目を覚ますと、そばで眠っていたはずの「かあさま」がいなくなっていた。目をこすって月はあたりをせわしなく見回す。「かあさま」が月を厭うていることに月は気付いていたけれど、この糸鈴にやってきてから、「かあさま」は今にも萎れてしまう花のようで、そばで見ていないと不安な気持ちになるのだ。
「あー。うー」
「かあさま」を月はまだうまく呼べない。呼ぼうとしても、咽喉の奥で声が絡まって、「あー」や「うー」に変わってしまう。落ち着かなく部屋を歩き回って、帯にいつも忍ばせている簪を握り込む。月が大事なものを預けた代わりに、桜が貸してくれたものだ。銀色の柄はずっと腕に抱いているとほんのり温かくなって、月を少し安心させてくれる。簪を握り締め、月はとことこと部屋から出た。
「あら、どうされました。月さま」
柔らかな腕に身体を抱き止められる。瞬きをして前髪から相手を透かし見た月は、小さく呻いた。月があまり好きではないひとがそこにいたからだ。
「何をお探しですか?」
「あー。うー」
「藍さまですね。そうでしょう?」
好きではないが、このひとは不思議と月の意図を読み取ってくれる。こくりとうなずいた月に、そのひとは半月形に唇を歪めて微笑んだ。
「では、この菜子が月さまをお母上のもとに連れていって差し上げます」
雪混じりの風が吹く中、薄い襦袢に群青の羽織を掛けただけの女は、冷ややかに雪瀬を見つめていた。熱を出して褥に臥せっていると月詠は言っていた。では、ひとり抜け出してきたのか。結われていない髪はほつれ、しどけなく肩にかかっている。
「会見は終わったの? 月詠さまは?」
「血を吐いて倒れた。今は伊南がついてる」
「血を吐いた?」
雪瀬の後半の言葉は聞こえなかった様子で、藍は呟いた。女の面にありありと動揺が滲んだが、続く声は鋭い。
「じゃあおまえは門を開け、月を取り上げるの? 私たちから?」
「殿下の存在はそのものが争いの種になる。もう『皇子』でいさせるわけにはいかない。争いに巻き込まれることがないようにお守りはするけれど」
まだ六つの子どもを母親と引き離すのはかわいそうだと思ったが、雪瀬はそうこたえるほかない。ふうん、と曖昧な相槌を返して、藍は頬にかかった髪を押さえる。その様子にじれて、雪瀬は藍の肩をつかんだ。
「ここにももうすぐ葛ヶ原兵がやってくる。おまえは早く、伊南たちと城館を離れろ」
けれど、それはこの女の求める言葉ではなかったのだろう。雪瀬を見つめる黒の眸が玻璃のように凍てついていく。ふ、と乾いた吐息を漏らし、藍はくしゃりと顔を歪めた。
「あなたというのは本当に……」
「藍?」
「本当に、いつも、いつも、正しいことばかりを言うのね」
くつくつと漏れる声は凍て氷が割れる音にも似て。藍の手がすばやく腰に挿した懐刀を抜き払った。それを己の咽喉にかざす。
「藍――、」
「来ないで!!」
赤く腫れた目が雪瀬を睨んだ。
「動けば、咽喉を突く。私は本気よ」
開門なんかさせない。
呪詛めいた声が女の口からこぼれる。
「させない。すべて、おまえの思うとおりになんて絶対にさせない。門を開きたいなら、私の屍を踏み越えていきなさい、橘雪瀬。 血の一滴も流したくないんでしょう、誰も傷つけずに終わらせたいんでしょう? おまえは正しいわ。いつもいつも、ただしくて……、息が潰れそうになる!」
させない、と女は繰り返した。
「おまえの願いは叶わない。私が叶えさせない。おまえは私の屍を踏みしだいて、血まみれの手で、その門を開くのよ」
弾けたように女の咽喉から哄笑が上がった。
――……ああ。
泣きたいような気分になって雪瀬は歯を食いしばる。
「どうして……」
どうしてここまでこの女を追い詰めてしまったのだろう。
何故。どこから。いつから。
『きーちゃん』
桜の幹に頬をくっつけた少女がまどろむように微笑む。
出会ったときは、こうではなかったはずなのに。
女の握った懐刀が小刻みに震える。激したかのように喉元に向けて突き出されたそれを引き抜いた己の懐刀で跳ね上げた。からん、と高らかな音を立てて藍の懐刀が転がる。なおも手を伸ばそうとする女に、雪瀬は刀を突き付けた。ひたりと首筋にあてられた刃の感触が伝わったのか、藍の動きが止まる。憎々しげに向けられた視線から雪瀬は目をそむけた。いいだろうもう、と呟く。おねがい。おねがいだ。もう。
