「ようこそ、糸鈴の地へ。朱鷺帝の使者殿」
おなじみの黒衣を纏った月詠は、幽鬼のように御座に腰掛けていた。肘掛けにもたれた姿は、かつての美貌はそのままに百を過ぎた老爺に転じたようにも見えて、雪瀬は眉をひそめた。
「刀はこちらへ」
掛台を持った伊南に促される。ぐるりと見回した室内に、雪瀬と月詠以外の人間はいない。とはいえ、どこにあちら側の人間がひそんでいるとは知れず、素直に武器を差し出してしまってよいものか悩んだ。肩に留まった扇がぱたんと羽をしまう。
「わかりました」
月詠をうかがったのは一瞬だ。心を決めて、雪瀬は『白雨』を伊南へ差し出した。刀を掛台におさめた伊南がその場を辞去する。背後で扉が閉められる音を聞き、雪瀬は息をついた。
「藍と月殿下は?」
「別所だ。藍は環境があわぬのか、熱を出していてな」
いつもの感情がのぞかない声で月詠がこたえた。
「簡潔に言う」
ふたりきりである以上、もはや取り繕う必要もなかった。何より、雪瀬には刻限がある。携えていた文箱を開き、そこにおさまる朱鷺帝の書状を開いて月詠に突きつけた。
「館の開門と、月殿下の引き渡しを帝は望んでいる。それさえのめば、この地を荒らしたりはしない。兵も退かせる。おまえたちを追うこともしない。条件をのめ、月詠」
「なるほど」
月詠は薄くわらって、雪瀬の差し出した書状を受け取った。細い指先が紙をたどり、一気に引き裂く。ふたつに分かれた書状が床に落ちた。
「俺が素直にうなずくとでも? 相変わらず甘いな、葛ヶ原領主」
「糸鈴はすでに南海に包囲されている。それでも?」
「些事だ」
「月殿下を、子どもを巻き込む気か、月詠」
そよとも動かない男の横顔に雪瀬は歯噛みした。
朱鷺が言ったとおり、雪瀬は朱鷺の奪還を思いついたとき、ほぼこの結末までを想定して、計画をしていた。朱鷺の奪還が叶った際、丞相捕縛までができればよし。だが、月詠ほどの男があっさり捕まるようには思えない。逃亡した場所で、今一度事を構えようとするだろう。ゆえにこそ、雪瀬はあらかじめ南海のあせびに要請し、兵をいつでも動かせるよう準備させておいたのだった。月詠にもはや打つ手はない。自害か、開門か。選ぶのはふたつにひとつであるはずだ。
「おまえが最後に説得を持ち出してくるのは、少々意外だったな」
「俺は帝の使者としてこの地に来た」
「ほう、使者として?」
皮肉るような笑みがこぼれた刹那、御座にいたはずの男がふつりと消えた。背筋にぞっと冷たいものが走る。殺人を生業とする者特有の、研ぎ澄まされた氷のような殺意だった。
「雪瀬!」
翼を広げた扇が警戒を促す。とっさに身を捻って、雪瀬は衣うちに挿していたものをつかんだ。きん、と鈍い音が立つ。迫った刀を懐刀の鞘で受け止めた雪瀬は、後ろに飛びすさった。
「注意深いことだ。しおらしく刀を差し出しておきながら」
「あいにくと小心者なんだ」
疵のついた鞘を引き抜きつつ、雪瀬は月詠を見据えた。とはいえ、あちらは大刀で、こちらは護身用の懐刀だ。相当に分が悪い。
「使者として来たわけではあるまい」
月詠は言った。
「おまえは俺を討つためにここに来た」
雪瀬は息をつく。
「……説得に応じてくれたらって半分くらいは思っていたよ」
だけど、残り半分はもうだめだろうと、無理だろうとわかってもいた。雪瀬が最愛の女を傷つけられても、彼女が今一番自分を必要としているのを知っていても、足を止められないように。月詠もまた止まらない。自分たちはもうとっくの昔に道を選択していて、そのためにたくさんのものを踏み倒して、踏みつぶして、この場所へ来た。戻る場所はない。かえる道もなかった。ぶつかれば、どちらかを踏み倒して先へ進むしかない。
