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六章、常磐(1)


 

「せいし、ふめい」

 たたらを踏んだ床板が小さく軋む。
 桜の声はどよめきの中、ぽつんと落ちた。
 千鳥の報告を受けていた柚葉がはっとした様子で振り返り、「桜さま」と焦燥の滲んだ顔をする。急速に周囲の声が遠のき、視界が白濁しかける。数歩よろめいた桜を薫衣が抱きとめた。
 いったい何が、何が起きているというのだろう。
 さっき見ていた夢の断片が蘇る。雪瀬は少し前までここに、桜のそばにいたはずだった。自分の手を握る骨ばった手の大きさや、肩にかかる重み、じんわりと伝わる体温といったもの、すべてが鮮明に思い出せる。耳朶を撫でた穏やかな声も。なのに何故、今ここには雪瀬がいなくて、代わりに黒い染みの広がった衣が抜け殻のように落ちているんだろう。……どうして。考えようとすると漠々とした冷たい予感に足がすくみそうになる。
 桜、とこちらの様子を察して薫衣が囁いた。
 おちついて。
 せわしなく瞬きを続ける目元にそっと手のひらを置かれる。やるせなく眉根を寄せる薫衣の心中に想像をめぐらせる余裕は、もちろんこのときの桜にはなかったのだけども。手のひらのつくる薄闇と背にあたる確かな体温は、桜をぎりぎりの場所で正気に立ち戻らせた。わたしは。わたしは、なんなのか。わたしは、だれの、なんなのか。わたしは雪瀬の――。
 ぎゅっと薫衣の腕を握り締めて、桜はその場に踏みとどまった。
 
「使者として入られた雪瀬さまを中に残したまま、糸鈴の門衛は城館の門を完全に閉ざしました」

 千鳥たちは柚葉に報告を続けている。
 その話と随所での薫衣の補足、あとは眠る自分のかたわらで話す雪瀬の声の記憶。それらから徐々に桜にも状況がのみこめてきた。月の即位礼とともに起こした「乱」の顛末。雪瀬が何を考えて朱鷺帝に乞い、この場所を発ったのか。そしていったい何が起きたのか。今、何が起きているのか。思考を続けるのは、葛ヶ原の地で学んだ、生きるためのすべだった。男の隣で生きていくためのすべ。

「糸鈴方へ交渉を試みましたが、あちらからの返答はなく。少数の兵を残して私たちはこちらへ報告に戻った次第です」
「――殺されたんだ。そうに決まっている!」

 千鳥とともに膝を折っていた兵がこぶしを握った。

「おひとりで館に入られたのに、なんとむごい……」
「交渉が決裂した場合、朱鷺陛下は総攻撃をかけると仰っていたはず」
「では今すぐにその命を!」

 兵のひとりが進み出て、柚葉の前に跪いた。

「帝にそのようにお願いください、柚葉さま」
「どうか命令を!」

 兵たちはいきり立ち、今にも戦支度をする勢いだ。気圧された様子で柚葉が唇を噛む。柚葉に群がった兵はしびれを切らし、さらに朱鷺帝のいる離れへ向かおうとする。

「待って」

 殺気立った兵たちの間に、その声はよく通った。いぶかしげに眉根を寄せ、彼らは自分たちを阻むようにたたずむ桜を見下ろした。十五の少女姿をしている自分は前に立つ男たちに比してあまりに小さく頼りない。おまけに蒼白な顔をして息も絶え絶えだった。桜の様子にわずかにひるんだそぶりを見せてから、男が首を振る。

「そこをおどきください。奥方さま」
「どきません」
「どかれよと言っている!」

 荒げた声に、桜は少し肩を震わせたが、動かなかった。乱れた呼気を整え、「どきません」ともう一度言う。そのときの自分を突き動かしていたのはなんだったのだろう。桜にももうよく、……よく、わからない。ただ、足元から崩れ落ちそうな暗がりのなかで、別のわたしが声を枯らしてさけんでいた。
 だって、これが。
 連れていってくれるとあなたが言った。あなたがわたしに約束した。
 これが、果ての果てなのか。
 これが、ここが、こんな恐ろしい暗闇の底が、あなたがわたしにさいごに見せるものだというの。雪瀬。

「ちがう……」

 呟くと、声に芯がこもる。焼ききれそうな感情のふちで、わずかなあらがいの意思がうごめく。胸を握りしめて、桜は立ちはだかる男たちを仰いだ。

「生死不明と言いました。わたしは雪瀬は生きていると思う」

 それをこの場で断言した者はまだいなかった。知らず集まった視線を静かに受けて、桜は続けた。

「月詠が言ったのですか、橘雪瀬が死んだと。なら何故、首を見せないのです。死体を投げないのです。それは、おかしい。何より、橘雪瀬が言ったのです。ここへ戻ると。……それなら、あのひとは必ず帰ります」

 こちらを見つめていた兵の目の色が変わる。戸惑った様子で顔を見合わせた彼らは、新たに現れた来訪者に目を瞠った。

「彼女の言うとおりだ」

 まさに今渦中になっているひとと聞きまごう声色、そして似通った容姿。

「雪……っ」
「颯音」

 しかし桜は正しくその名を呼んだ。後ろに蕪木透一を連れて、旅用の笠を解いた颯音は、「お久しぶりだね、桜さん」と微笑む。

「それから、柚葉。葛ヶ原の者たち」

 驚愕に声を失った者たちを見渡して、笠を置く。涼やかに吹き続ける風がほかでもない、男が何者であるかを告げていた。橘颯音。風術師にして、橘の先代。十年前に死んだとされていたはずの男だ。

