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六章、常磐(3)




 手に持った紙燭が吹き込んだ風で、心もとなく揺らめく。
 藍はそっと火元を手で囲い、灯台に明かりを移した。わずかに明るくなった室内に気付いたのか、褥に横たわっていた男が身じろぎをして、「藍か」と呟く。月詠が半身を起こすと、輝きを欠いた銀髪がさらさらと肩から流れ落ちた。

「お薬をお持ちしました」

 糸鈴に今、医者はいない。懇意にしていた御典医は、都から落ちのびるさなかに行方をくらませてしまった。ゆえ、糸鈴に移ってからというもの、この男が口にする薬は藍が煎じていた。薬包と水を渡すと、月詠はそれを摘まんで開かないまま手の中でもてあそぶ。

「葛ヶ原兵がこちらに向けて都を発つ準備をしているらしい。菊塵(きくじん)から報告があった」

 十人衆のうちのひとりである男は、いまだ商人にやつして都にとどまり、あちらの情勢を糸鈴へ送ってきている。同じく諜報や陽動を主にしていた白藤の行方は、即位礼の直後にわからなくなっていた。橘方に捕えられたという話もあるが、どうだろう。月詠に尋ねたところ、捨て置け、とさほど惜しがる風でもなく返された。捨て置け。そのうち、菊塵にも同様の言葉が送られるにちがいない。つまり、好きにしろ、という意味だ。

「思ったよりも早かったですね」

 それは率直な藍の感想だった。葛ヶ原領主は九年に及ぶ治世で、葛ヶ原の者たちの精神的な拠り所となっている。領主の喪失は葛ヶ原方の動揺を誘うと藍は考えていた。けれど、思いのほか立て直しが早い。男から剥がした衣を門外に投げ捨てたのは伊南だが、その思惑は外れたと見える。

「夕刻に一度、裏門を開けたそうだな」
「……勝手に申し訳ございません」

 居室にずっと引きこもっているはずなのに、時折月詠は見てきたような口を利く。裏門から人目を避けて逃したのは、菜子であった。雪瀬を刺してひとしきり暴れたあと、急に憑きものが落ちたように菜子はおとなしくなった。虚ろに開いた双眸を見たとき、この女の心はすでにどこにもないと察した。城館から出したことに深い意味はない。おそらく旧玉津邸の庭のどこかで、この女のくたびれた死体は発見されるだろう。ひと月か、ふた月後かに。
 断りを得ず、藍は月詠の隣に座した。
 糸鈴の季節は冬に入った。虫の声もしなければ、色付く木々もない。あるのはうっすら雪がかぶった集落と、葉を落とした黒い木々ばかり。火鉢がないせいで、月詠の居室は凍てついた空気で張りつめている。そっと呼気を吐き、藍は呟いた。

「この結果は、あなたにとっても誤算でしたか?」

 月詠は薬包をもてあそぶばかりで、すぐにはこたえない。やがて軽く結ばれた唇が笑みをかたどる。誤算だったさ、という声が返った。

「菜子などというおなご、俺は名も記憶していなかった」
「……ええ」
「だが、きっとそういうものなのだろう。雪瀬も俺も、名もなき者に結局躓いたのさ」

 くつくつと咽喉を鳴らして、月詠は痩せた肩をすくめる。糸鈴の地に来てから、男は不思議と時折凪いだ表情を見せるようになった。何故だろう。それまではまるで絡め取られるように破滅へとひた走る男であったのに。今の男の横顔には、変わらぬ美貌に射す老いの影がある。
 時間が流れ始めたらしい、この男にも等しく。ならば男が命尽きる先に見出すものはなんなのだろうと藍は考えた。あるいは、だれ、なのだろう。月詠が待っているのは。待ち、焦がれているのは。

