それからしばらくあと、イジュは王兵に引っ張り出されて、月白宮とは別の場所に運ばれた。王宮の中のどこがしかであるようだったが、イジュにはどこであるのかわからない。広間には大きなテーブルが奥のほうにあり、そこにやたらに厳格そうな顔をした老人たちが五人、銀縁眼鏡に黒の礼服を着こんで並んでいた。真ん中の席は何故か空いている。イジュは知らなかったが、これは三月前に月白宮で起きた宝石泥棒の処分を決める法廷なのだった。 王国の政務諸事は危急を要するもの以外は、皇后の死によって停止していた。喪にあたる三ヶ月が過ぎたため、宝石泥棒の件に関して、改めて処分が下されることになったのだった。 広間の真ん中に立たせられたイジュはぐるりとあたりを見回した。厚いカーテンのかかった部屋は薄暗い。傍聴席のほうに厳しい表情で場を見守るカメリオの姿があったが、イライアやヒヒ、ルノの姿を見つけることはできなかった。 「イジュ=ノーネーム」 呼ばれて、はっとして前へ視線を戻す。すると、同様の黒の礼服に身を包んだ男が無言で羊皮紙と羽根ペンとをイジュに差し出した。羊皮紙には『宣誓』と書かれている。 「樹上におわします我らの神に誓いなさい。今から語る告白に嘘偽りはないと」 別に神に誓わなくともイジュは嘘偽りを述べるつもりはなかったが、ここでいさかいを起こしても仕方がなかったので、羊皮紙に書かれている聖句を述べた。それはイジュのよく知っている言葉だったので、目を瞑ってでも言えた。声が朗々と広間に響く。閉ざされたカーテンの合間から燦然と朝の眩い光が差し込んだ。イジュは、「イェン・ラー」――ユグド語で、主の御心のままに、という意味の言葉を述べると、慣れた手つきで十字を切った。一瞬、法廷の空気が確かに静まる。彼らがいったい何をその目に見たのか、気付かないままイジュは羽根ペンを走らせ、ほんの少しためらってから、 イジュ=ノーネーム とユグド語で綴った。このとき、イジュは自分がノーネームではなく『イジュ』であることをたぶん自分の神の前で認めた。 「……コ、コホン。それでは、これより第一五七六回法廷を始める!」 かん、と右に座る男が木槌を鳴らした。相も変わらず真ん中の席は空席だったけれど、それは言及せずに始めるようだった。 「まず、嫌疑人は名前を」 「イジュ=ノーネームです」 「歳は?」 「たぶん、十五」 「性別」 「男です」 「父の名と母の名は」 「母の名はマリア。私を生んですぐに死んだと聞いています。父の名は知りません」 「つまり、孤児であると?」 「ひとは皆等しく神の子であると聞きましたが」 「ふむ、聖書に詳しいようで結構。出身は?」 「王都です」 こういった質問が延々と一時間ほど続いた。 宝石泥棒の話になったのは、王女ルノ=コークランに拾われた経緯を話し、月白宮での日々を話し終えたあとのことだった。 「これに見覚えはあるかね?」 眼鏡をかけたその厳格そうな老人は黒ローブの男が運んできた蒼い象牙の宝石箱を示した。イジュはうなずく。それはイジュがキェロ=ツェラを名乗る男から渡されたものだ。蒼い春の空のような色合いが王女の眸の色のようだと思った宝石箱。 「きみはこれをどこから持ってきた? よもやきみのような者が買える代物でもあるまい」 「盗んではいません。それはひとから預かりました」 「ひと? 誰だい」 眼鏡の奥の眸がきらりと光る。 「黒髪の……」 それはすでに王兵に何度も訴え、信じられないと笑い飛ばされてきた話だった。また同じことが起こるのかと思うとイジュの心は暗くなる。そのときだった。 「いやー悪い悪い! 遅れた!」 ばたん、とイジュの背後の扉が開かれ、銀髪の男が現れる。 さして張っているわけではないのに、不思議と通りのよい声が法廷に響いたとたん、それまでのんびり傍聴席に座っていた男たちが一斉に立ち上がり、次の瞬間その場にひれ伏した。前のほうへ目を戻すと、礼服の五人の老人たちも同様にしている。ひとり怪訝な顔で突っ立っているイジュに自然男の視線が注がれた。春の明るい空のような蒼。しかしそれにはっとする前に、イジュの意識は男の隣に恭しく立つ黒髪の男のほうへ持っていかれた。 「……あ、あな、あな、」 「穴?」 「あなただ! そうです、このひとです! 私に宝石箱を渡したの、このひとです―――!!」 イジュの渾身の叫びに一同は目を丸くする。 何故ならば、イジュの指差す黒髪金眸の男の前に立つ銀髪の男は。――ユグド王、スゥラ=コークランそのひとだったからである。 「話はすべてわかった」 ユグド王、スゥラ=コークランは神妙な面持ちで顎を引くと、組んでいた腕を解いて息をつく。真面目腐った表情は崩さないまま、礼服の老人の手に大切そうに抱えられたカメオの宝石箱を見た。 「ええと、うん、その、じいさん、な? 法廷まで開いてもらって俺も心苦しいんだが、それは俺ので、その少年に渡したのもまぁ……、間接的に言えば俺だ」 「なんですと……!?」 ひときわ高い悲鳴のような声が老人から上がる。 「いったいどういうことですか、スゥラさま! 説明くださいませ!」 スゥラ王は唾を撒き散らしながらまくし立てる眼鏡の老人に面倒そうな視線を送ってから、「……だからな」と歯切れの悪い口調で続ける。 「その宝石箱はルノにあげようと思っていたんだ。誕生日だったからな、あの子の。でもどうしてもこっちに戻れそうになかったから、そこのクロエに頼んで、ルノのところで働いているっていう少年に預けたんだよ。な?」 クロエ、と呼ばれたのは、イジュの前でキェロ=ツェラと名乗った黒髪金眸の青年だった。そうだ、そのとおりなのだ、と思って、イジュはこくこくとうなずく。 つまり、こういうことなのだった。 多忙な王、スゥラ=コークランは東の視察先から愛娘ルノに誕生日祝いの品を贈るために、視察先で久々に再会を果たした十年来の『友』に象牙の宝石箱を預けた。友人、キェロ=ツェラは王都にのぼり、月白宮でルノ姫を探したが、あいにくと姫は不在である。しこうして、姫のそばで働いているという少年イジュに、ルノ姫さまに渡すように、と言い含めて宝石箱を預けたというわけだ。スゥラ最大のミスは、猫のように気まぐれで頼りにならない友人に大切な役目を負わせたことであり、イジュ最大のミスはヒヒの一件で、預けられた宝石箱の存在をすっかり忘れてしまっていたことだった。さらに、スゥラは多忙を極める王であり、月白宮の片隅で起きた宝石泥棒のことなど今日の今日まで知らなかったため、イジュの疑いを晴らすこともできなかった。 「しかし、ならばなくなった他の宝石はいったい……」 眼鏡の老人が眉間に皺を寄せて首を捻っているときだった。 再度、きっちり閉められていた法廷の扉が荒々しく開けられた。息を切らして現れたのは、月白宮の女官長イライアであり、その顔は血の気を失い、真っ青になってしまっている。 「王! ご公務中、失礼致します! ルノさまがルノさまが」 「なんだ、ルノがどうした」 「樹に登ったまま、降りられなくなってしまったのでございます――――!!」 えええええ!?とあたりは違った意味でざわめいた。 |