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五章、乱(12)


 千鳥と合流した桜は、まず月を千鳥が用意した衣装に着替えさせた。月の顔を知る者は少ないが、龍紋に黄の袍を見れば、それだけで皇子であることがわかってしまう。髪も解いて、女官見習いの子と同じように色紐で結ぶだけの形に直すと、どこからどう見ても、普通の女児が生まれた。ちなみに、月付の侍女たちは、千鳥に手刀で眠らせてもらった。かわいそうだが、一緒に連れていくことはできないので仕方ない。

「こちらです」

 人気のない道を選んで先導する千鳥の足は速い。月の身体は同い年の女児に比べてもずっと軽かったが、抱えながら走るというのは少し骨を折る。息を整えた桜に月が不安そうな目を向ける。だいじょうぶだというように淡く笑むと、官庁の並ぶ道を抜けて、外へと続く門をくぐった。うまく扇動したのか、門衛たちはいなくなっている。塀に横付けされる形で、馬が数頭並んでいた。

「薫衣」

 呼ぶと、先頭の黒毛を撫でていた女が顔を上げた。桜の腕に抱えられた少女に気付いて、「無事だったか」と息をつく。

「薫衣は味方だから、だいじょうぶ」

 心もとなげに身をすくめる月の背を安心させるようにさする。一度千鳥に月を預けてから、桜もまた馬上のひととなった。馬の鬣にそっと手をやって、おねがいします、と胸の中で乞う。相手にも気持ちが伝わったのか、こたえるようにふるんと身を揺らしてくれた。月を抱き上げて前に座らせると、落ちないようにたすきで固定する。葛ヶ原で訓練したおかげで桜も馬の扱いには慣れてきていた。

「先に行ってください。私は雪瀬さまをお待ちしてから向かいます」
「わかった。ここまでありがとう。気を付けて」
「あなたも」

 千鳥と別れ、馬の腹を蹴る。衝動にぎゅっと目を瞑る月を支えて、駆け出した馬に勢いを任せる。視界いっぱいに広がった空は、落日のなか真っ赤に染まり、今まさに燃え盛るかのようだった。炎天。炎を宿した空色は桜の瞼裏に強く焼きついた。
 帝の居住や玉殿などのある内裏の外に、官庁や女官たちの住まい、兵の詰所がひしめく大内裏がある。大内裏のうちはさながらひとつの街のようで、端から端までは馬ですら時間がかかった。

「薫衣! 雪瀬から伝言だ」

 頭上から鋭い声がして、隣を白鷺が併走し始めた。先頭の薫衣が軽く顎を引いて続きを促す。

「亀澤天領から奪還の成功を意味する砲の打ち上げがあった。伝令はまだだが、滞りなく網代あせびと合流したはず。旧玉津邸は、駆けつけた火消し隊が消火済。北門へは雪瀬たちが向かっている」
「了解」

 この様子だと計画はほぼ成功、あとは月殿下を連れた自分たちが無事外に出られさえすればよい。幸いにも、腕の中の月は取り乱す風もなく落ち着いている。

「俺は雪瀬のもとに戻る。頼んだぞ」
「ああ。気をつけろよ」

 短いやり取りのあと、扇は北の方向へと飛び去った。斜陽で赤く染まる鳥影を見送り、桜も再び前を向く。先ほどから何度か門衛と行き当たったが、疑われることなく通過をできている。残る門は大内裏最大の西門のみ。ここを通り抜けさえすれば――……。迫りくる門を桜は見上げた。

「待て。どこの隊の者だ」

 こちらの門には少なからず、兵が残っていたらしい。呼び止められ、まず先を行く薫衣が馬を止めた。

「五條薫衣。葛ヶ原の者です。あるじの命に従い、避難し遅れた者がいないか見回っておりました」
「葛ヶ原……、確か検察使だったな」
「ええ。橘雪瀬は北門の確認に向かっています」
「そちらの女が抱いている子どもはなんだ」
「女官見習いのむすめです。……迷子になっていたので」

