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六章、常磐(4)




 もしも自分の身に何かがあったそのときは。
 葛ヶ原の者たちを頼む、とそれだけを男は颯音に託していった。
 雪瀬が颯音の居所に、護衛ひとりを伴い訪ねてきたのは、即位礼の動乱後すぐのことだった。事を起こす前にありとあらゆる想定をこの男はしていたようだ。そのうちのひとつが当たった。月詠が糸鈴への逃亡したあと、さほど時を要さず南海の網代あせびを動かせたのはこのためだろう。

『あまり縁起のいい話じゃないね』

 呟いた颯音に、雪瀬は肩をすくめた。その表情ひとつを取っても、懐かしさより変わってしまったもののほうがよぎる。颯音が知っていた頃の雪瀬も、しずかな少年だった。何かをあきらめて、投げ出している者の無音のしずけさだった。十年ぶりに再会した青年もやはり多くを語らず、たたずまいは端然としている。たぶんこの男は十年、もがいて、戦って、望みを絶たれて、それでも抱えたものを捨てないで、ここまでやってきたのだろう。だから、しずかだった。年輪を重ねた樹木のように、静穏とした面持ちで颯音の前に座しているのだった。
 いくつかの事務的な話を終えると、雪瀬はさしたる未練もみせず、立ち上がった。草履を履きながら、ふと何かを思い出した様子で口を開く。
 
『もう葛ヶ原に帰ることはないの。颯音兄』

 帰る。
 かえる、という言い方を雪瀬はした。
 何気ないその言葉が胸を激しくかき乱したのを颯音は感じた。かえる。かえる、場所。それはこの十年の間、颯音が戒めのように持たないでいたものだった。この先もずっと持てずにいるかもしれないものだった。
 ……かつて、何よりもあいした場所が自分にはあった。

『いつか』

 考えるよりも前に颯音は口にしていた。
 
『帰るよ、かならず』

 どうしてたいした考えもなく、そんなことを目の前の男に約したのか颯音にはわからない。だけど、そのとき唐突に颯音は理解した。たとえ離れていても、俺が骨をうずめるのはあの風の地なのだと。あの場所で生まれ、あの場所にかえる。そう確信したのだった。
 颯音のこたえを聞いた雪瀬は相好を崩して、満足そうにわらった。

 各陣営の動きを確認し終え、颯音は上着を一枚羽織っただけの軽装で外に出た。すでに夜も深い時間だったが、篝火は絶やさず外で燃されている。斥候隊は数刻前に陣を発っていた。
 戦を控えた陣幕はどことなく物々しい。白い息を吐いて、颯音は武具の中からひとはりの弓を取った。樹にくくりつけられた的を見つけると、飛距離をあけて、矢をつがえる。きりきりと。緊張を孕むこの危うい静寂が颯音は好きだ。昔から変わらない。迷いがあるときは弓を引く。つがえた矢が的に吸い込まれていくそのとき、颯音のなかの混然とした思考もすっと一本の矢のようになって、ひとところにおさまる。そのために、弓を引く。
 こん、といささか間の抜けた音を立てて、矢は的の中央を射た。

「相変わらず、嫌味みたいな腕前だな」

 緊張に張った肩の力を抜くのと同時に、声をかけられた。彼女がそばに立ったことは意識の端では気付いていたから、そう驚かずに颯音は顔を上げる。

「好きなんだよ、弓が」
「奇遇だ、私も弓は好きだよ。何より、弓を引く瞬間のまっしろく頭が研ぎ澄まされるかんじがいい」

 隣に立った女に弓を渡す。並の女では持てばよろめくような重量があるそれを薫衣は平然と受け取った。しなやかな筋肉のついた腕や肩も、固い手のひらも、女がいまだひとかどの武人であることを示していた。薫衣は頬にかかった髪を耳にかけ、矢筒から矢を引き抜く。女がすいと弓を構えたので、颯音は数歩下がってその場を見守った。
 篝火の炎が女の横顔を照らし出す。
 その目。曇りのない射るような眼差し。
 ああ、いいな、と思う。しなる弓を忘れて、颯音は女を抱き寄せたくなった。いとおしい。いとおしいという衝動がこんなに長い時間、埋火のように燃え続けていたことに自分で少し驚く。
 やはり間の抜けた音を立てて矢が的を射た。
 お見事、と颯音は声をかける。薫衣は薄くわらっただけだった。

「嚆矢はあなたがやるといい。五條薫衣」
「承った」

 雪のちらつく空を仰ぐ。離れるでも近付くでもなく、弓を引くぶんの距離をあけたまましばらくの間。やがてふたり揃って視線を解くと、言葉は交わさずそれぞれの持ち場へ向かった。

 明くる朝。糸鈴の城館の前に、南海兵と葛ヶ原兵がぐるりと囲う形で立った。葛ヶ原本隊が南海と合流したことは斥候でつかんでいたらしい。迎え撃つ城館の兵も隙なく配置を済ませている。
 やがて日がのぼり、茜に染まった空の色がゆっくり薄らぐ。葛ヶ原の先鋒から一本の矢が放たれたのは刹那。弓を引いたのは、若い女武者だった。切り揃えた淡茶の髪を揺らして、さっと弓を下ろす。暁天を翔けた矢は、のぼる日輪を射抜いたかのように見えた。
 見張り台の兵が鐘を鳴らす。
 これに端を発し、双方の刀が閃いた。
 糸鈴城館の攻防の始まりである。


