあります。これから私はあなたを――かどわかす、つもりです」
かたわらで聞いていた侍女が目を剥く。「なっ!?」と叫びかけた侍女を視線で制して、桜は少しかがみ、月と目を合わせた。
「どうされたいか、殿下に聞きたい」
「そなた……っふざけるのもいい加減に……!!」
「しずかに。私は殿下と話しているんです」
ぴしゃりと桜が言えば、侍女は気圧されたように黙った。しばらく桜をうかがってから、月がそろりと睫毛を伏せる。ああ、この子はたぶんぜんぶわかっているのだろうな、と思う。今何が起きていて、これから何が起きるのか。言葉にできなくても、難しいことはわからなくても、それでも。
「私はあなたの日常を壊してしまう。それでも……守るから。必ず守ると約束するから。わたしについてきてくださいますか」
感情の薄かった眸が大きく瞠られる。月はゆるゆると首を振った。小さな身体にさまざまな葛藤がよぎるのを桜は感じ取った。その手がいつものように手首を引き寄せようとし、そこにすでに何もなかったことに気付いて、瞬きをする。ふ、と嗚咽にも満たない喘ぎがこぼれ落ちる。今にも泣き出しそうな少女を引き寄せたくなるのをこらえて、桜は根気強く月が言葉を紡ぎ出すのを待った。やがて震える手が桜の袖端をつかむ。――つれていって。声もなく乞うた少女にくしゃりと表情を崩すと、桜はその身体を力強く抱き寄せた。