「裏戸はまだ開いているぞ」

 ふと月詠は謎かけめいた言葉を言った。瞠目し、藍は眉根を寄せて苦笑する。誤算。思えば、あらゆることが誤算だった。月詠だけではない。いまだ生きながらえている自分も、なおこの男のそばにいたいと願う自分も。
 雪瀬は藍を生かした。生かして、しまった。
 この身の終わりこそを藍は望んでいたのに。もうこれ以上は歩けないと、くたびれて、疲れて、歩こうとする気力すらわかなくなってしまったと思っていたのに。あのおとこは。帰る場所があるのに、あいする女がいたのに、理想も望みも、すべて叶えようとしていたのに、そのすべてを放り出して、藍を生かしてしまった。
 なんてむごい。さいごになんてことをしてしまったんだろう、あの男は。まるで呪縛か何かのように、藍はもう己を手離すことができない。この先に待つ運命がどんなものであっても、命尽きるまで歩くほかできなくなってしまったのだ。あの男のせいで。
 月詠の居室から下がった藍は、霜の薄く張った外廊をひとり歩く。やがて見えてきた棟の凍てたきざはしを下ると、そう広くはない空間の隅で丸まって眠っている子どもを見つけた。忌子、と呼ばれた緋色の眸は今は閉ざされていて、すぅすぅと規則的な寝息とともに肩が上下している。その頬に涙の痕が残っていることに気付き、藍は紙燭を持つのと反対の手を伸ばした。
 ……このむすめを、あいすることなどできるはずがない。月詠のために、実の祖父とまぐわってできたこの娘をあいすることなど。
 だけど、月は「かあさま」をあいしてくれたから。
 その無垢な手で「かあさま」をすくおうとしてくれたから。
 新たに生まれた涙を指ですくうと、娘に打掛をかけて藍はきびすを返した。翌朝。十年来のつき合いである伊南に、もしも攻撃がかかるそのときが来たら、と藍は乞うた。頃合いを見て月を「裏門から」外へ逃がすようにと。


 *


 数日後、桜は颯音が率いる葛ヶ原兵とともに、柚葉に見送られて都を発った。
 都から糸鈴までは陸路で十日ほど。都はまだ秋の様相だったが、ひとつふたつ山を越えて北上を続けるうちに、景色は冬へと変わった。風がひんやりと乾いている。枯れた木々の先に広がる空の色は淡かった。

「肩の具合はいかがですか」

 冬の道は行軍には向かない。まして女の身では。雪瀬の護衛をつとめていた千鳥という少女は、旅慣れない桜を気遣って、何かと細やかに世話を焼いてくれた。聞けば、同年の生まれだという。てきぱきと働く様子からはとてもそのように見えない。

「包帯を取り換えましょう」
「ありがとう」

 野営が続いているため、女同士身を寄せ合って眠ることが多い。根のしっかり張った大樹を見つけると、千鳥は枝に布をかけて風よけを作り、草の上に布を敷いた。袖を抜いて座れば、固く絞った布で千鳥が傷を清めてくれる。

「もうだいぶ塞がりましたね。よかった」
「私はふつうのひとより治るのが早いから」

 人形たちは致命傷を与えられない限り、外傷で死ぬことはなく、病気に罹ることもない。およそ数百年。傷み尽きるそのときまで生き続ける。比すれば、ひとの命はとても脆く、果敢ないもののように桜には感じられた。そんなことを深く考えたことは、これまでなかった。雪瀬がいなくなってはじめて、草も樹も、ここにいる千鳥たちも、奇跡のような偶然が重なって息をしていることに気付いたのだった。
 こども、と桜はあれ以来ぼんやり考えることがある。
 雀原の長老に言われたように、八千代に頼んでつくってもらえばよかった。あのときは、雪瀬がほかの女のひとに触れることが嫌で嫌でしかたがなかったのだけど、今はどうということもない些事に思えてしまう。八千代じゃなくてもいい。誰かに、雪瀬はちゃんとここにいたんだよってわかるように、血とか肉とか、肌で感じられる証をつくってもらえばよかった。そうしたら、こんなにさびしくて、こころもとない気分にはならなかったのかな。でも、その子は雪瀬ではないから、わたしがあいしたひととはちがうから、やっぱり何も変わらなかったのかな。
 そんな栓のないことを考える。
 息が潰れそうになって、桜は目を伏せた。
 
「手を握っておられましたよ」

 桜の肩に新しい包帯を巻きながら、千鳥が言った。
 緩く首を傾げた桜に、「領主さまが」と言い添える。

「桜さまが眠っているとき、夜のあいだずっと。手をつないでいないと、あなたがいなくなってしまいそうで不安なんですって。私は奥方さまはどうしてすぐに目覚めて、雪瀬さまを安心させてくださらないんだろうと少し不満でした」

 苦笑し、千鳥は包帯を結んで小袖を引き上げた。桜の肩に上着をかけ直すと、丁寧に衿を合わせる。

「だけど、あなたはちゃんと目覚めてくださった。桜さま。どうか、下を向かないで。あなたが雪瀬さまは生きているって言ってくださったから、私、立ち上がれたんです。私たちもきっと桜さまをお支えしますから」

