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五章、乱(13)




 亀澤天領から救出された朱鷺は近臣を伴い、都の橘屋敷に入った。こうべを垂れた雪瀬たちの前にこざっぱりとした姿で現れた朱鷺は、譲位の無効、並びに月詠の丞相職の解任と自らへの謀反罪とする勅令を出した。
 対する月詠は、月皇子やその生母にあたる藍、側近らを連れて、いち早く都から逃れた。古き白雨領・糸鈴(いとすず)の地に兵を構えると、朱鷺の復位の無効と、葛ヶ原領主・橘雪瀬こそを謀反人とする旨の勅令を「月帝」の名で出した。
 ここにおいて、北と南に朱鷺と月、二帝が立つ。それは二百年前、国が東と西に分かれて争っていた時代を思い起こさせた。




 館の外壁に吹きつける風音で、藍は目を開いた。
 都から陸路をたどり、ひそかにこの地へ入って数日。道中は十人衆が付き添ってくれたが、やはり久方ぶりの山道は身体にこたえたようだ。糸鈴に着くなり熱を出し、寝込むはめになった。
 月は何故か、藍から片時も離れなかった。
 藍は月を可愛がったことはない。ただの一度も。母親らしい情を抱いたこともない。抱く前に、乳母のもとへと預けた。月は老帝との間に、月詠の野心を叶えるためだけに作った子どもである。あまつさえ、性別すら偽って。だから、あいするものではないと、ずっと己に言い聞かせてきた。
 愛に飢えた少女は、ずっと獣のようなふるまいで側付きの侍女たちをおびえさせていた。そう聞いている。けれど今、褥から離れられない藍のそばでぼんやり過ごす月は、不思議と落ち着いていた。このむすめにたぶん、与えた者がいたからだ。愛。月と手を繋いでとことこと外廊を歩く女の顔が瞼裏によぎって、藍はどうしてか、忌々しいような、それでいて安堵するような、不思議な気持ちに駆られた。
 半身を起こして、乱れた髪をかき上げる。月は褥のそばに丸まってすぅすぅと寝息を立てていた。少女の細い肩に手を伸ばしてから、中途でためらい、手を下ろす。触れることはやっぱり、できなかった。
 一生できない。そんな気がする。

「菜子」

 侍女を呼ばい、月の世話を言いつけると、綿入りの羽織をかけて外に出る。さくさくと枯れた草むらを歩くと、葉裏に宿った露で見る間に裾が濡れた。糸鈴の地は北方の山間に位置することもあり、秋のさなかであるのに、もう肌寒い。しばらくすれば雪も降るだろうと、山を渡る民が教えてくれた。彼らはどの領地にも属さず、山から山へと移動する流浪の者であるようだ。

「ここが父さまの生まれ育った場所……」

 紅葉を始めた山里を見渡す。里の千本桜は二百年前、光明帝が国の統一を成し遂げたとき、白雨の棟梁が所望し賜ったものらしい。黒々とした大樹はどれも老齢になるが、風に吹かれてもびくともせずにたたずんでいる。

「春になると、一面に花が咲いて、里が薄紅に染まる」

 いつの間にか隣に立っていた男が、互い違いの眸を細めて言った。男の話す光景を想像して、きれいですね、と藍は素直にうなずく。これだけの桜が一斉に花開く姿は確かに壮観だろう。月詠はそれ以上は話さず、白日の透明な光を仰いだ。
 月を帝位につけたうえで、王朝そのものを滅ぼそうとする月詠の野望は砕かれ、藍たちは都を追われた。月が手のうちにいる以上、大義はこちらにもあるはずだが、すぐに糸鈴に駆けつけた兵は思ったよりも少ない。どの領主も今は静観しているようだ、と伊南が言っていた。朱鷺につくか、月につくか。あるいは、橘につくか、月詠につくかと言い換えてもよい。この均衡はおよそささいな変化で崩れるだろうことも予想された。
 雪瀬は次にどんな手を打つだろうか。
 兵を率いて現れるのか。わたしたちの前に。
 わたしたちの幕を引くために。