「まさか、御無事で……」
「詳しい話はここではしない。ただ、今代はもしものときに備えて、俺を呼び寄せていた。不承ではあるけれど、今代不在の代わりは俺がやろう。異存はない? 柚葉」
「大兄さまの思し召しとあらば」

 すでに三兄弟や重臣のあいだでは了解していた話らしい。顎を引いた柚葉の肩を軽く叩いて、颯音は桜の前に立った。桜もまた、十年ぶりとなる男を見上げる。確かに顔のかたちや色彩といったものは兄弟なので似ていたが、雪瀬とはまるでちがった。不思議なくらいにちがうものであると、桜にはわかるのだった。

「今代橘雪瀬は、俺に『協力しろ』と言った」

 幾ばくかののち、先に視線を解いたのは颯音だった。あらためて桜と目の高さをあわせるように、長身をかがめる。

「雪瀬がいない今はあなたに協力しましょう。桜さん。どうしたい?」

 試すように尋ねられ、桜は目を伏せた。
 場に置き去りにされていた常磐の衣を拾い上げる。遠目に見てもすぐにわかったけれど、抱きしめるとそのやわさやにおいが伝わって、やっぱり雪瀬なのだとわかった。息をついて柚葉を見ると、それでまちがっていないと告げるようにうなずかれた。

「帝におはなしにいきます。ついてきて」
「仰せのままに」

 迷いない足取りで歩き出した桜に颯音は従った。


 *


「橘が生死不明、とな」
「はい」

 伝えると、朱鷺は考えこむ風に顎をさすった。橘の別棟に設けられた仮の御座所には夕暮れどきのため、明かりが入れられていた。外の騒ぎを聞きつけてはいたのだろう。そう驚いた様子ではなく、朱鷺は書見台に置いた書物を閉じた。

「糸鈴は?」
「残留した葛ヶ原兵と南海網代あせびの軍勢が合流したところです。城館の外には濠があり、堅固な城壁も持っていますが、旧時代の遺物だ。ひとも少ない上、補給が断たれている以上、そう時間を要さず落とせるかと」

 颯音は現状を的確に説明した。
 腕を組んだまま、ぽつりと朱鷺が呟く。

「やはりその線でいくしかないか」
「……待って、ください」

 意を決して桜は前に進み出た。まだ城館内には、月詠や藍、月、ともしたら雪瀬すらいるのだ。攻め落とされれば、みな無事ではないだろう。

「まだ……、まだ返答をもらっていません」
「返答?」
「月殿下を返し、開門するという書状に対する返答です」
「さて。橘の衣を突き返したのが答えであったと、俺は考えたが?」
「雪瀬は無事です」
「何を根拠に? 奴は日没までに戻らなかった。そのときはやむなしと、あやつも承知して出て行ったのだ」
「だけど」
「くどい」

 ぴしゃりと返され、桜は口をつぐむ。こぶしを握り込んだ桜を置いて、「おまえはどう考える、颯音」と朱鷺が話を振った。

「これ以上、待つことはできません。そもそも、あちらが葛ヶ原領主の生死をぼかすのは、膠着状態を続けるためでしょう。その間に丞相派だった諸侯に揺さぶりをかける可能性もある。こちらに状況が優勢である今、早急に攻撃を仕掛けるべきかと」

 颯音の答えは、思ったとおり余情を一切挟まないものだった。こめかみが痛んでくる。このままでは、あのひとだけでなく、あのひとがすくいとろうとしていたものも、すべて無に帰してしまう。どうしようも、ないのか。こうするしかもう道はないのか。それで思い当たって、あおぎ、と呟いた。雪瀬が無事なら、扇は『繋がって』いるはずだ。扇が現れたら。そうしたら、雪瀬が無事である証左になる。常磐の衣に寄り添うように置かれていた折り鶴を取って懇願する。
 あおぎ。……扇。
 どうか、こたえて。
 ――雪瀬は、生きているはずだ。
 だって、約束をしたから。必ず帰ってくるって約束をしたから。雪瀬は嘘吐きだけども、桜にこんなひどい想いをさせるわけがない。ぜったいに。そんなことをあのひとがするはずがないと信じていた。
 
「あ……」

 固く瞑っていた目を開くが、折鶴には何の変化もない。落胆と絶望に襲われ、桜は力なく俯いた。

「ただし、攻撃の時機は私にお任せください」

 颯音の申し出に、「ほう?」と朱鷺が意外そうに唸る。

「攻撃は仕掛けます。ただ、橘雪瀬の生存の可能性はまだ残り、丞相もまた正式な回答を返していない。彼女の言葉には一理あります。それを見極める時間をいただければと」
「時間、のう。だが、橘雪瀬はそなたの弟じゃ」
「俺が情に引きずられるとお思いで?」
「判断が狂いはせぬかと案じただけよ。止めはせぬ」

 朱鷺は開いていた扇子を勢いよく閉じた。身を切る静寂がその場を支配する。翠の眸に昏い光を浮かべて、朱鷺はこちらを見据えた。

「橘颯音」
「はい」
「そなたに糸鈴攻略をゆだねる。必ずや、開門させよ。手段は問わぬ」
「陛下の御心の広さに感謝します」

 場の重苦しさに反して軽やかにわらい、颯音はすいとこうべを垂れた。




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