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五章、乱(14)




 朱鷺との話を終えた雪瀬はいったん離れから下がった。先ほどの朱鷺の言葉を書き起こすための官吏を呼ばなくてはならない。考えながら庭を横切っていると、「兄さま」と植え込みに盥の水を捨てていた柚葉が声をかけた。瞬きをひとつした雪瀬に、「姉さまをみていたんです」と先回りして話す。

「いいよ、俺が持ってく」

 空の盥を受け取って、井戸の水を汲む。月光がさやかに射し込む庭ではこおろぎが鳴いている。井戸端に浅く腰掛けて、柚葉はつるべを引き上げる雪瀬を見た。

「帝とお話はつきましたか?」
「ついた。月詠宛の文書がつくれたら、発つ」

 雪瀬としては準備を進めていたことであったので、あとは正式な手順さえ踏めば、動けた。柚葉をはじめとした葛ヶ原の者たちにはすでに話をしてある。そうですか、とうなずき、柚葉は苦笑した。

「ひどいひと。姉さまが目を覚ますのを待たずに行ってしまわれるのですか」
「……桜は?」
「お熱がなかなか下がりませんので……」

 今は千鳥がそばで看ているのだという。盥に水を注いで、つるべを戻す。柚葉は夜風に髪を流しながら、足元の萩の花房をいじっていた。

「月詠は兄さまの言葉に耳を傾けるでしょうか」
「どうだろうね」
「兄さま。あの男はもう長くはもたなそうだと前に話したこと、覚えていますか」
「ああ。血を吐いたんでしょう」
「……私は兄さまがいらぬ情をかけないか心配です。あなたは結局、最後にやさしいから」

 俯きがちに柚葉は目を落とした。使者として糸鈴へ赴く以上、私情に囚われるということはたぶんない。雪瀬がやさしかろうがやさしくなかろうが、それは起きてはならないことだ。柚葉だってわかっているだろうから、何も言わずに隣に腰掛ける。さして大きくない井戸は、並んで座ると肩と肩が触れ合った。柚葉がいじっている萩の花房を反対側から雪瀬も指で撫でた。目が合うと、お互い仕方がないような笑みがこぼれる。

「あとは任せた」

 夜闇に揺れる萩を残して、雪瀬は立ち上がった。盥を小脇に抱え、歩き出そうとすると、「にいさま」と柚葉が袖端を引っ張る。まるで幼い頃の桜みたいな仕草だ。肩越しに視線を向ければ、柚葉はいつにない真剣な色を浮かべて雪瀬を見つめていた。

「必ず、帰ってきてくださいね……?」
「柚?」
「約束してください。姉さまの代わりに」

 そうすると、柚葉はしかめ面をして小指を差し出してきた。さすがにこの歳で指きりげんまんはどうかと思ったが、柚葉の気迫に押されてしぶしぶ指を絡める。ゆびきりげんまん、うそついたら、はりせんぼんのーます。ゆび、きった。細い月明かりのなか手を下ろすと、ようやく柚葉が愁眉を開いた。

「いってらっしゃいませ、兄さま」

 かけられた声にひそんだ情に目を細める。
 柚葉と別れた雪瀬は、桜の寝室に向かった。褥のかたわらに座していた千鳥が気付いて腰を浮かせる。様子を尋ねると、先ほどの柚葉と同じ言葉が返る。

「私は朧さんに薬をいただいてきますので」

 こちらを慮ったらしい千鳥が席を譲り、部屋を下がった。ぬくみの残った座布団に座り直して息をつく。ほのかに赤みがかった桜の頬に触れると、熱かった。まだ熱は引いていないらしい。汗を少し拭いてやって、額に水にさらした手巾を置く。
 肩の創傷が発する高熱で、桜はこのひと月ずっと目を覚まさないでいた。雪瀬は後悔した。やっぱり彼女にそのような危険な役目を与えるべきではなかったのだ。つき、とときどきうなされている彼女が痛ましかった。
 
「桜」

 そっと呼びやったが、固く閉ざされた瞼が開く気配はなかった。叶うなら、出かける前に彼女の声を聞きたかったのだけれど。少し汗ばんだ髪をしばらく梳いてから、雪瀬はゆるゆると身体を倒して、桜の包帯が巻かれていないほうの肩に額をくっつけた。そばで淡い心音がして、ほんとうは息をするのも苦しいのに、それでいて不思議な安堵に包まれる。彼女は眠っていて、ただそこにいるだけなのに、与えられているのが不思議だった。
 雪瀬は目を瞑った。