「刀を取れ、雪瀬」
大刀の切っ先を下げて、月詠は言った。抜身のままのそれを床に放る。雪瀬は眉をひそめて、自分の前に転がった大刀を見つめた。
「なにを……」
「開門? 馬鹿馬鹿しい。俺は門など開けん。月と藍をたすけたいのなら、力づくでやれ。俺がおまえから奪ってきたもののように」
うっすら目を細める月詠は何かを愉快がるようだ。
「おまえに母親の次に刀を教えたのは、俺だったな。生きるために、数多の人間を斬って、磨いた刀だ。ひとを斬りたがらないおまえとは対照的だ」
御座の背面に立てかけられた大刀を手に取ると、月詠はそれを構えた。澱みなく、無駄のない構えだ。ふいに子どもの頃の記憶が蘇った。ときどき気まぐれに葛ヶ原にやってくるこの男を、幼い雪瀬は木刀を片手に追いかけ回した。彼はつよい。とてもつよいひとだった。あのように、強く、なりたかったから。息をついて、刀を拾い上げる。気配を見取った扇がすっと離れていった。
「もう一度言う。開門を」
「力づくで、と言っただろう」
直後、両者の刀が打ち合い、火花が散った。さして長さは変わらないのに、月詠の太刀は重い。押し切られそうになって受け流し、横に引いた。呼吸を整える暇は与えられない。鋭い太刀筋はまごうことなく急所を狙ってきていた。一合、二合と打ち合いが続くと、呼吸が上がり、いつの間にか切れた頬からなまぬるい血が伝った。
九年前、この男に利き手を傷つけられて以来。前と同じように雪瀬は刀を握れない。されど、それはこの病身の男とて同じはずだった。それなのに――。
きん、と弾ける音がして、刀が手から離れた。月詠のはるか後方に刀が滑って転がる。踏み込まれる前に、雪瀬は懐刀の鞘を抜き放った。動きを止めれば、たちまち首を落とされていただろう。構えを解かない雪瀬を見下ろして、月詠は眸を細める。
「足りんな。これでは俺を屈服させるには至らない」
雪瀬から手の届く位置に大刀はない。懐刀の柄を握り締めたまま、周囲をうかがう。視界端で小さな影が動いたのを見て、ひとつ息を吐き出した。呼吸を、ととのえる。波立つ水面が、しずかに、しずかに、凪いでいく。意識を研ぎ澄ませると、はたり、はたり、と揺らめく垂れ布や、御座の脚を回る羽虫の気配、床をさらう砂埃や、男の熱と呼吸。すべてが膚で感じ取れた。平らかに息を整えていく。たいらかに。羽ばたきを、感じた。
「――扇!」
腰をかがめて踏み込むや、懐刀を男に向かって投擲する。ぎん、と弾かれる鋭い音が打ち鳴った。そのときには白鷺が体当たりした大刀が雪瀬の手に滑り込む。返す足で刀を薙いだ。それは懐刀を弾いた男の首元に迫り――、
そこで、止まった。
互い違いの双眸が雪瀬を見上げる。
「斬らんのか」
泰然とした声は、首元に刀を突きつけられてもなお変わることがない。雪瀬はこたえなかった。さりとて引くこともしなければ、刀をより深く押し当てることもしない。柄を握り締めたまま、眉根を寄せて黙り込む。ふいに月詠が咽喉を鳴らした。変わらぬな。呟いたはずみに、男が咳き込む。ぱっと散った赤黒い血に、雪瀬ははじめて頑なだった表情を動かした。
「……あ、」
知っていたはずだった。そのことは柚葉に聞かされてあらかじめ知っていたはずだった。けれど、動揺する。手元が微かにぶれて、首筋から鮮血が伝うと、月詠はわらったようだった。ひとを斬りたがらない。そのとおりだ。俺はひとを斬るのがこわい。いつもそうだ。今もそうだった。だけど、もう、今はもう、数えきれない人間を俺も斬ってきた。守るために、別のものを選ぶために、さまざま理由をつけながら。
「『理由』なら、あるだろう」
それは幼馴染を、凪を。この男が原因で失ったから?