 桜の手を両手で包み込み、千鳥は何かを祈るように目を閉じた。かじかんでいた手にじわじわと熱がこもる。うん、と桜は小さく顎を引いた。こらえきれず、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。柚葉や蝶が、都を発つとき、何度も同じ風に手を握ってくれたことを思い出す。目を瞑って何度もうなずいた。ありがとう、千鳥、と。
 

 *


 都を出て十日後。予定どおり葛ヶ原一行は糸鈴入りを果たし、網代勢と合流した。すでにひと月以上、網代兵は糸鈴の入口で陣を張っているらしい。朱鷺帝からの密書を携えた颯音は、到着するとすぐにあせびの陣幕に入り、話を始めた。
 
「お久しぶりでございます、桜さま」

 あせびの細君にあたる淡(タン)が残された桜たちを迎え、中へ案内する。南海の主だった者たちに挨拶を済ませて、身体を休ませた兵にねぎらいの言葉をかける。最後に桜は厩に足を向けた。長い道のりで疲弊した馬の鞍を外して、水と飼い葉をやる。

「ここまで連れて来てくれて、ありがとう」

 首のあたりに額をあてて囁くと、毬栗(いがぐり)の息子であるという牡馬は目に優しい色を湛えて桜に頬擦りした。世話役の小姓にあとを預けて、外に出る。吹きすさぶ風に目を細めて高台を歩いていると、額にひらりと軽やかなものが触れた。
 
「雪……」
「糸鈴は最北の土地だから、寒いでしょう」

 あせびとの話は終わったらしい。いつの間にか横に並んだ颯音が言った。
 目の前に広がる糸鈴の地は雪に閉ざされつつある。月詠が月や藍とともに立てこもる城館が遠方に見えた。息を吐くと、白い呼気が天に立ちのぼる。

「すこし、懐かしい気がする」
「はじめてなのに? 白雨の血がそうさせるのかな」

 白雨の血。颯音が何気なく口にした言葉を桜は咀嚼する。確かにこの身体に流れるのは、鵺(ぬえ)――白雨の血だ。桜がそれを意識したことはなかったし、空蝉は死んだ鵺の身体に近くにいた水子の魂を適当に入れたと言っていたので、実際、桜自身が白雨と関わりのある者だったかは疑わしい。けれど、里の方角に並ぶ千はあろう桜の樹や、万物が雪に閉ざされる白景は、葛ヶ原とは異なる、不思議なくるおしさがあった。
 水子とは、産声を上げずに流れた赤子、あるいは生まれてすぐに死んだ赤子のことをいう。それでは、桜を胎に宿してくれた母親や父親はこの大地のどこかにはいるのだろうか。魂の両親と呼ぶべきひとたち――。そんなたわいのないことを考える。凍てた風にくしゃみをすると、肩に羽織をかけられた。

「攻撃は三日後に始まる」

 羽織の衿を引き寄せて顔を上げた桜に、「日が中天にのぼるまで待つ」と颯音は続けた。

「右に、水路が繋がっているのは見える?」

 残照の射し始めた薄暗がりを颯音が示した。目を凝らすと、城館をぐるりと囲む塀の右方に細い水路があった。

「あとで地図を見せるけど、あの水路は川の流れの都合、特定の時間は枯れる。このひと月の間にあせび殿が調べたそうだよ」
「……通れるということ?」
「そのとおり。幸いにもあのあたりの守りは薄い。うまくすれば、中に入り込めるかもしれない」
「うまくすれば」
「たとえば、表門のほうに兵が引きつけられている最中とかね」

 まるで何でもないことのように颯音は言った。おそらく三日後の計画のことをわかりやすく説明しているのだと察する。颯音は自分たちが表門で兵を引き付ける間に、月皇子と雪瀬を探し出せと言っているのだ。無事見つけ出し、表門の開門が叶えば、攻撃は取りやめる。つまり、そういうことだろう。

「わかった」

 言葉少なに桜は顎を引いた。それきり城館へ視線を戻してしまった桜に、颯音は苦笑する。

「きみはもっと弱音を吐くものかと思ってた。こわくないの?」

 こわい。
 こわいというなら、希望が潰えるその瞬間のほうだ。
 桜は旅中にも携えていた白い折鶴を胸に引き寄せた。

「あのひとにもう一度会えるって、私はしんじてるよ」
「そう」

 翳りを帯びた琥珀の眸を颯音は伏せた。

「なら俺も、きみの信頼に賭けてみよう」

 それきり沈黙した男女に、糸鈴の風が吹きすさぶ。




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