「巻き込んで――……」

 ほろりとこぼれた懺悔の言葉は途中で潰えた。一緒に行くと彼女は言ってくれた。そこがどんな場所で、どんな道も一緒に歩いてくれると。だからそう、きっとこの言葉は彼女にはふさわしくない。

「一緒に戦ってくれて、ありがとう」

 ぬくもりに身を委ねて告げる。
 そっと祈りめいた囁きを眠る女の耳元で。

「     」

 そういうことを、俺はずっと生涯言わないのだろうと思っていた。言わないと思っていた。こんな風に溢れたものがこぼれ落ちるみたいに言うだなんて思ってもみなかった。かつて、降りそぼる雪の中、ひとりぼっちで空を仰いでいた子どもに教えてやりたい。
 もう、泣かなくていい。
 その先でおまえはまた、かけがえのない女(ひと)に出会うのだと。





 交渉のための使者の申し出は、朱鷺の名で糸鈴の地に届けられた。さしたる抗いも見せず、月詠はこれを受け入れる旨を返書した。ひと月に及ぶ陸路の果てに、晩秋。雪瀬は少数の護衛とともに糸鈴の地を踏んだ。

「葛ヶ原領主、橘雪瀬さまですね」

 迎えた十人衆らしき男のひとりが雪瀬の顔を見るなり尋ねた。ええ、と顎を引いて、雪瀬は武人らしい引き締まった身体つきの男を仰ぐ。

「朱鷺帝からの書状は、わたしが預かっています。証書はこちらに」
「拝見します」

 雪瀬が差し出した身元の証書に目を通し、男はうなずいた。門衛に開門の合図を送る。

「わたしは月詠さまの十人衆で、伊南と申します。会合場所までご案内します」
「よろしくお願いします」

 都は秋の盛りだったが、北方のこの地では蒼天から粉雪がちらつき始めている。白い息をかじかんだ手に吹きかけて、雪瀬は開かれた門を見つめた。ここまで従ってきた葛ヶ原兵を振り返って、「刻限は日暮れまで」と彼らにだけ聞こえるように耳打ちする。日が完全に落ちきるまで。それが雪瀬が自分に設けた刻限だった。

「あとはおのおの決めたとおりに」
「雪瀬さま」

 千鳥が不安げな顔で見つめてきたが、軽く笑って肩をすくめ、雪瀬は歩き出した。ふわりと追いかけるように肩に白鷺が舞い降りる。

「……鳥は禁じられてないだろ」
 
 むっつりと呟いて、扇はよそを向いた。結局世話焼きなんだもんなあ、と苦笑して、左腕を差し出した。ひらりと白い羽が舞い、背後では重々しい音を立てて門が閉まった。
 糸鈴の館は二十年以上前、この地で乱が鎮圧された折に一部が焼失している。目の前にたたずむのは、戦火をまぬがれて残った館の一部分のようだ。内門をいくつかくぐって、館内に踏み入る。葛ヶ原や都では見慣れない高い天井を仰ぎ、雪瀬は凍て風に身震いをした。それを見ていた伊南が口端を上げる。

「北方は身体の芯が冷え入るでしょう」
「ええ。……べつに、改まった口調で話さなくていいですよ。前は俺のこと、餓鬼だって言ってたのに」

 都に囚われていたときのことを指して言うと、伊南は目を丸くさせてから、「なんだ、覚えていたのか」と声を上げて笑った。

「あのみすぼらしい餓鬼がな。時が経つのははやいね、領主様」
「俺にはそれなりに長く感じられましたよ」
「桜は置いてきたのか」

 思わぬ名前が飛び出して、雪瀬は伊南を見た。一瞬緊張が走るが、そういえば桜は丞相邸で三年を暮らしていたのだから、十人衆と面識があってもおかしくはないのだと思い直す。

「あの子の飯はうまいだろう。丞相邸にいた頃は俺たちにもよく飯を出してくれたもんだよ。今は敵と味方だが、昔は同じ釜の飯を食っていたんだから不思議だ」

 話しているうちに橋廊を渡りきり、木彫りの扉の前にたどりついた。

「丞相はこの先の部屋にいる」

 伊南の表情がふと重々しいものに変わった。つかの間、さまざまな感情が去来して、雪瀬は目を伏せた。つり下げられた燈籠が足元にいびつな影を刻む。やがてゆらめきに引き寄せられるようにして、雪瀬は顔を上げた。扉を開く。壇上に座す男は、ひとり。
 
「月詠」

 呼ばい、雪瀬は覚悟を決めて黒衣の男を対峙する。




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