あるいは愛する女を傷つけられたからか。
「俺を討て、雪瀬。英雄になれるぞ」
赤く濡れた唇に壮絶な笑みをかたどって命じる男を、雪瀬はただ見つめた。丞相を討て、と兄だったのか、自分だったのか、誰かが脳裏で言った。月詠はもう幾ばくもない。たとえ雪瀬が手を下さなくとも、開門をした時点でこの男は死ぬだろう。それならいっそ――。雪瀬は目を伏せた。いったいどれほど、俺はこの男に大事なものを奪われてきたのかわからない。どれほど膝を折り、這いつくばった床から男を見上げただろう。悔しかった。まるでたやすくすべてを奪っていく男が。憎らしかった。ころしてやりたいとも思った。じぶんの非力さが呪わしかった。つかんでもつかんでも、すくいきれずにこぼれ落とすじぶんの手の卑小さが、ずっとずっと呪わしかった。嘆いても、悔やんでも、こぼれ落ちた命は俺を許さないだろう。だけど。だけど、ごめん。凪。
気付けば、涙が頬を伝っていた。
雪瀬は握っていた刀を引き寄せる。それを床に放った。
「英雄なんか、ごめんだ」
懐刀だけを拾い上げ、雪瀬は足を返した。
「伊南!」
呼びつければ、男が扉のほうから現れる。転がった二刀に眉間を寄せた男に、「会見は終了だ」と雪瀬は言った。
「開門しろ」
「だが、月詠さまは……」
「連れて行けばいい。俺は開門と月殿下以外は要求しない」
うずくまっている男に向けて言い放ち、雪瀬は別所に落ちていた鞘をつかむと、抜身の懐刀をおさめて腰に挿す。
「月殿下はあらためて、葛ヶ原兵が迎えにいく。それまでに城館を開く準備を」
「……ああ」
いまだ状況は理解していないものの、何がしかを悟った様子で、伊南は道を譲った。外に、ほかにひとはいなかった。自ら門前へ赴くために足早に廊下を渡る。
「俺は先に千鳥たちにこのことを伝えてくる」
「頼んだ。……扇」
腕にひらりと留まった白鷺を見やり、雪瀬はその首を撫でた。
「ありがと」
そっと告げると、扇は黒い目を瞬かせたあと、ばつが悪そうに首をめぐらせる。素直な謝礼に慣れていないのは昔からだ。あーとかうーとか呻き声を漏らしたあと、身じろぎをやめて扇は羽を畳んだ。ふたつの目はどこか透明な色を宿して、遠くへと向けられている。
「見ていると思うぞ」
「うん?」
「こぼれ落ちた命よりも、すくいとった命を凪は見ていると思う」
さやかな爽風が足元を吹きさらった。瞬きをした雪瀬の手に頭を擦り寄せると、扇は翼を広げる。その姿を見送る間、俯きがちに唇を噛み締める。そうでないとなんだか、今にも泣き出してしまいそうな気がしたからだ。
城館の外に出ると、雪の舞い始めた道をひとり下っていく。
音が。
雪に吸い込まれて、消えいる。
静寂。
「きーちゃん」
背にやわい声をかけられたのは刹那。振り返った先にたたずむ影をみとめて、雪瀬は眸を眇めた。吹きすさぶ風が女の黒髪を舞い上げる。藍、とその名を雪瀬は呼んだ。