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六章、常磐(2)




 当主代行となった颯音の指揮のもと、ただちに糸鈴への派兵準備が始まった。葛ヶ原の待機兵と北にのぼる途上で合流し、糸鈴に向かう計画である。桜も今回はこの行軍についていくことにした。兵糧の買い足しや荷作り、馬の用意と、とたんに都の橘邸は使用人たちに至るまで大忙しになった。

「姉さま」

 竹と並んで兵糧米の札を作っていた桜は、柚葉に呼ばれて顔を上げた。その背に黒子のように隠れる少女に気付いて、軽く目を瞠る。

「しら、ふじ……」
 
 何故十人衆のひとりであるはずの少女がここに。視線で問うた桜に、「私が連れ帰ったのです」と苦笑まじりに柚葉が言った。柚葉の袖をきつく握り締めていた白藤が、おずおずと桜のほうへいざり寄る。

「……肩。ケガしたって、聞いた」

 感情の読み取りづらい物言いは昔のままだ。けれど、じっとこちらを見つめてくる白藤の表情には真摯な色がある。もしかして心配してくれたのかもしれない、と考え、桜は小さく首を振った。

「もうだいじょうぶだよ」
「――桜さま」

 声を険しくして、柚葉が桜の腕を取る。衿をわずかにくつろげられると、包帯の下で肩がまた熱を持ち始めていた。頬を歪めた桜に、柚葉が息をつく。

「少しお休みになられてください。ここは柚が引き受けますので」
「でも、わたし」
「おじゃま、と言っているのです。それに、この手の作業は桜さまがご無理しても、あまりめざましい成果が出るものじゃありませんし……」

 確かに桜の要領の悪さは折り紙付きだ。しゅんと言葉を切った桜に、「こちらは大丈夫ですから」と柚葉が幾分表情を緩めて、くつろげた衿を直す。

「白藤。姉さまを頼みましたよ」

 白藤がこくりと首を振る。その様子はいつもと変わらず淡泊なものだったが、少女の頬が微かに染まっているのに気付いて、桜は目を細めた。知らないうちにこの娘は柚葉に心を開いたらしい。少しだけ救われる思いがして微笑むと、白藤は瞬きをしたのち、「ハラヘッタ」と呟いた。


 傷口を清めて包帯を取り替えたあと、白藤は痛み止めのほかに軽い眠り薬も処方してくれたらしい。思えば、この数日ずっと動き通しだったので、身体は疲れていて当然だ。ぬかるみに引きずり込まれるように眠りに落ちる。でも桜は。ねむりたくない、と思っていた。ねむりたくない。ねむらなければならないのに、ねむりたくなかった。
 夢の中で、桜はひとり丘をのぼっていた。葛ヶ原の花は盛りを迎え、蒼天は揺れる花群れで白く霞んで見える。ひときわ老いた樹の下にたたずむひとを見つけて、桜は顔を綻ばせた。名を呼ぶ。駆け寄って背中から腕を回すと、確かなぬくもりがかえってきて、ああ、よかった、いた、と思う。こわいゆめをみていたんだ。ひどくこわいゆめを。あなたがいなくなってしまうなんて、そんなこわいゆめを。
 ゆめ。
 そう。ゆめだ。
 これは、ゆめ。
 あなたとはもう、ゆめでしか、あえない。
 ゆめでしか。
 そんな、おそろしいゆめだ。

「……くら……さくら! 桜!!」

 強く揺さぶられて、桜は目を開いた。
 ひどくうなされていたらしい。ぐっしょりと汗をかいて、襦袢も寝乱れてしまっていた。かたわらで心配そうにのぞきこんできた娘の顔をみとめ、桜はぼんやり瞬きをする。

「蝶……?」
「ああ」
「どうして、」
「橘のこと、聞いた。そなたが心配でたまらなくなってしまっての。兄上に謁見するんだと言って、ここまで来てしまった」

 苦笑し、「案の定、うなされておった」と蝶は呟いた。桜の使う寝室に蝶以外にひとはいないようだ。足と脇のあたりに、温石が入れられていたおかげでぬくい。雨戸の外では降りしきる雪の気配がした。

「肩は痛むか。熱は?」
「ん、」

 額にあてがわれた蝶の手はひんやりとして冷たい。固く張りつめていた心がするするとほどけてしまって、桜は子どものようにあてがわれた手に甘えた。

「行軍にもついていくと聞いたが。ほんに平気なのか?」
「うん」

 微かに顎を引く。それは葛ヶ原のひとびとにも幾度となく訊かれたことだったので、すぐにそうこたえる癖がついていたのだった。蝶が困った風に眉根を寄せる。聡い友人はそういったことにすぐに気付けるひとだった。「ほんに?」ともう一度やさしく投げかけた蝶に、桜はゆるゆると目を伏せた。