 あらかじめ考えていた問答をなるべく平静を装って返す。ちらりと桜が抱く少女に目を向けてから、「ふむ」と門衛はうなずいた。

「おつとめご苦労。門を開けろ」
「ありがとうございます」

 人知れず息を漏らした桜は、しかし別の方向から気配を感じて、びくりと肩を跳ね上げた。背後から唸りを上げて、槍を突き出される。間一髪かわしたものの落馬し、月を抱えたまま地面に叩きつけられた。一瞬視界が暗転しかける。直後、抉られるような痛みが肩に走って、桜は呻いた。肩を貫いた槍が、桜の身体を地面に磔のようにしている。視線だけを上げて、桜は息をのんだ。

「つ……く、よみ」
「やはり、こういうことか」

 槍を握っていたのは十人衆の伊南、その隣に幽鬼のように立つのは黒衣の丞相・月詠だった。薫衣たちも、月詠方の兵に皆、刀を突き付けられている。

「月」

 桜の腕からまろび出て、不安げに身を起こした少女へ、月詠が厳かに呼びかけた。あたりの惨状を見回し、月が声のない悲鳴を上げる。

「どこへ行くつもりだ」
「……うう」
「おまえに流れる血はなんだ」

 月がいやいやするように首を振る。月詠の声は、特段高圧的でも、責め立てるようでもなかった。ただ問うているだけだ。おまえは何者なのかと。

「き、かなくていい」

 荒く息をついて、桜は月詠を睨めあげた。だって、月は月だ。その身に流れる血など、この少女には関係ない。呼吸をするのも苦しく、うまく言葉を紡ぎ出せないのがもどかしかった。それでもなお身じろぎをしようとした桜の肩にさらに槍がめりこむ。指先が痺れて動かせなくなった。

「月」

 互い違いの眸を細めて、月詠が口を開いた。

「藍をひとりにしたくはないだろう?」
「殿下!!」

 咽喉から声を絞り出す。藍の名を出されると、月の顔つきがにわかに変わった。惑いを帯びていた眸にみるみる薄い水膜が張り、こくんと首を振る。最後に少女の手がいたわるように桜の指先を握った。その仕草は謝罪と後悔に満ちていて――。

「月!!!」

 だめだと、いってはだめなのだともがく。広がった傷口から、じわりと血が滲んだ。伊南が痛ましげに眉根を寄せて、槍を引き抜く。激痛が走って意識が遠のきそうになるのを、桜は地面に爪を突き立てて耐えた。

「つ、くよみ、」

 半身を庇って身を起こし、月の身体を抱き上げた男を阻もうとする。けれど、指が震えてうまくつかめない。そのとき、桜を突き動かしていたのは、作戦を成功させるという打算では、もうなかった。まごうことなく、月詠は月を暗い泥濘に連れていくのだと目が言っていた。行かせてはならないと思った。月も。……月詠も。
 うしないたくない。
 もう。なにも、なくしてしまいたくない。
 指先が月詠の黒衣にかかった。握り締めて、なおもすがろうとする桜を月詠は静かに見ていた。頭にふわりと男の手が触れる。それだけの軽やかな仕草で、桜は月詠から引き離された。傾いだ身体が受け身も取れずに地面に転がる。

「待っ……」

 手を伸ばす。けれど、眼前で翻った黒衣は手のうちから滑り抜けた。伊南がちらりと気遣わしげな視線を寄越してから、血を拭った槍を担ぎ上げ、離れていく。瞬間、薫衣が動いた。刀を突き付けていた兵のひとりを蹴り上げると、刀を奪い去り、それでふたりめを斬る。

「桜!」

 周囲がひるんだ隙に、地面に力なく横たわる桜を抱え、飛び出してきた馬にまたがった。付き従う部下たちも同様に拘束する兵の手から抜け出して、馬を奪い去る。逃げるぞ、と薫衣が囁く。……いやだ。つきは。つきは、どうなるの。桜は小さく首を振ったが、ほどなく意識はほどけ、思考も途切れた。




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