「花が見たいか。藍」

 里のほうを眺めていた月詠が戯れに訊いた。
 答えは決まりきっていたので、藍は目を伏せる。

「藍は最期まで月詠様のおそばに」

 急に足元から吹いた風が頬にかかった黒髪をかき乱す。風音のせいで、月詠がどんな言葉を返したのか、そもそも返事自体をしなかったのか、藍にはわからずじまいだった。けれどもう、どちらでもよい。大事なのは、藍の居場所は月詠のそばにあるというただそれだけだ。
 月詠と別れた藍はひとり里に下りて、桜の大樹に触れてみた。ごつごつとした幹は、陽のおかげか、ほんのりとあたたかい気がする。額をあてて目を瞑った。そうすると、幼い日に幼馴染たちと桜を囲んで笑いあった日々が蘇り、胸に複雑な影を落とす。
 橘雪瀬はやがてこの地にやってくるだろう。
 予感めいた確信を藍は抱いている。
 そういう男だ。そういう男であるはずだ。
 自分たちを追い詰めた男の面影を思い出すたび、藍の胸には行き場のない怒りと忌々しさ、そして淡い歓喜が去来する。これはなんていう感情なのだろう。はじめはもっと純粋なものだったはずなのに、時を重ねるごとにもつれて、爛れて、歪んで、曲がって、藍にももう、これが何なのか、何だったのか、どこへ行く着くのかすらわからない。わからないのだ、もう何も。かつてわたしたちがこの樹を囲んで何を約したのか。雪瀬はきっと覚えているだろう。藍は忘れてしまった。もうわからなくなってしまった。ただ。
 焦がれている。
 待ち、焦がれている。

「ずっとずっと、おまえだけを私は、」

 呟いて、藍はすこし笑った。けれどそれはすぐにいびつに崩れてしまって、こぼれるものもとどめておけなくなる。老樹に額を押しあてたまま、藍はしばらく背を震わせながらそこにたたずんでいた。




「雪瀬さま」

 蜜蝋の下で開いた地図に目を落としていた雪瀬は、竹の呼声で顔を上げた。まだお眠りにならないんですか、と若干不機嫌そうに唇を尖らせ、竹は散らばった書物を整理する。
 夜半、都の橘屋敷である。糸鈴に兵を構えた丞相月詠に対し、雪瀬は都の橘屋敷で朱鷺帝を戴いたまま、動かずにいた。

『謀反人・月詠を討て』
『謀反人・橘雪瀬並びにこれに与する者らを討て』

 北と南の地にて、二人の「帝」から同時に発せられた勅令は、小さな島国に動揺をもたらした。もともと、計画の中で雪瀬が朱鷺だけではなく、月皇子をも手中におさめようとしたのは、二帝が対立する事態を避けるためでもあった。しかし月は奪われ、月詠は十人衆たち少ない側近と藍を連れて糸鈴の地へと逃れた。
 すぐに朱鷺帝、月帝に恭順の意を表した者は少数で、大半は未だ沈黙を続けている。どちらかに振れれば、たちまち雪崩おちるような微妙な均衡の中で、ひと月が過ぎようとしていた。

「雪瀬さま、いらっしゃいますか!」

 ぬるまった白湯に口をつけていると、千鳥が部屋に飛び込んでくる。転がるように膝をついた少女は、「蕨坂が月詠への恭順の意を示し、糸鈴へ上っているとの由」と言葉少なに状況を告げた。

「動いたね。あちらが先だったか」
「蕨坂(わらびさか)は、都の北方から海岸線沿いに糸鈴に出る経路をとったようです。兵の数は千。朱鷺帝に反発する公家衆の私兵もいくらか混じっているようです」

 不安げに眸を揺らした千鳥に、雪瀬は「問題ない」と顎を引いた。文箱を千鳥のほうへ差し出す。中の書状は、南海領主・網代あせびのものだ。帝に復位した朱鷺によって軟禁が解かれたあせびは、朱鷺の密命で兵を集め、糸鈴に続く海岸線を張っている。糸鈴に近付く兵があれば、たちまち蹴散らされよう。
 数日後、南海から蕨坂撃退の報告を受けた雪瀬は、その旨を携えて朱鷺のもとへ向かった。朱鷺は「放火事件」を起こした大内裏から、一時的に橘屋敷の離れに居を置いている。失礼します、と襖を引いた雪瀬は、濡れ縁でのんびりと虫の声を聞いている朱鷺の背を見つけて嘆息した。