「……ほんとうは、こわい」
「うん?」
「こわくて、たまらないの……」

 吐露して、桜は掛けられた夜着を引き上げた。

「いきているなんて、ほんとうは、しんじていないの」
「桜」
「ああ言わないと、だめだと思ったから、言っただけなの」

 こめかみがずきずきと疼く。腹の奥からせり上がった吐き気にも似た熱っぽい塊を桜は必死に飲み下した。

「だって血が……」

 抱き締めた衣は、元の色がわからなくなるくらい黒ずんでいた。

「あんなにいっぱい、出て。あんなに……。いきていられるの? あんなにたくさん血を流しても、ほんとうにひとは生きていられるものなの?」

 だって、あんなに薄い身体をどれほど損ねたら、衣の色が変わるくらいの血の量になるんだろう。何度も呼んだのに、扇はこたえなかった。雪瀬は本当はもうどこにもいなくて。桜の声にこたえてくれることもなくて。

『あいしてる』

 ずっと、欲しかった言葉なのに。一度でいいから聞かせてくれたら、すごくしあわせで、わたしずっと宝物にするのにって。

「どうしてそんなものが欲しいなんて思ってたんだろう。わたし、おかしかった。言葉なんて触れられない。おもいだしても、ぜんぜんあたたかくない。あたたかくならないよう……」

 一度吐き出すと、もうだめだった。自分が立つ場所の昏さを、凍えるような冷たさを、考えてしまうともう……、溢れて止まらなくなる。たすけて。……たすけて。雪瀬。いますぐに、たすけて、ここから。そうでなければ、えいえんに、ねむらせて。目を閉じて。耳を塞いで。もうなにも見なくて聞かなくていいように。
 いやいやとかぶりを振る桜に蝶が腕を回す。大丈夫じゃ、と蝶は桜の背をあやしながら何度も言った。

「大丈夫じゃ。あえる。またあえる。大丈夫じゃよ」

 しゃくり上げながら蝶の胸に頬を擦る。こういうとき、あいしあっていたら、虫の予感のように生死なんてわかるものだと思っていた。だけど、ぜんぜん、何もわからない。あいたかった。ただ、あいたいだけだった。涙と一緒に、そんな気持ちがぽろぽろとこぼれるばかりで。


 *
 

 きしり、と床板が弾む音で、蝶は視線を上げた。
 泣き疲れたのか、桜は蝶の膝に頭を横たえ、眠ってしまっている。今度は夢も見ぬほど深い眠りであってほしいと祈るばかりだ。そっと桜を褥に戻して夜具をかけ、自分は外の濡れ縁へ出る。思ったとおりの男がそこで柱に背を預けていた。

「かような場所で盗み聞きか」
「人聞きの悪い。不逞の輩が近づかないよう、ここでずっと見張りをしていたんじゃあないですか」

 いっそ労ってほしいくらいだぁね、と真砂はぬけぬけと主張した。亀澤天領から戻ってからも、真砂は前のように蝶について回っている。この橘屋敷においても、「蝶の護衛」という態度を崩す気はないらしい。男の性格を知悉しているせいか、橘の者たちも好きにさせているのがらしいといえばらしかった。
 さして広くない庭には雪が積もり、夜気は冴え冴えと澄んでいた。白い呼気がたちのぼる。蝶は赤く染まった指先に息を吹きかけて擦り合わせた。

「実際、そなたはどのように思う?」
「どのようにって?」

 気がない顔で尋ねた真砂に、「橘のことじゃ」と蝶は声をひそめて問う。

「生きているか、死んでいるか?」
「……そうじゃ」
「さあねえ。桜さんが言うことは、颯音が言うとおり一理あるよ。でも、死体が損壊して、顔が判別できねえほどなのかもしれんし、月詠の考えることだし、よくわかんねえな」

 そんかい、と呟いて、蝶は思わず口元を覆った。想像すると吐き気を催しそうだ。

「雪瀬は危険を承知で糸鈴へ行った。そのツケだあよ。仕方ない」
「そなたは冷たいな」
「そうですか?」

 真砂は心外だとでもいうように、肩をすくめた。

「それでも、蝶は橘には生きていてほしい。桜をこれ以上泣かせたくはない」
「桜さんは脆いからね」
「そのようなことはない」
「いーえ、脆いよ。雪瀬が死んでたら、壊れるよあの娘は。蝶だってうすうす気付いているでしょう。あの娘の情の烈しさを」

 知ったような口をきくな、と言いたくなるのを蝶はこらえた。確かにあの娘はこわれるかもしれないと思ってしまった。気丈にふるまっていた、と表向きには賞賛される一方で、たすけて、と。たすけて。たすけて、とうわごとのようにここにはいない男に乞うていた娘は。
 けれど、そうはさせない。

「蝶からの頼みじゃ。下僕よ。行軍について、桜を助けてやってくれ」
「下僕?」
「真砂」

 しぶしぶ言い直すと、真砂はにやりと笑って、「仰せのままに、姫君」と恭しくこうべを垂れた。擦った手を組み合わせ、蝶は雪曇りの向こうにほのりと照る月を仰ぐ。どうか蝶の大事な友人が最愛の男と再会できますように。祈る言葉を風がさらっていった。




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