「俺にこんなことをさせないでくれ……」
ふわりと藍の眸が瞬く。
雪瀬を映した眸が不思議そうに、ふわりと。
刹那。
刹那、だった。雪瀬は軽く目を瞠った。それにまるで気付けなかったのは、相手がちいさく、いとけなく、殺意なんてまるで感じられなかったため。そして、愚かにも藍にすべての注意を向けていたからだろう。背後に小さな子どもが立っていた。前髪を隠したあの。どこか見覚えがあって、あああの怪我をしていた子どもか、と思った。どうしてこんなところにいるのか。
「月……」
藍が蒼白になって目を見開く。
ぼんやりと両手で何かを握る子どもは、ぎこちなくしゃくり上げた。だって、と音にならない声で子どもが呟く。だって、かあさまが。かあさまが。わたし。まもらないと。かあさまのこと。
月が固く握り締めていたものを離す。脇腹のあたりに突き立てられているそれを見て、雪瀬はこんなときにもかかわらず、何故かわらいたくなった。見覚えがあまりにもあった。だって、それをつくらせたのは雪瀬だったので。葛ヶ原に古くからある彫金師に頼んで、ばつの悪い気持ちに駆られながら所望した。花嫁簪だった。見間違えるはずもない。その意匠を選んだのも、女の結い髪にそれを挿したのも、ぜんぶ雪瀬だ。何故、月が簪を持っていたのか、雪瀬は知らない。ただこういう返り方をするのか、と思って、刺さったそれを引き抜いた。あっという間に傷口から血が溢れて常磐の上着を黒く染めた。
「きーちゃ」
「道を開けろ、藍」
荒く息をついて、雪瀬は言った。
「このままじゃ、日が落ちる」
力のなくなった藍の身体を引き離して、雪瀬は立ち上がった。月は子どもだ。位置や深さから考えても、致命傷には至らない。……少なくとも、残りの道くらいは。裂いた布を傷口にあてて手で押さえる。門の外では千鳥たちが待っている。あとすこし。すこしなのだ。
「やりました。やりましたねえ、月さま! おははうえを守れましたね!」
そのとき場違いに明るい声が爆ぜて、足を止める。あの菜子、という娘が震える月を抱き締めていた。吃音しか喋らなかったはずの娘はかつての鬱金が乗り移ったかのように「ふみどのの仇、果たされましたね。ふみどのの……」とうすら笑いを浮かべている。藍が息をのんだ。
「菜子。どうして……」
「あらあ、どうして驚いた顔をするの?」
くすくすと目を伏せてわらい、菜子は小首を傾げた。
「月さまはあなたを守るためにしたのよ。褒めてあげなくちゃあ。だけど、そうね」
菜子の手が転がった懐刀を拾い上げるのを見て、藍は眉根を寄せる。
「小さな御手では、仕留めるには至らなかったようだから……」
自分に向けられている切っ先を雪瀬は見た。まずい、と思う。雪瀬の懐刀ははるか先に転がっている。これでは、間に合わない――、
「待って」
あとになって考えてみても。
「待ちなさい、菜子」
雪瀬はどうして目の前に藍が飛び出してきたのかわからない。それまで己の死を願っていた女が何故、雪瀬を庇うように両腕を広げたのか。わからない。藍にだってもしかしたら、わからなかったのかもしれない。
菜子は薄暗い目を藍に向けた。
「そこをおどきなさい」
「どかないわ」
吹きさらしの髪をゆったりと手で押さえて、藍は嗤った。
「ひとついいことを教えてあげる。昔、玉津卿があんたに持たせた毒を捨てて、この男をすくったのはね、私よ。私がすくったの。この男はね、いつも私が生かしてきたの。ほかの人間にどうこうされるのはゆるせないのよ」
顔を歪めた菜子が白刃を閃かせる。迫りくる刀を呆けた面持ちで見つめ、藍はふっと表情を緩めた。安堵しきった子どものような顔を藍はした。月が細い声を上げる。泣き声が。雪瀬は手を伸ばした。泣き声がすこし、かのじょににていた。
「きーちゃん……?」
ひらひらと。
雪が舞う。
春の終わりの花にも似た。
白い。
「ねえ、」
