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六章、常磐(5)




 瞼の上を撫でる風を感じて、雪瀬は目を開いた。
 いつの間にか葛ヶ原に戻っていたらしい。腰丈まである蒼い草原がいっせいに波打ち、小さな花が風に流され飛んでいった。知らず伸ばした手が思ったよりずっと小さいことに気付いて、己へ目を向ける。十歳ほどの少年が草原に半ば埋もれるようにして座り込んでいた。

「あれ……」

 俺はどうしていたんだっけ。なんでこんなところにいるんだっけ。
 とても長い夢を見ていた気がする。
 よい夢だった気もするし、悪い夢だった気もする。とても想像のつかないくらい悪いことがたくさん起きたし、恐ろしいことや逃げ出したいこともいっぱいあった。でも、なんとかくぐり抜けた。一緒に歩いてくれるひとがいたから、途中で投げ出さずに、立ち向かうことができた。だから、そう悪い夢でもなかったんだろう。
 口元を少し緩めて、立ち上がる。
 とたんに、強い風が押し寄せた。身体ごとさらっていくような風からは、初夏の雨上がりの香がする。懐かしいかおりだ。雪瀬はずっと昔からそれを知っていた。幼い頃、よく並んで歩いたきみ。熱を出したきみの汗ばんだ手のひらを俺はいつも握っていた。どこかへ行ってしまわないように、離れてしまうことのないように。
 心を決めて、今握っていた手をひらく。するりと何かがほどけて、風と一緒に天上へのぼっていった。掲げていた腕を下ろして、雪瀬は顔を上げる。
 大地の先。
 空の果て。
 俺はずっと、ここはさびしくて、何もない場所なんだと思っていた。
 こんなに、うつくしい場所だなんて、思いもしなかった。

「……凪」

 見上げた天穹の、その蒼さに瞼を閉じた。



 くすんくすんとしゃくり上げる子どもの声で、雪瀬は目を覚ました。とたんに夢の中ではおぼろになっていた身体の感覚が鮮明になって、焼けつくような痛みがせり上がってくる。急にむせこみ始めた雪瀬に驚いた様子で、「あ、」と格子の向こうに座っていた子どもが声を上げた。

「ここ……」

 吐き出した血を拭って、周囲に視線だけをめぐらせる。床に筵が敷かれていたが、外と内を隔てる木格子には薄い霜が下りて、吐く息も白い。格子越しにこちらをうかがっているのは、月のようだった。幸いにも手足は縛られていない。腹のあたりを探ると、簡易だが手当の痕があった。

「これ、おまえがやったの?」

 目の前に座るのが皇子であることをつい失念していた。言い直そうとすると、その前に月がふるふると首を振って、「あう」と呟く。半身を起こす気力がすぐにはわかず、雪瀬は力なく横たわったまま月を見上げた。しゃくり上げる子どもの肩が小刻みに震えて、新たな涙がまた頬を伝う。ずっと泣き通していたのか、涙の筋がいくつもできていた。ごめんなさい。傷つけてごめんなさい。何かを乞う声なき声が雪瀬には何故か聞こえた。
 手を伸ばしたのに、深い意味はなかった。もともと雪瀬はこういう子どもを放っておけない。濡れた頬を包み、目元にかかった前髪も一緒にのけてやると、緋色の眸が瞬きをした。

「だいじょうぶ」

 あやすように雪瀬は少女の髪を撫でる。

「もう、だいじょうぶだから、泣かなくていい」

 そのとき、頭上で轟音が上がった。びりびりと天井が震え、脆くなっていた内壁の表面が剥がれ落ちる。格子をつかんで、雪瀬は月の頭を引き寄せた。すぐそばにいくつか破片を落とし、振動は一度止んだ。

「何だ……?」

 月がここにいることを考えると、糸鈴から別所に移ったとは考えづらい。北方らしい寄木の建築にも見覚えがあった。もしも雪瀬の説得が失敗したときは、攻撃の命を出すと朱鷺は言っていた。意識を失っていたのが何日になるかはわからないが、ともしたら朱鷺の命を受けた網代軍が攻撃を始めたのかもしれない。格子扉を押し開こうとすると、さすがに外側から鍵がかかっていた。何度か試みたものの、びくともしないので諦め、「月」と雪瀬は子どもの腕をつかんだ。

「鍵を探してきてほしい。まだ間に合うかもしれない。ここから出たいんだ」
「あう……」
「かえろう」

 その言葉は自然と雪瀬の口をついて出た。
 
「ここから帰るんだ、皆で」

 月は大きく目を瞠らせたあと、こくんとうなずく。小さな手が銀簪を差し出した。鋭い切っ先のほうではなく、今度は花の透かし彫りがなされたほうを。受け取って、一瞬だけ手のひらを重ね合わせたあと、背を押した。決然とした足取りで離れていく少女の背を雪瀬は見送る。格子に身体を預け、そのままずるずるとうずくまる。探った腹のあたりからはにわかに血が滲んでいた。少し動いただけでこれか、と舌打ちしたくなる。
 雪瀬は再び手のうちへ戻ってきた花嫁簪を眺めた。ひとを刺し抜ける鋭い切っ先は雪瀬がつくらせたもの。だけど、やっぱりあの清らかな手にはふさわしくなかったなと思う。護身用にだって渡すべきじゃなかった。だから、めぐりめぐってこんな羽目になる。
 祈るようにひととき簪を握ると、雪瀬はそれを懐にしまった。月にはああ頼んだが、少女が帰ってくるのを牢の中でただ待っているつもりはなかった。
 手を床につけて、わずかな風の流れを探る。
 建物の中であっても、完全に風の流れが途切れることはない。そういうものを感じ取ることなら、幼い頃からごく自然にできていた。術師の才能が雪瀬にはない。風を操ることも動かすこともできたためしがなかった。だけど、あの懐かしい夢を見ていたときに、ひとつわかったことがある。
 今や、壁が内部から震えるほど、四方の隙間から風が集まってきていた。さらさら、さらさらと。水脈にも似た風音が壁を、天井を、床を吹きさらう。痛みが暴れ始めた腹を押さえて、雪瀬は地に額づくようにしてかがんだ。
 風はひとのたましい、と誰かが言った。
 それは母なのかもしれなかった。
 少し果敢なげな微笑い方をする、幼馴染の少年かもしれなかった。
 あるいは。会ったこともない遠い時の向こうの誰かなのかもしれない。
 たましい。たましいの残滓。
 風術師はたましいと生きる。
 だから、だからね。うしなったように見えたものたちもほんとうは、きみのそばにあるんだ。そばに、いるんだよ。雪瀬。
 ――それなら、力をかしてくれ。
 まだ、あきらめたくない。失くしたくないんだ。こんなちっぽけな手でも、多くをすくいとることには不向きな手でも、それでもまだできることがあるって。すくえるものがあるって。
 聞こえるだろう。
 俺はここにいる。

「おりてこい!!!」

 直後、大きくたわんだ格子が爆ぜた。吹き抜けた爆風が壁を破り、木格子が一気に崩れ落ちる。ふわりと指先をやわい風が流れ去り、あたりには半壊した牢だけが残った。

「こんなこと何度もやったら、しぬな」

 苦笑しかけて、ぶり返した激痛に眉根を寄せる。今ので傷口が開いてしまったらしい。触れると、衣をぐっしょり濡らす重い感触が手に伝わった。頬を歪めて、倒壊した牢からおぼつかない足取りで外に出る。からん、ときざはしを転がる石の音が聞こえたのは、刹那だった。まぶしげに目を細めた雪瀬は、そこに立つ人影をみとめて瞬きをする。




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