 表門付近で両軍の交戦が始まった頃、桜は真砂とともに城館の右方に回っていた。糸鈴兵が表門に引き付けられている間に城館に忍び込む組のひとつだった。あたりは隣接する林のせいで人気がない。草むらに隠れながら進み、水路に出ると、思ったよりも水の深さがあった。

「きのう降った雪のせいだな。流れ込んでいるんだ。どうする?」
「時間がない」

 刻限は日が中天にのぼるまでだと、颯音は言った。水路の水がはけていくのを待つ余裕はない。桜は袴をたくしあげると、同様に小袖の袖もたすきで縛った。水は凍るように冷たい。数歩進むと、小柄な桜ではあっという間に腰丈ほどまで水につかった。

「くっそ、こんなところまで来て、水浴びかよ」

 舌打ちをした真砂が桜の身体に腕を回す。そのままひょいと俵のように担がれてしまって、「お、おろして」と桜は真砂の肩を叩く。

「あっそーお? おろしちゃう? おろしていいの? 水路に出る頃には、使い物にならなくなってるぜアナタ」
「でも、」
「黙って俺に身をゆだねなさいって」

 冗談めかして笑い、真砂は片手で杖を操りながら水路を進んでいく。水が完全に凍っていないのは幸いだった。それでもところどころ薄氷を浮かせた水面をかき分け、真砂は城館の内と外を隔てる柵に手をかける。柵はかなりの高さがあり、よじのぼることは難しそうだった。

「斧でもありゃ、一発なんだけどねえ」
「どうしよう」
「んー、桜さんちょっと背中に移って。で、杖持ってて」

 何をする気だろうと疑問に思いはしたが、素直にそのとおりにする。桜を背負い直すと、真砂は柵にかかる錆びた錠を短刀で叩き割った。義足のほうの足で蹴れば、柵が内側に倒れて沈む。

「……すごい」
「こういうのは得意ですぜー、俺。ん。ひとは、いねえな」

 注意深くあたりを見回し、真砂は中へ踏み入った。石や木で天井を補強した水路は、等間隔に明かりが灯されている。そのひとつを拝借すると、桜は真砂の前方を照らした。薄闇に水の音だけが反響する。

「なーんか辛気臭いからさあ、終わったあとのことを考えようぜ。葛ヶ原に帰ったら、アナタは何をする?」

 どんな場所でも口を開かずにはいられないのはこの男の性らしい。さすがに今は周囲を気にして声を落としてはいたが。水面に揺らめく光へ目を向けて、ううんと桜は考え込んだ。

「おしるこ、食べたいな……。あったかいの」
「キミは相変わらず食べ物のことでいっぱいですネー」
「あと、八千代に頼んで、雪瀬の子どもをつくってもらおうと思って」
「ぶっ」

 何故か真砂は急にむせるような声を上げた。咳き込みそうになるのを手で押さえる。「何を言い出すかと思えば……」と呟く声は呆れ交じりだ。

「それがキミの結論なの、桜さん? ちょっと安易なんじゃなぁい?」
「そう、なのかな」
「残念だけどさ、雪瀬はアナタ以外の女は抱けないと思いますよ。器用じゃねえから」
「……わたし、ひとに生まれたかった」
 
 相手が真砂だからだろう。弱音がぽつんとこぼれた。子どもが欲しいのかと、かつて紫陽花に訊かれたとき、桜はわからないとこたえた。もともと命の温床となる胎をもたない桜である。子どもが欲しいだとか欲しくないだとか、そんなことを突き詰めて考えたことがなかった。だけど、今はわかる。どうしてあのとき、かなしくて、せつなくてたまらなかったのか。桜は雪瀬と交わりたかったのだ。心、だけじゃなくて。からだ、だけでもなくて。桜はひとり、だから。ひとりで生まれて、ひとりで死んでいくものだから。だから。

「あなたは俺の出会ったひとの中では誰よりも、人間らしい女だったよ、桜さん」

 瞬きをした桜に、真砂は小さく笑んだ。

「あなたが俺の最愛のひとだったら、いくつだってあなたが望む結末を用意してあげるのにね。相手がぜんぜん、自分の思いどおりにならなくて、困ったモンですよね、お互い」

 古い水路はところどころ崩れかけていたが、幸い奥まで続いているらしい。片足が義足の真砂には歩きづらいにちがいなかったが、そういったそぶりはつゆとも見せないのが真砂らしかった。
 ――蝶があなたを助けろって言うから。
 真砂の言葉は明瞭だ。ほかに下手な慰めも、励ましもかけたりしない。ただ手伝ってくれている。桜が望む場所に行けるように、支えてくれている。

「……ありがとう」

 ずっと、いつもわたしを助けてくれて。
 返事はなく、ただ肩をすくめる気配だけがした。なんとなく口を閉ざしたまましばらく進む。そのうち、終点を示す微かな光が遠くに見えてきた。




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