金具まじりの足音を響く。なおも喚く菜子を誰かが取り押さえる声が聞こえた。腕の中にいた女が、おずおずと雪瀬の背に触れて悲鳴を上げる。菜子の突き出した懐刀が半ばまで埋まっていた。抉られるような激痛が押し寄せて、雪瀬は喘いだ。震え始めた女の頬に無為に這わせた指先が赤い線を引く。身じろぎをしようとするが、力が抜けてずるずると女にもたれかかるようにしてくずおれた。いや、と藍が呟く。
「どうして……なんで……?」
どうして、なんで、なんて、俺のほうが聞きたい。
ほんとうに、なんでこうなっちゃうんだろう。
日が落ちる前に、戻らなくてはならないのに。かえるってやくそくを、したんだ。待っているむすめがいるんだ。かえらないと、たぶん、泣くんだ。泣かせたくない。わらっていて、ほしい。あのむすめのわらっている顔がみたい。すこしでもながく。ながく。それだけ。
葛ヶ原領主でもなんでもない。
「俺」が望んでいたのは、ただそれだけ。
何度か手間取って、立ち上がろうとして崩れた。雪の薄く積もった地の上に転がる。広がった曇天から、白い雪が舞っていた。頬に触れるその雪の白さに目を細めて、のろのろと這う。まぼろしなのか、遠目にかゆらぐ門が見えていた。雪の重なり始めた土に爪を立てて、雪瀬は息を吐く。おねがいだ。とぎれないでくれ、まだここで。
まだ。
「糸鈴の葛ヶ原兵から早馬が参りました」
都の橘邸に報せが入ったのは、霜月のつごもりのことだった。
その日、都でもいつもより早い雪が降った。ふわりと頬を撫でた風の冷たさに桜は目を開いた。自分のちょうど胸のあたりに目をやる。少し前まで、そこに額を押し当てる男のひとがいたはずなのに。その背が少しさみしそうで、引き寄せてあげたいと、名前を呼んであげたいって願っていたはずなのに。身体が少しも動かず、そうしているうちに彼はそっと桜に何かを囁いて、去ってしまった。
どこからが夢で、どこからが現だったのか。
けだるい頭を振っていると、外でばたばたとせわしない足音がして、「早馬が!」という声が聞こえた。
痛んだ肩に顔をしかめて、桜は身を起こす。近くに畳まれていた羽織を引っ掛け、おぼつかない足取りで外に出た。まだ早朝のようだが、橘邸はにわかに騒がしい。いったい何があったんだろう。雪瀬はどこにいったんだろう。起き抜けのせいで疼くこめかみを押して、桜は無意識のうちに雪瀬の姿を探した。
「桜……!?」
玄関へ出ると、驚いた様子で薫衣が声を上げた。ちょうど框のあたりに柚葉がおり、向き合った下座に千鳥と幾名かの男が跪いている。そのかたわらに黒くなった上着が落ちているのに気付いて、桜は瞬きをする。薫衣の腕が桜の身体を何かから守るように引き寄せた。
「戻りませぬ」
千鳥が誰かに報告している声が桜にもやっと聞こえた。
「日没までお待ちしましたが、戻りませんでした」
代わりにこれが、と黒ずんだ上着を示す。桜は薫衣の腕から身をよじって、千鳥が示したほうを見つめた。それが誰のものか桜にはすぐわかった。黒ずんでわかりづらくなっていたけれど、ほのかに常磐色の名残がある上着は、桜も何度か香を焚きしめたことがある。
柚葉の背は小刻みに震えているようだった。
「これが……丞相方から、返されたというのですか」
「はい」
「扇は」
「私たちの目の前で突然消えてしまいました。交渉はうまく進んでいたようです。おそらくは帰路のさなか……」
言い澱み、千鳥は腫らした両目を瞑る。決然と再び目が開かれたとき、そこには火花散るような慟哭があった。
「葛ヶ原領主橘雪瀬さまは生死不明。ゆえ、総攻撃の下知を仰ぎたくこちらまで戻った次第です」
視界がましろに染まる。
どこか遠いことのように、桜は千鳥の言葉を聞いた。
いっしょにたたかってくれて、ありがとう。
ぬくもりに満ちた心地よい闇の中で囁かれる。どこかへ行くつもりなのだということは桜にもわかった。でも、待っているから。かえってくるのを、待っているから。伝えたいのに身体がちっとも動かない。少しの間、桜の肩のあたりに子どものように額を押し当てていたそのひとは、すこしわらうと呟いた。まるでずっとずっと大事に閉じ込めていたものがふっと溢れ出したみたいだった。ひどく穏やかで、どこまでも満ち足りた声でそのひとは呟いた。
『あいしてる』
【五章・了】