「夜風に当たり過ぎると風邪をひかれますよ」
「ふん。そなた、小姑のようなことを言うのう」

 なんだ小姑って、と雪瀬は渋面になったが、ひとまず下座についた。庭のうすべにに色付いた萩がさらさらと揺れている。山の端にのぼる月はちょうど丸く満ちていた。

「報告をしても?」
「かまわぬ」

 許しを得て、雪瀬は蕨坂が月詠に援軍を出そうとしたことと、南海が糸鈴の手前で撃退したことをかいつまんで話した。

「南海が糸鈴手前で張っている限り、近付く者は皆蹴散らされましょう。これで月詠も、彼に与そうと考えているものもわかったはず。糸鈴は完全に孤立をしていると。今回の件で、各地の領主が続々とこちら側につき始めています」
「思ったよりも早かったな」

 ふうむ、と唸る朱鷺は別のことを思案しているようだった。組んで腕を解いて、おもむろに尋ねる。

「そなた、どこまで読んでおった?」
「は」
「もしや月を奪われるやもしれんところまで予想して、南海に兵の準備をさせておったのか」

 苦笑した朱鷺に、雪瀬は肩をすくめた。

「そこまで考えていたわけじゃありません。ただ、月詠は月皇子をなんとしても手に置きたがるだろうとは思ってました。わたしは臆病なので、あせびさまにもしものときのことを頼んでおいただけです」
「臆病者は、即位礼の最中に仕掛けようなどと考えぬものだ」
「橘颯音ならできると踏んだだけです」

 実際、颯音は寡兵であっても、鮮やかに朱鷺の奪還を成し遂げた。雪瀬はただきりきりと胃の腑を痛ませながら即位礼に出席していただけだ。毬街の自治衆も、蜷のアランガも、百川諸家や南海連合の者たちも、皆惜しまず協力をしてくれた。すべて陛下のご人徳がなせる業でしょう、と雪瀬が言うと、朱鷺は曖昧に首をすくめる。

「報告は、以上か?」

 尋ねた朱鷺に、雪瀬はひととき黙する。それから、すいと一歩前に進み出た。雪瀬が朱鷺のもとを訪れたのは現況報告のためではない。この話こそをするためだった。

「陛下。ひとつお願いがあります」
「なんだ?」
「わたしを糸鈴に遣わしてください」

 雪瀬の申し出に、朱鷺が振り返った。その顔に珍しくはっきりと驚愕の色が浮かぶ。

「……どうするつもりだ」
「糸鈴はすでに南海に囲まれ、援軍を待つことも不可能な状態です。蕨坂の撃退であちらもそれを痛感したはず。ゆえに、総攻撃の代わりに、開門を要求する。条件は、月皇子の身柄をこちらに委ねること。その使者にわたしを立てていただきたいのです」
「月詠が、そなたを迎え入れると思うか」
「それはやってみなければ、わかりません」

 月を帝に即位させる月詠の計画は破綻した。糸鈴は白雨の故郷だ。おそらくあの地で死ぬつもりなのだろうと雪瀬は思っている。雪瀬は月詠の細かな事情など知らないから、ほとんど勘と言ってよかったが。
 朱鷺は痛ましげにこめかみを押した。

「南海の兵を用いて城館を落とし、月を奪還するのではだめか」
「兵を動かせば、月詠は月皇子と藍とともに自害するでしょう。そこに至るまで、無駄な血が流れることになる」
「血が流れぬ戦などあるのか」
「最小限にとどめることはできます」

 煌々と照る月が視界をよぎった。朱鷺は冷徹な統治者の顔をして、眸を眇めている。雪瀬の真意をはかっているようにも見えた。

「もし、わたしが戻らなかったそのときは。説得は、失敗です。総攻撃の命令を出してください」
「死ぬ気か、そなた」
「そういうつもりはありません」

 きっぱりと雪瀬はこたえた。

「勝機があるから、賭けるんです。そして陛下の使者には、領主の肩書を持ち、今回の首謀者であるわたしがいちばんいい。陛下。俺はまだ自分に賭けているんです。ひとつの命も失わずにこの乱を終わらせる道はあると」
「……漱が言っておった」

 ややもして朱鷺は嘆息する。

「戻ってきたときにのう、このあとが橘雪瀬のいちばんの大博打なのだと。そのときには意味をはかりかねていたが……最初からそなた、考えておったのだな。この結末まで考えて、用意をしていたのだな」
「御心配なく。俺は臆病だと言ったでしょう。いつだって勝てると思った勝負しかしません」

 薄くわらうと、「橘にはかなわんなあ」と朱鷺は呆れたように呟き、眦を下げた。




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